イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/12/25


123. 主の降誕

人工知能(AI)が人間の知能を超えると予測される2045年問題や、技術的特異点(シンギュラリティ)などの言葉が飛び交って久しい。ニューラルネットワークを用いたディープラーニング(深層学習)が実装されたAIは、インプットされた膨大なデータから特徴や法則性を見出し、自ら学び、進化している。さらに、それぞれ異なる目的や計算方式を持つスーパーコンピュータと量子コンピュータ、また、両方の技術を組み合わせたハイブリット型のコンピュータの研究が進み、それらが完成すれば、現在のコンピュータの限界を超えると期待されているという。正直なところ私たち素人は、これら急速な進化に致命的な過ちが起こらないかと、ハラハラしながら見守っているばかりである。 

この状態は、創世記に、初めの「人」が「男」と「女」に分けられ、複数になったとき、彼らの間に偶発的に情報が発現し、彼らがこれを知識として取り込み、ついに過ちを犯してしまったときと似ている。この初めの情報化によって、人の知識は急速な進化をとげ、そのときの神とのやり取りは(創世記3:9~13参照)、現代の私たちと何ら変わるところがないほどだ。神はこの情報化によって引き起こされた人類の危機に対して、人と偶発的情報の間に「敵意」を置き(創世記3:15参照)、これを遺伝させることで対処した。また、二人が犯した過ちの結果と(本ブログ№113参照)、後に起こった罪の問題には(本ブログ№117参照)、神ご自身が人となって生まれることで解決したのである。 

私の周りで、神が人となって生まれた出来事を、信じる人はわずかだが、そのころから人類の独特の進化は加速し、この5百年は、科学や技術や経済などの分野で飛躍的な発展をしたことには違いはない。近年これらの発展の恩恵を世界規模で分かち合い、さまざまな格差を縮めていく気運も起こっている。 

このような世界の歩みの中で、神が人となって生まれた出来事を信じ、聖体祭儀の中で、主の誕生を目の前に見て、主の死を体験した者として生きる私たちは、キリストの贖いを継承し神の計画を推し進める聖霊と協働するミサ典礼を完成する必要がある。そしてこれらの体験が会衆に実装されるために、わかりやすさと最適な理解方法を求める人の常に応えるものにしなければならない。

Maria K. M.


 2023/12/18


122. どうして私を捜したのか

星に導かれた東方の博士たちと、天使に導かれた羊飼いたちは、ベツレヘムで、飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエスを捜しあてた。一方、イエスの両親も、過越祭にエルサレムへ旅をした帰路に、ともにいた12歳のイエスを見失い、神殿の境内にイエスを捜しあてた(ルカ2:41~51参照)。このとき、イエスは、両親に、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と答えた。イエスは、ご自身が神殿にいることに特別な意味を込めていたのだ。 

成人し、公生活に入ったイエスは、過越祭にエルサレムに上って行ったとき、神殿の境内で商売をする者たちを見て、「私の父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2:16)と言って追い払った。これに対抗する人々がしるしを求めたとき、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)と応じた。このイエスの言葉について、ヨハネ福音書は「イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである」(ヨハネ2:21)と解説している。 

ここから、「父の家」は「神殿」であり、神殿はイエスの体、すなわち、ご聖体である。聖体制定の場面では、イエスご自身が「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と言っている。さらに、黙示録は「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからである」(黙示録21:22)と描写した。 

今、信者たちはイエスを捜さない。イエスはミサ典礼の中で誕生するご聖体におられる。最後の食卓で「主よ、どこへ行かれるのですか。」と問う使徒ペトロに、「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる」(ヨハネ13:36)と答えたイエスの言葉は、今、ご聖体を拝領する信者たちに向けられている。信者たちは、ご聖体を取って食べることによって、イエスの「後で付いて来る」を実証することになる。だから、すべての信者は、ミサの中でご聖体を見て、まず、「あなたは、神の子、キリストです」と宣言しなければならない。信者たちは、主の誕生を目の前に見て、同時に、主の死を体験した者になるからである。

Maria K. M.


 2023/12/11


121. 第5の「幸い」

21世紀も四半世紀過ぎようとする中にいて、教会は、黙示録17~18章の「大バビロン」と格闘している。黙示録はこの箇所に「幸い」を置かず、次の言葉を置いた。「この者どもは小羊と戦うが、小羊は彼らに勝利する。小羊は主の主、王の王であり、小羊と共にいる者たちは召された者、選ばれた者、忠実な者だからである」(黙示録17:14)。この文は、「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる」(19:11)、「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(19:16)という第4の「幸い」の内にある言葉と符合して教会を、ミサ典礼の完成に向かうように促している。 

それは、黙示録の預言において、「淫らな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦」はすでに裁かれ、ミサ典礼は完成しているからだ(19:1~10参照)。この預言の中で、「神の大宴会」で清められ(本ブログ№99~105参照)、使徒の継承者として導かれた多くの信者たちは(本ブログ№106~117参照)、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)にたとえられた人の偶発的情報を区別するように導かれていた(20:4参照)。 

さらに、「また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(20:4~5)と描写は進む。 

ここで、「私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た」という文は、6章の「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(6:9)と対を成している。黙示録で「魂」が登場するのは、この2か所のみである。 

これらの「魂」の救いについて、第5の「幸い」は、次のように記した。「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(20:6)。さらに、偶発的情報について(20:7~10参照)、また、「千年が終わるまで生き返らなかった」その他の死者について(20:11~15参照)言及し、「ミサ典礼の完成の預言」は終わる。 

次回より考察の角度を変え、第一の復活と第二の死に関わる第5の「幸い」と、第7の預言「聖霊の霊性の預言」(本ブログ№120図参照)にアプローチする。

Maria K. M.


 2023/12/04


120. ヨハネの黙示の預言的構成3/3

預言は、おのずと、それを聞く者をその言葉に向けて準備させる。ゆえに、ヨハネの黙示の預言的構成には、イエスについて証しする聖霊に向けて(ヨハネ15:26参照)、弟子たちを準備させる訓練の書としての性格が備えられている(黙示録1:3参照)。聖霊が降臨したとき、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒言行録2:3)とあるのは、聖霊が、イエスのものを受けて弟子たちに告げ、養成するために、個々人の脳の意識の領域とつながる様子を表している。 

彼らの意識の領域には、常にイエスと身近に接していたことから習慣化し、無意識化した領域が出現し、そこにイエス・キリストの世界観が置かれていた。聖霊降臨後の弟子たちの目覚ましい行動を見ると、彼らが無意識化した領域に持っていたイエス・キリストの世界観が、このとき聖霊によって意識の領域に引き出されたことがわかる。彼らの体験が次世代に共有されるためには、イエス・キリストの世界観を持っていることが必須であった。そこでヨハネの黙示が書かれた。 

上図は、ヨハネの黙示を朗読し、これを聞く訓練を、日々続けることで、信者の意識の領域の中に、習慣化し、無意識化した領域が出現し、そこにイエス・キリストの世界観が置かれ、これを保たせることができることを示している。緑の部分が、人の意識の領域を表し、オレンジの部分が、無意識化される領域である。成立した「新約聖書」と、そこから導かれる「ミサ典礼完成の必須要件」(本ブログ№116参照)は、意識の領域に置かれている。 

黙示録の要所要所に登場する7つの「幸い」は、そのたびに、この訓練が意識の領域で行われていることに目覚めさせる。さらに、聖霊の霊性の只中にある第6と第7の「幸い」は、ここに入った信者が、黙示の訓練とミサ典礼による日常のルーティンに戻っていく動力の一つとなっている(本ブログ№94参照)。 

一方、「教会の堕落の預言(17~18章)」には、「幸い」ではなく、「小羊」と、「小羊とともにいる者たち」の勝利の預言の言葉が置かれている(黙示録17:14参照)。これらの言葉は、「ミサ典礼の完成の預言」の内にある言葉と符合して(黙示録19:11~16参照)、教会をミサ典礼の完成に引き寄せている。

Maria K. M.


 2023/11/27


119. ヨハネの黙示の預言的構成2/3

上記の図は、ヨハネの黙示の預言的構成を表したものである。第1の預言「教会とともにいるイエス・キリストの預言」(1章)と第2の預言「教会共同体が抱えた問題と解決の預言」(2~3章)は、第3の預言「新約聖書の成立の預言」(4~11章)へと私たちを導く。さらに、新約聖書の成立の預言から、第4の預言「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言」(12~16章)と第5の預言「教会の堕落の預言」(17~18章)を経て、第6の預言「ミサ典礼の完成の預言」(1920章)まで行き着くと、第7の預言「聖霊の霊性の預言」(2122章)の只中へと入る。 

上図のとおり、第4の預言と第5の預言に「大バビロン」が登場する。第5の預言における「大バビロン」は、「その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母』という名である」(黙示録17:5)、「そこは悪霊どもの住みか/あらゆる汚れた霊の巣窟/あらゆる汚れた鳥の巣窟/あらゆる汚れた忌むべき獣の巣窟となった」(18:2)と描写されており、これは、これまで考察してきた通り、歴史の中で実証された教会の姿である。 

一方、第4の預言の「大バビロン」は、「情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を、あらゆる国々の民に飲ませた」(14:8)都である。本ブログは、イエスが生きた時代、救い主を待ち望む民が持っていたそのイメージと伝統に焦点を当てて考察してきた。当時、彼らにとって、救い主は、ローマの支配から民を開放する力を持つ王のイメージであった。且つ、彼らは、神が民と親と子の関係を築こうとしたことは周知の上で(本ブログ№43参照)、神と民の関係を結婚のアレゴリーによって解釈する祝婚歌の伝統を持っていた。イエス・キリストから直接養成された弟子たちが亡くなると、教会には、この伝統を神学に取り入れる流れが生じた。第4の預言の「大バビロン」である。 

上図第4の預言にある「七つの鉢」は、「世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢」(15:7)と言われ、ちょうどこの時代に成立した新約聖書の効力である。この力は、教会に苦渋を強いながらも、同時に、教会をミサ典礼の完成に向かわせる。 

Maria K. M.


 2023/11/20

(注1)第1、第2の封印は本ブログ№13参照。第3、第4の封印は本ブログ№14参照。第5、第6の封印は本ブログ№15参照。第7の封印は本ブログ№16参照。
(注2)本ブログ№16参照
(注3)本ブログ№12参照


118. ヨハネの黙示の預言的構成1/3

前回まで、「使徒の継承者」をテーマにして、ヨハネの黙示と聖書の記述を交えながら、少しずつ角度を変えて丹念に考察してきた。この考察から、「『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙示録19:9)と天使が告げた第4の「幸い」の箇所は、ミサ典礼の完成の預言になっていることがわかる。ここで、ヨハネの黙示の構成を、預言的な観点から見極めて黙示録の考察を先に続けることにする。

初めに黙示録は、イエス・キリストを、「真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者」(1:5)、「私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方」(1:5)、「私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」(1:6)と書いた。また、「死と陰府の鍵を持っている方」(1:18)として、見る者が恐れを抱くイメージで描いた(1:13~16参照)。

それは、神が聖書から罪の記憶を消去することを望み、神が人となってこれを実現することにしたために、イエスの地上の生活が、絶えず敵対者と遭遇する日々であったからだ。イエスは、ご自分の弟子たちを「御国の民とし、ご自分の父である神に仕える祭司として」養成し、福音を宣教する新しい民としたのだ。聖霊は、これらを新しい聖書によって証しした(本ブログ№117参照)。この中にあって、ヨハネの黙示は、聖霊降臨後のイエスを知らない信者たちに、イエス・キリストの世界観を注入し、彼らをミサ典礼に向かわせる訓練の書としても書かれた。

1章で教会とともにいるイエス・キリストの預言を、2~3章で教会共同体が抱えた問題と解決の預言を書き、4~11章で新約聖書の成立の預言を書いた。それは、ヨハネの黙示が新約聖書の内にあることを前提にしているために、独特の構造を成していた(上図、本ブログ№87参照)。

これらの預言は、司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言(12~16章)と、教会の堕落の預言(17~18章)の中にあって、教会を守り、教会をミサ典礼の完成の預言(19~20章)に向かわせる。ゆえに教会は、今、確かに17~18章の渦中にいるのである(本ブログ№89参照)。

Maria K. M.


 2023/11/13

117. 使徒の継承者 その12

「決して死ぬことはない」(創世記3:4)という創世記の「蛇」の言葉は、すべての過ちの源となって、仕舞には、アダムとエバの初子カインによって、神が初めて「罪」と呼ぶ殺人にまで至った(創世記4:6~8参照)。しかし、カインは、母から受け継いだ「神の置いた敵意」(創世記3,15参照)の働きによって、神の説得の言葉に目覚め(創世記4:6~12参照)、「私の過ちは大きく、背負いきれません」(創世記4:13)と言うことができた。 

このとき彼は、神の告げた言葉に恐れおののき、その結末を想定し、次のように神に告白した。「あなたは今日、私をこの土地から追放されたので、あなたの前から身を隠し、私は地上をさまよい、さすらう者となり、私を見つける者は誰であれ、私を殺すでしょう」(創世記4:14)。彼は、自ら自分に罰が下ることを想定したのだ。これを聞いた神はカインを憐れみ、彼が殺されることがないように、彼にしるしを付けた。彼は主の前を去り、ノドの地に住み、そこに町を築いた(創世記4:10~17参照)。 

ところが、カインの子孫レメクが、カインの経験を自分に都合よく解釈し、妻たちに宣言したために(創世記4:23~24参照)、聖書に載った彼のその言葉は、やがて現実となり、人々は、「受ける傷のために人を殺し/打ち傷のために若者を殺す」(創世記4:23)ようになった。復讐がはびこり、地上に広がった殺人とその罪の記憶が消えることはなかった。このようなわけで、神は、聖書に載ったすべての罪の歴史の初めとなったカインの犯した殺人の罪を、カインの告白通りにご自身が贖うことで、その罪の記憶を消去し、これを新しい聖書によって証しすることを望んだ。 

時が満ちると、神が独り子となって天の父のもとから降り、いわば追放されたように母の胎内に身を隠し、この世に生まれ成人し、宣教者として地上をさまよい、さすらう者のようになり(マタイ8:20、ルカ9:58参照)、彼を見つける者は誰であれ、彼を殺そうとしたために、ついに捕らえられ、多くの受難を受け、十字架刑によって殺されたのである。これによって、イエスが、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言った瞬間、未来永劫すべての罪が消えた。 

さらに、イエスは、創世記の「蛇」が言った「決して死ぬことはない」という言葉を神の言葉に置き換え、死から復活することによって、これを証しした。そして、聖霊と信者たちのために御言葉とご聖体を残した。新約聖書を手に取る信者たちは、これらすべての証人である。 

今、ミサ典礼の中で、ご聖体に向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16、ヨハネ11: 27参照)と告白する信者たちは、そのたびごとに、イエス・キリストの名と「決して死ぬことはない」(ヨハネ11:26)という御言葉を、共に身に着けることになるのである。「これらは、神の真実の言葉である」(黙示録19:9)。神の真実の言葉を身に着けた信者は、ペトロの信仰告白の岩の上に建てられた教会を継ぐ者たち、すなわち、使徒の継承者たちである。

Maria K. M.


 2023/11/06

116. 使徒の継承者 その11

キリスト者が、キリストの贖いを完全なかたちで継承していることを具体的に表現することができるのは、ミサ典礼の中である。ミサ典礼の完成の必須要件として、これまで3点挙げてきたが、その内の2点は受容しやすい。 

一つは、新しい契約の祭儀を執り行う職務、すなわちキリストの司祭職には、常に男性が就かねばならないこと。創世記において、神は、自身の過ちを神に素直に告白した「女」に、それを贖う業を命じなかった(創世記3:13参照)。だから女性は、「額に汗して糧を得る」と神から定められたアダムの贖いの業を完成したキリストの司祭職を、引き受ける歴史的根拠を持たない(本ブログ№110111参照)。 

二つ目は、信者は、司祭の手で配られるご聖体を自身の手で「取って食べる」ことである。イエスが「取って食べる」という表現をしたのは、弟子たちに自発性を求めていたからだ(マタイ26:26参照)。信者は、身体に不自由がない限り、司祭の手で配られるご聖体を自身の手で「取って食べる」ことで、神に背いて善悪の知識の木から取って食べたという創世記の初めの男女の行為を御言葉で贖ったキリストの御業を継承するだけではなく、自発的に参与していることを、具体的に表現することになる。 

一方、もうひとつの要件、ご聖体が神の子メシアであることを公に告白することは、キリストの贖いを継承することと無関係に見えるかもしれない。それは、上記の2つのように直感的に結びつかないからだ。 

創世記の初めの「女」は、「蛇」とのやり取りの中で、「決して死ぬことはない」という「蛇」の言葉に騙され、神の言葉に背いた。この過ちは、マルタという一人の女性が、イエスとのやり取りの中で、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)というイエスの問いに、イエスに導かれ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11: 27)と答えたことによって贖われた。 

イエスは、この瞬間、「蛇」の情報を取り消して御言葉に置き換えることで「女」の過ちを贖っただけではなく、同時に、彼女を通して全人類が受け取った「死」の情報を修正し、真理を示したのだ。それは、信者を永遠の命に導き、第一の復活に与らせるためである(黙示録20:5参照)。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)と言ったイエスの言葉が、これを証ししている。 

そして、「私は復活であり、命である」と言ったイエスを現わしているご聖体を前にして、全信者が、マルタのこの言葉を繰り返すことで、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という天の父がペトロに現した言葉の上に「私の教会を建てよう」と言ったイエスの言葉を、教会が実証することになるのである。 

つづく

Maria K. M.


 2023/10/30

115. 使徒の継承者 その10

前回、黙示録の「また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた」(黙示録20:4)という描写を、マタイ福音書によって考察した。同様のテーマで、今回は、ルカ福音書の「私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(ルカ22:29~30)によって考察する。 

ルカ福音書は、この場面を最期の食事の席で、聖体制定の後に置いている。それによって、この場面で「私もあなたがたにそれを委ねる」と言った「王権」が、聖体制定の場面でイエスが、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じたこと、すなわち聖体祭儀を執行する権能を指していたことがわかる。そこで、「王座に座ってイスラエルの十二部族を裁く」とは、使徒とその継承者たちが、この新しい祭儀を旧い契約の祭儀から完全に区別したものにすることを意味している。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:38)からである。 

イエスがもたらした神の国を現在化するこの権能は、特に聖体祭儀において、それに与る信者たちにすぐさま伝播し、彼ら会衆を巻き込んで、イエスの最期の食卓を再現するものである。会衆である信者たちは、祭儀を司らずとも、使徒とその継承者たちに委ねられたこの権能に、共通祭司職として参与するキリスト者だからだ。そこでイエスは、使徒とその継承者に向かって、「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)と命じている。 

このように、イエスが聖体を制定した場を現在化するミサ典礼は、完全でなければならない(マタイ5:48参照)。不完全であれば、そこに与る者たちの中には、かえってひどい「災い」が及ぶこともあるからだ。黙示録1718章は、まさにこの不完全のために、教会全体がその災いを被るという預言である。 

聖霊は、ご自身と協働する者に、人の偶発的情報を区別することを求める。完成されたミサ典礼に与ることよって、信者は無意識のうちに聖霊に向かって大いに形作られていく。さらに、ヨハネの黙示の訓練を日常的に行うことが、ミサ典礼、すなわち聖霊の養成に向けて信者たちを準備する。彼らは知らずに、イエス・キリストの世界観が記憶に刷り込まれていくからだ。 

ミサ典礼の完成には、これまで何度も繰り返している次の点が完全な形で実現されることが必須要件である。キリストの贖いは完全なかたちで継承されなくてはならないのである。すなわち、新しい契約の祭儀を執り行う者は、常に男性であること、信者は、ご聖体が神の子メシアであることを公に告白すること、そして、司祭が配るご聖体を、自身の手で受け取り、「取って食べる」こと、この3点である(本ブログ№113参照)。

つづく

Maria K. M.


 2023/10/23


114. 使徒の継承者 その9

黙示録19章の第4の「幸い」は、完成されたミサ典礼の効果を預言している。それは、白い馬と騎手、太陽の中に立っている天使、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にした天使によって描かれた。この中で信者は、自身の欲や、自身の知識として取り込んだ人の偶発的情報が明らかに示され、浄化される。 

やがて、イエスが荒れ野で手本を見せたように、人の偶発的情報をはっきりと区別する習慣が身についてくるのである(マタイ4:1~11参照)。そこで、黙示録は次のように描写した。「また私は、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた」(黙示録20:4)。これは、完成されたミサ典礼の中では、多くの信者たちが、自身の記憶の中はもとより、共同体の中に発生する人の偶発的情報をはっきりと区別することができるということである。 

この黙示録の記載は、「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる」(マタイ19:28)というイエスの証しが、黙示録において預言の霊の仕方で実現したものだ(本ブログ№98参照)。 

マタイ福音書のこのイエスの言葉は、ある時、ペトロがイエスに、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」(マタイ19:27)と問うたときのイエスの返事であった。 

続けてイエスは、「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(マタイ19:29)と言って、ペトロの「何もかも捨てて」の意味を明確にしている。ここでは、メシアを待つ旧い契約の民としての彼らの在り方を捨てることであった。それによって、生ける神の子をメシアとしていただき、永遠の命を受け継ぐという「その百倍もの報い」を受けることができる。 

聖霊が降臨した後の信者たちにとっては、「人の子が栄光の座に着くとき」とは、ご聖体が信者たちの前にその姿を現す時である。キリストの体は、神の玉座だからである。「イスラエルの十二部族を裁くことになる」とは、ミサの中で信者達が、ご聖体を、神の子メシアであると公に告白することで、「私は、天から降って来た生けるパンである」(ヨハネ6:51)というイエスの言葉を信じる新しい契約の民として、自らを他のすべての在り方と区別するようになるということである。 

そして、その日には、「あなたがたは私を何者だと言うのか」(マタイ16:15)と問うイエスに、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えたとき、イエスが、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16:17)と言った「幸い」が、多くの信者のものになるのである。 

つづく

Maria K. M.


 2023/10/16


113. 使徒の継承者 その8

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これは私の体である。』また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である』」(マタイ26:26~28)。 

これは、マタイ福音書の最後の晩餐における聖体制定の場面である。ミサ典礼の中心的部分は、この場面に由来する。イエスは、人の罪を、ご自身の受難と死によって贖った。それだけではなく、創世記の初めに書かれた人の過ちを、御言葉によって贖った。信者たちは、ミサ典礼に参加する中で、イエスのこの御言葉による贖いの業を継承し、それを証しするようになる。イエスが弟子たちに命じたように、聖霊がイエスについて証しするとき、新約聖書を知る信者たちも証しすることになるからである(ヨハネ15:26~27参照)。 

創世記の二人が神の命令に背いて、善悪の知識の木から「取って食べた」と記された言葉を、イエスは「取って食べなさい。これは私の体である」と命じた言葉で贖った。信者は、イエスの言葉に従い、司祭が配るご聖体を、自身の手で受け取り、「取って食べる」ことでイエスの贖いの業を自発的に継承し、証しする。 

また、創世記の「女」が、「蛇」とのやり取りの中で、「決して死ぬことはない」という「蛇」の言葉に騙され、神の言葉に背いたことは、ベタニアのマルタが、イエスとのやり取りの中で、「生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25)というイエスの問いに、イエスに導かれ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11: 27)と答えたことによって贖われた。信者は、「私は、天から降って来た生けるパンである」(ヨハネ6:51)と言ったイエスの言葉に信頼して、ペトロの告白と同じこのマルタの告白をご聖体の前ですることによって、イエスのこの贖いの業を自発的に継承し、証しする。 

そして、神であるイエスは、男性として生まれることによって、「額に汗して糧を得る」という創世記の「男」の贖いの業を、最期の食卓で完成した。そして、その時を、常に現在化することを使徒たちに命じられた。聖霊と協働して聖体を生み出す業を彼らに託したのである。この新しい職務を、信者の男性が自発的に継承し、その責務を全うすることで、イエスのこの贖いの業を証しするのである(本ブログ№110参照)。 

これらの要件が満たされることによって、ミサ典礼が整備され、さらに浄化されると、「底なしの淵の鍵」を手にして天から下って来た天使が働きだす(黙示録20:1~3参照)。それは、この場で人の偶発的情報の発生が封じられるようになるということである。 

つづく

Maria K. M.


 2023/10/09


112. 使徒の継承者 その7

「イエス・キリストの名」(使徒言行録2:38)という言葉が、ペトロの口を通して初めて世に出たのは、聖霊が降臨した後、ペトロが、信者でない者たちへ最初の説教をした使徒言行録の場面である。この後、使徒たちは、この名によって宣教を拡大していく。それは、「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)とイエスが言ったとおりだ。 

ペトロが、イエスを前にして、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えたとき、イエスは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16:17)と言って、この答えが神の言葉、すなわち絶対的な言葉であることを証しした。使徒たちの記憶には、この場面が刻みこまれたに違いない。 

使徒たちはイエスを個人的に知っていた。ゆえに、イエスを直接知らない次世代の信者たちが、聖書を通してイエスが話したことを、聖霊によってことごとく思い起こし、福音宣教につなげていくためには、ご聖体によってイエスを個人的に知ることが、必須要件である。そして、ご聖体を拝領する体験がイエスを個人的に知ることになるためには、信者自身が、ミサ典礼でご聖体を前にして、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することが絶対的な基盤となる。この基盤が「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16:18)とイエスが言った「この岩」になる。 

このようにして、信者が、天の父が現した言葉を、ペトロがしたように、自身の声でご聖体に向かって告白し、司祭によって配られたご聖体を、イエスが命じたように、自身の手で「取って」、「食べる」ことで(本ブログ№108参照)、イエス・キリストの名が、しだいに信者一人ひとりの記憶に置き固められ、「隅の親石」となる。イエス・キリストの名による権威と救いの業を受け継ぐ使徒の継承者となっていくのである。イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。/『家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。/これは主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと。』」(マタイ21:42)。 

しかし、私たち教会は、未だこれらを完全に成し遂げてはいない。続けて言われたイエスの次の言葉が身に沁みる。「だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちて来た者は、押し潰される」(マタイ21:43~44)。 

つづく

Maria K. M.


 2023/10/02


111. 使徒の継承者 その6

前回考察したように、創世記の初めの「男」と「女」が犯した過ちの原因は、全く異なる性質のものであった。従って、神の対応も異なっていた。「蛇」に騙されて神の言葉に背いたことを、神の前で告白した「女」の過ちを、神は、その場で「神の置いた敵意」によって贖った。このため、「女」は苦しんで子を産むという重責を担ったが、彼女とその子孫である女性は、贖いの業を免れた。他方、アダムの犯した二重の過ちに対して、神は、「額に汗して糧を得る」という贖いの業を命じ、それは、子孫の男性にまで及んだ(創世記5:28~29参照)。 

イエスは、この贖いの業を完成し、多くの人の罪が赦されるために、ご自分の血による新しい契約を目指していた。そこで、使徒ペトロが、天の父が現した言葉、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)を言った場面と、ベタニアのマルタが、イエスに導かれて、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11:27)と言った場面には、共通点がある。まず、どちらの場面でも、二人の応答が、その時神の御業のしるしとなる「復活」のテーマを持っていたイエスに、行動を起こす時宜を確信させたこと。次に、イエスがこの機会に「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)にたとえられた人の偶発的情報を区別するように彼らを導いていることである。 

イエスは、受難と死と復活について弟子たちに打ち明け始めたイエスをいさめたペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16:23)と厳しい言葉を浴びせた。それは、これからイエスが結ぶ新しい契約と、神の贖いの業を継承するのは、男性であり、使徒であるペトロ、天の父が現した言葉を言ったその人だったからである。ペトロは、自身の内にある人の偶発的情報を取り込んだ「人の知識」と「神の知識」とを、区別しなければならない。 

また、ラザロを生き返らせるにあたって、「その石を取りのけなさい」(ヨハネ11:39)と命じたイエスに、「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」と言ったマルタを、イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」(ヨハネ11:40)と言ってたしなめた。創世記の初めの「女」がそうであったように、体内に他者を宿すように創造された女性は、自身の脳に入った人の偶発的情報を、他者と感じる感性が強い。しかし、女性は、「女」がそのありさまから、それを「蛇」と呼んで騙されたようにではなく、人の偶発的情報であることを意識し、区別しなければならない。 

「あなたはメシア、生ける神の子です」という天の父がペトロに現した言葉は、これらの理解の基盤であり、教会が建つ岩である。それは、ミサ典礼の中心となるべき言葉だ。ゆえにイエスは次のように言った。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。

つづく

Maria K. M.


 2023/09/25


110. 使徒の継承者 その5

これまで考察したように、イエスは、創世記の初めに書かれた人の過ちと罪を、御言葉で贖っている。「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」(マタイ6:11)という祈りが、「主の祈り」の真ん中に据えられている理由もここにある。 

この祈りは、創世記で、アダムが、「妻の声に聞き従い/取って食べてはいけないと/命じておいた木から食べた」(創世記3:17)ことによって、「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創世記3:19)と、神が定めた言葉に由来している。アダムは、神に向かって、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(創世記3:12)と言うことによって、神の命令に背いただけでなく、背いた原因を神に帰すという二重の過ちを犯した。 

神は、「あなたは生涯にわたり/苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3:17)と言って、「額に汗して糧を得る」ことで、アダムにこれらの過ちを贖うように求めたのである。これが、イエスが男性を使徒に選んだ理由である。イエスは、彼らを養成し、アダムと同じ男性である彼らが、イエスの贖いの業を継続するために、新しい契約の業を受け入れることを望んだ。だから、最期の食卓で、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言って、聖霊と協働して聖体を生み出す業を彼らに託した。それは、「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」という祈りに、「額に汗して糧を得る」ことで応え、イエスが行ったように、パンのしるしを行い続ける業であった。 

また、初めの「女」は、「蛇」に騙されて神の言葉に背いた。神は、「蛇」に「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)と言って、以後、「蛇」を察知するために「神の置いた敵意」を、子孫に伝える機能を「女」の身に付加した。この重責によって、女性たちは、苦しんで子を産むことになった (創世記3:15~16参照)。この女性たちから、イエスの贖いの業を継承する使徒の後継者たちが生まれる。そこで、イエスは、天の父が使徒ペトロに現した、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という言葉を、女性にも授けた。 

それは、ラザロを蘇らせるためにベタニアに来たイエスと、それを迎えに出てきたマルタとの会話の場面において成された。創世記の「蛇」が「女」に告げた「決して死ぬことはない」という言葉を、イエスが御言葉として告げ、神の言葉に書き換えた時だ(本ブログ№108参照)。次のとおりである。 

「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています』」(ヨハネ11:25~27)。 

つづく

Maria K. M.


 2023/09/18


109.  使徒の継承者 その4

十字架の場面で、御父がイエスのそばに引き寄せた弟子たちによって(ヨハネ6:44参照)、イエスの「私の教会」(マタイ16:18)は現われた。同時にイエスは、「ぶどうの実から作ったもの」を受けて飲むことによって(ヨハネ19:30参照)、「神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)とイエスが言った「神の国」が到来したことを告げた(本ブログ№96参照)。 

この十字架の場面は、その前晩に、イエスが、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた聖体制定の場面と重なり、ミサが挙行される場で再現される。イエスは、信者たちが集まるこの場に、人の偶発的情報が発生するのを封じるために、「天の国の鍵」、すなわち、「底なしの淵の鍵」をペトロに授けた(本ブログ№106参照)。 

イエスは、ペトロにこの鍵を授けるにあたって、「あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」(マタイ16:19)と証しした。それは、この「鍵」の使用が、天に行われるとおり、地にも行われることを、イエスが求めていたからだ。最期の食卓で、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私はもはや二度と過越の食事をすることはない」(ルカ22:15~16)と言ったイエスは、確かにそれを求め、今も待っている。 

「神の国で過越が成し遂げられるまで」とは、ミサの典礼が完成する時である。完成したミサ典礼は、「底なしの淵の鍵」の効力を実証することができる。そして、そこは、「主の祈り」が成し遂げられる場となる。イエスは、信者たちに、天の父の名を知らせ、その名が崇められる神の国の到来を告げた。信者たちのために、最期の食卓で日ごとの糧を用意し、イエスの命じた言葉に従って、それを「取って」、「食べる」ことで、罪の赦しを認識できるようにした(本ブログ№108参照)。そしてイエスは、信者たちを誘惑から守り、悪から救うために、すなわち、人の偶発的情報が発生するのを封じるために、「天の国の鍵」である「底なしの淵の鍵」を使徒ペトロに授けて行った。天の父のみこころが「天に行われるとおり地にも行われる」ようにと求めたのだ。 

使徒の継承者たちは、ミサ典礼を完成させ、それを行使する責務を負っている。イエスが再び過ぎ越しの食事をするために、彼らと共に神の国で過越を成し遂げるのは、イエスが教えた「主の祈り」を継承する地上のすべての信者たちである。

つづく

Maria K. M.


 2023/09/11


108. 使徒の継承者 その3

前回、イエスの復活によって「父から受けた戒め」(ヨハネ10:18)が成就し、「死と陰府」(黙示録1:18)は解決したと述べたことについて、考察を深める。 

人の偶発的情報である「蛇」は(本ブログ№4参照)、創世記で、人が男と女として創造され、複数になったとき初めて登場した。ここで、神が人に命じた言葉は、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創世記2:16~17)であったが、「女」は、「園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」(創世記3:2~3)と記憶していた。彼ら二人の記憶の中では、「善悪の知識の木」が「園の中央にある木」に置き換わり、「触れてもいけない」という言葉が付加されていたのだ。 

この記憶の混乱は、やがて、「必ず死ぬことになる」という神の言葉が、「いや、決して死ぬことはない」(創世記3:4)という「蛇」の言葉にすり替わり、善悪の知識の木から「取って」、「食べる」という具体的な行為に発展した。その後、彼らは、カインがアベルを殺したとき、初めて「死ぬ」という実体験を持った。しかし、このとき、「いや、決して死ぬことはない」という言葉が人の知識として、その記憶に貼り付いていたのだ。だから人は埋葬の儀式を行い、その死を認めながらも、死後の世界のイメージを紡いできた。 

イエスは、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25~26)と言って、「決して死ぬことはない」という言葉を、御言葉として告げた。創世記の「蛇」の言葉を神の言葉に書き換えたのだ。さらに、受難と死を受けて復活し、これを証しした。 

また、最期の食卓で、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と言って、弟子たちに与えた。「これは私の体である」という言葉は、イエスがご自身について証しした言葉を示唆している(ヨハネ6:51参照)。信者は、イエスが「取って食べなさい」と命じたものが、何であるかを思い出すことによって、また、イエスが命じた言葉に従って、ご聖体を自分自身の手で「取って」、「食べる」ことによって、創世記の二人が神の命令に背いて、「取って」、「食べた」ことを贖うことになる。信者はイエスの御言葉の継承者だからだ。イエスが証しした言葉は次のとおりである。

「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」(ヨハネ6:51)。 

つづく

Maria K. M.


 2023/09/04


107.  使徒の継承者 その2

前回考察したように、イエスがペトロに授けた「天の国の鍵」(マタイ16:19)は、「底なしの淵の鍵」(黙示録20:1)であった。ここで言われている「鍵」とは、イエスが「結ぶ」、「解く」と表現した通り(マタイ16:19参照)、物事を理解したり、解決したりするのに最も大切なキーとなるものだ。 

この事の発端は、マタイ福音書で、「あなたがたは私を何者だと言うのか」(マタイ16:15)とイエスが弟子たちに問うたときだ。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)というペトロの答えに、イエスは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16:17)と言った。このペトロの言葉は、「生ける神の子」イエスが、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)の姿を表す「時」を知らせる神の時宜であったのだ。 

「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16:21)と書かれている。イエスは、ペトロのこの言葉から、受難と死を目指して進んで行く。 

「誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである」(ヨハネ10:18)とイエスが言ったように、神であるイエスは、人間として受難と死を受けるという「父から受けた戒め」を携えて地上に降った。この戒めは、黙示録において「預言の霊の仕方」で次のように実現した。「恐れてはならない。私は最初の者であり最後の者、また、生きている者である。ひとたび死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死と陰府の鍵を持っている」(黙示録1:17~18)。 

ここから、イエスが「父から受けた戒め」は、「死と陰府の鍵」と言い換えることができる。ゆえに、イエスは、「天の国の鍵」、すなわち「底なしの淵の鍵」をペトロに授ける前に、「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)と保証したのだ。 

そして、イエスは、受難と死を受け復活した。この復活によって「父から受けた戒め」が成就し、「死と陰府」は解決した。イエスは、ご自身が「死と陰府」の問題を解決することを前提に、「天の国の鍵」である「底なしの淵の鍵」をペトロに授けた。この鍵が人の偶発的情報(本ブログ№4参照)の問題を解決することになる。

つづく

Maria K. M.


 2023/08/28


106.  使徒の継承者 その1

黙示録の考察を先に進める。「また私は、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ、千年の間縛って、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけ、その上に封印をした。千年が終わるまで、もはや諸国の民を惑わさないようにするためである。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになっている」(黙示録20:1~3)。 

「底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来る」という描写は、天使の持つ「鍵」が、天の国のものであることを示している。「底なしの淵の鍵」は天の国の鍵なのだ。そこで、この黙示録の記述は、「天の国の鍵」を手掛かりに、マタイ福音書の次のイエスの言葉が「預言の霊」の仕方で実現したものであることが分かる。「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」(マタイ16:19)。 

このイエスの証しの言葉が示す「天の国の鍵」は、黙示録で天使が天から地上に携えてきた「底なしの淵の鍵」であった。イエスがペトロに与えると言った「鍵」は、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇を捕らえ」、縛って、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけることができる。「いにしえの蛇」すなわち、複数の人が集まる所で発生する人の偶発的情報を(本ブログ№4参照)、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」たちの間に発生しないようにするのである。 

黙示録のこの場面は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の「幸い」に導かれている(黙示録19:9参照)。そこで、「千年の間」、「千年が終わるまで」とは、イエスが「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた時間であり、ミサ典礼が挙行される時間だと言える。 

前回考察したように、そこは、御言葉を聞く信者たちが神の子として新たに生まれた場であり、そこから来てそこへ帰る場である。この場は、信者自身のあらゆる欲が最も合理的に取り除かれる場として機能し、また、信者が、その場でご聖体の主を顔と顔を合わせて見たと言える場でなければならない。そのためには、この場に人の偶発的情報が発生するのを封じる必要がある。地上で結び、解くことができる「天の国の鍵」すなわち「底なしの淵の鍵」を使う権威を与えられた使徒の継承者は、それを行使する責任を持っている。

つづく

Maria K. M. 


 2023/08/21


105. 小さな者や大きな者たちの肉

これまで、福音書でのイエスの言葉、すなわち証しが、黙示録で「預言の霊」の仕方で実現されていることを見てきた。この新しい預言を実証するのは、聖霊と共にいて、聖霊と協働する信者たちである。 

イエスが地上にいたとき、彼の弟子たちは、イエスの口から出る御言葉と、御父の名によって守られた(ヨハネ17:12参照)。「あの獣」と「偽預言者」から守られていたのだ。今、御言葉を聞く信者たちは、聖霊によって再び生きた言葉となった「御言葉の剣」を身に受け、御言葉を聞く自身を体験することで守られる(本ブログ№104参照)。「あの獣」と「偽預言者」を、自らと区別する体験が起こるようになるからだ。この体験は、ヨハネの黙示の訓練に助けられて、認識へと変化する。こうして、イエスの弟子としてのカラーが、徐々に表ににじみ出てくる。 

さらに、イエスが「毒麦のたとえ」の解説で、「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら」(マタイ13:37~38)と表現したように、信者は、「種を蒔く人のたとえ」における「良い土地に落ちた種」だ(マタイ13:8参照)。 

この種は、大祭司、律法学者、長老など、十字架上のイエスを侮辱し、ののしった人たちのものではなく、死を前に大声で叫んだイエスの言葉を聞いて、好奇心に駆られた人たちのものでもない(本ブログ№99参照)。ましてや、イエスと関わったことが知れるのを恐れ、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません」(マタイ8:8)と言ってイエスの来訪を頑なに拒み、「ただ、お言葉をください。そして、私の僕を癒やしてください」(ルカ7:7)と言って、直接イエスと会うことさえしなかった百人隊長のものでもない(本ブログ№100参照)。 

信者たちは、「天の国の秘義を知ることが許されている」(マタイ13:11)イエスの弟子たちなのである。彼らは、黙示録で「預言の霊」の仕方で実現された「小さな者や大きな者たち」(黙示録19:18)にたとえられた信者たちである(本ブログ101参照)。 

信者たちは、自分自身が放置している、人の知識と体験からつくり出されるあらゆる欲を、自分から意識して合理的に取り除きたいと、神に向かって常に求めていることが肝要である。自分が追い求めるこれらの欲が「空高く飛んでいるすべての鳥」(黙示録19:17)たちに食われてしまえば、自分が真に求めるものが何であるかがよく見えるようになる。 

御言葉を聞く信者たちのあらゆる欲が、最も合理的に取り除かれる場は、自分が神の子として新たに生まれた場であり、そこから来てそこへ帰る場である。その場では、ご聖体が誕生し、イエスのように上げられ、すべての人をご自分のもとに引き寄せる(ヨハネ12:32参照)。モーセが顔と顔を合わせて主を観たように、イエスの弟子たちは主イエスを見た。そして、今、信者は、その場でご聖体の主を見るのである。 

Maria K. M.


 2023/08/14

104. 「あの獣」と「偽預言者」 その3

「毒麦のたとえ」では、毒麦は集められて「焼くために束に」された (マタイ13:30参照)。イエスは、これを、「つまずきとなるものすべてと不法を行う者たちとを御国から集めて、燃え盛る炉に投げ入れる」(マタイ13:41~42)と解説した。また、黙示録の「神の大宴会」の最後の描写でも、「獣と偽預言者」は捕らえられて「生きたまま硫黄の燃え盛る火の池に投げ込まれ」(黙示録19:20)と書かれている。これらは、イエスが証ししたことも、「預言の霊」(黙示録19:10)の仕方で実現したことも(本ブログ№98参照)、同じ帰結になっているということだ。それらは皆、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)にたとえられた人の偶発的情報が起源だからである(本ブログ№4参照)。 

一方、「麦」は、「集めて倉に納めなさい」(マタイ13:30)と言われ、イエスは、「その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(マタイ13:43) と解説した。イエスのこれらの証しは、「預言の霊」の仕方で実現されたとき、「残りの者たちは馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるまで食べた」(黙示録19:21)と描写された。「残りの者たち」とは、この新しい預言を実証する信者たちである。彼らは「馬に乗っている方の口から出ている剣」、すなわち、御言葉で殺される必要がある。人は常に情報を取り込み、それを知識や言葉として記憶に保持している。そこで、信者は、自身の記憶にあるこれらと、御言葉を聞く自分自身を区別するためには、御言葉の剣で引き裂かれ、いわば、殺される必要があるのだ。 

この事の重要性は、イエスが、使徒ペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16:23)と言って、他の弟子たちの前で厳しく戒めたことからも理解することができる。続けて「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:24~25)とイエスが言った御言葉の真意がここにある。 

私たちが、常に“人のことを思わず、神のことを思っている”ためには、「御言葉の剣」を身に受けることが必須である。そこには、「永遠の命」への御父の御心がある(ヨハネ6:40参照)。この命ゆえに、イエスは次のように続けた。「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイ16:26)。

Maria K. M.



103. 「あの獣」と「偽預言者」 その2

これまで考察してきたように、黙示録の「あの獣」とは、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)にたとえられた人の偶発的情報が(本ブログ№4参照)、それを取り込む人の中で、知識となったものだ。この知識は、人を媒体として言葉になる。これが「偽預言者」である。この言葉は、一見実現可能なイメージを伴って、人の内で強固な記憶に作り上げられていく。人の“知識”が人を媒体として“言葉”になった「偽預言者」の振る舞いは、神の知識である御言葉が人となったイエスにとって、まさに「毒麦のたとえ」の「敵の仕業」(マタイ13:28)であった。 

「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」(マタイ13:25)のである。だから、前回考察したように、「地上の王たちとその軍勢」(黙示録19:19)は、生きている間から「獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者」(黙示録19:20)になっていた。人の偶発的情報を取り込んで、獣の”知識“を持った彼らは、それを”言葉“にして、「偽預言者」の振る舞いを演じたのだ。 

ここで、「毒麦のたとえ」で、「行って抜き集めておきましょうか」(マタイ13:28)という僕に、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」(マタイ13:29)と言った主人の心配を見ると、イエスの「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」(マタイ13:37~38)という解説の、「畑」を、一人の人の記憶と捉えることができる。また、「毒麦は悪い者の子らである」と言って、「毒麦を蒔いた敵は悪魔」(マタイ13:39)とも言っていることから、毒麦は人の偶発的情報を指している。これを取り込んで自分自身の知識にし、それを”言葉“にすれば、「偽預言者」が出現する。 

御言葉を聞く信者は、自身の記憶の内の「偽預言者」の存在を知ることができる。御言葉を聴く自分自身と区別できるようになるのだ。公生活を始める前にイエスが荒れ野でした体験は、神であっても人でもあったイエスにも、人の偶発的情報の記憶があったことを伝えている。しかし、イエスは、これをサタンと呼んで御言葉であるご自身と完全に区別していた(マタイ4:1~11参照)。今、複雑な社会構造の只中にいる私たちは、荒れ野でイエスがしたように、内なる「偽預言者」を、御言葉を聞く自分自身と区別する必要に迫られている。そのためには、イエス・キリストの世界観を身につけることが必須である。新約聖書の内にあって、福音書と密接につながっているヨハネの黙示の訓練がそれを可能にする。それは、聖霊によって御言葉が生きているからだ。

つづく

Maria K. M.

 

 2023/07/31


102. 「あの獣」と「偽預言者」その1

前回まで、「さあ、神の大宴会に集まれ」(黙示録19:17)に始まる天使の言葉を、「十字架の場面」と「種を蒔く人のたとえ」、およびそのたとえについてのイエスご自身の解説に照らして考察した(本ブログ№99参照)。「十字架の場面」では、「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44)というイエスの言葉が実証されていた(本ブログ№101参照)。 

御父が引き寄せてくださるのは、イエスが「その人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:44)ためである。そこで、信者が、御父の引き寄せる力に応えて、イエスの十字架のそばに行こうとするなら、「神の大宴会」を通り、欲の「肉」を天使が命じた鳥たちに食われてしまう機会を得る。信者がこの機会を活用するなら、黙示録において「預言の霊」の仕方で実現したことを(本ブログ№98参照)、自身において見ることになる。 

さて、他方でイエスは、「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と言って、「十字架の場面」を示唆する言葉を残した。今回から、この言葉を頼りに、黙示録の著者が、天使の言葉の後に見て書いた「神の大宴会」の最後の描写を、イエスが「種を蒔く人のたとえ」の後に続けて語った「毒麦のたとえ」と、そのたとえについてのイエスご自身の解説に照らして、前回と同じように考察していきたい(黙示録19:19~21参照)。 

「私は、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢と戦うために、集まっているのを見た」(黙示録19:19)。 

黙示録1:5にあるとおり、「地上の王たち」の支配者は、イエス・キリストである。それにもかかわらず、彼らとその軍勢が、「馬に乗っている方とその軍勢と戦うために、集まっている」のは、彼らが、生きている間から「獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者」(黙示録19:20)、すなわち、貨幣の虜になり、経済の仕組みにからめとられていた者だったからだ(本ブログ№46参照)。そこには、銀30枚でイエスを渡してしまった弟子がそうであったように、獣と偽預言者に惑わされ、悲惨な死に至る者がいる。貨幣とその経済の仕組みがもたらす社会構造は、人の欲さえ凌駕し、人の命を商品にする(黙示録18:12~13参照)。

つづく

Maria K. M.


 2023/07/24


101.  「神の大宴会」 その

今回は、天使の言葉の最後にある「小さな者や大きな者たちの肉」(黙示録19:18)について考察する。これまでと同様に、「十字架の場面」に照らせば、これらの肉は、この場面を遠くから見守っていた大勢の女たちのものである。彼女たちは、「イエスに仕えてガリラヤから従って来た女たちであった。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」(マタイ27:55~56)と書かれている。このようにイエスに仕え、従ってきた弟子たちに蒔かれた種は、「良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった」(マタイ13:8)と言える。 

ここで、種が結ぶ実に格差が出たのは、イエスご自身が「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(マタイ13:23)と解説したように、「御言葉を聞いて悟る」ことに個人差が出るからだ。「天の国の秘義を知ることが許されている」(マタイ13:11)弟子たちの中にもこのような個人差があるのは、能力や資質によるものではなく、彼らの内に生じる、人の知識と体験から創り出されるあらゆる欲を放置しているからである。これらの欲は、小さなものも、大きなものも、天使が「鳥」に「食らえ」と命じた「肉」である。これらが鳥に食われてしまえば、彼らは、自分が求める真理が何かがよく見えるようになって、「御言葉を聞いて悟る」ことへの望みが増幅していく。この望みは、御父がその者をイエスのそばに引き寄せることによって最高点に達する。 

イエスが「私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできない」(ヨハネ6:44)と言ったように、御父がそれをなさるのは、神であっても人でもあったイエスの行動には制約があったからである。「十字架の場面」に登場した女性たちの中には、イエスの母と「愛する弟子」(ヨハネ19:26)とともに、御父がイエスの十字架のそばまで引き寄せた者たちがいた(ヨハネ19:25参照)。 

イエスは、十字架上で、彼らを待っていた。そこで、4つの福音書それぞれが描いているイエスの最期の言葉には、時間的な関連性が見られる。苦しみの中で、彼らの到着を待つイエスの願いは、御父に向かって、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という叫びになる。しかしそれは、ゲッセマネの園のイエスの祈りと同じく、「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)という言葉に取って代わられる。やがて、十字架のそばに御父が引き寄せた人々を前にして、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取った。この人々は、イエスの血による新しい契約の証人となった。そして、この女性たちの中には、主の復活の初めの目撃者になった者もいた。 

つづく

Maria K. M.


 2023/07/17


100.  「神の大宴会」 その2

「馬とそれに乗る者の肉」(黙示録19:18)とは、 十字架の場面の百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちのものである。彼らは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『まことに、この人は神の子だった』と言った」(マタイ27:54)と書かれているように、恐れや畏敬の念が、彼らの信仰の源泉になっていた。 

マタイ福音書によると、ある百人隊長が、イエスに病の子の癒しを求めたが、イエスが「私が行って癒やしてあげよう」と申し出ると、その来訪を拒み(マタイ8:5~13参照)、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません」(マタイ8:8)と言ってイエスを押しとどめた。それは、イエスと関わったと知れ渡ることで、ローマ兵である自分の地位や権威が揺らぐのを恐れたからだ。 

ルカ福音書の場合、百人隊長は、直接イエスと会うことさえしなかった(ルカ7:1~10参照)。彼は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、イエスに来てくれるように頼んだ。しかし、イエスが彼らと一緒に出かけて行って、彼の家の近くまで来ると、百人隊長は友人たちに伝言を託し、今度はイエスの訪問を断っている。前回「種を蒔く人のたとえ」について考察したが、百人隊長にとって、御言葉は、「茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった」(マタイ13:7)種であった。 

イエスは、百人隊長の事情をすべて見抜いていたが、百人隊長が、「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタイ8:8)と言った言葉に驚いた。人の権威の下にいる彼が、指揮官としての日常の体験を生きて、真理を悟るまでになっていたからである(マタイ8:8~11参照)。 

そこで、イエスは、ご自分についてきた人々に対し、「よく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」(マタイ8:10)という言い方で、ご自分の民が頑なでいることを指摘した。異邦人がここまで精進してきている時代に、現状に居座っていれば、まさに、「東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く」(マタイ8:11)ことになる。 

とはいえ、自身も人の権威に服従し、戦争になれば殺人も厭わない立場にいる百人隊長の信仰は、御言葉が実現することを見ても、実を結ぶことのない信仰であった。このような人は、イエスの解説の中の、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人」(マタイ13:22)である。 

やがて、聖霊に教えられ、信者一人一人がイエス・キリストの啓示を悟って信じる時代が来たが、教会は、百人隊長の信仰に留まり続けている。ご聖体を前にして、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉をいただくだけで救われます」と言い続けることで、それを証ししているのだ。それは、百人隊長のように人の権威の下で生きることを好んでいるからだ。そこで、今も、「小羊の婚礼の祝宴」は、「神の大宴会」(黙示録19:17)になる。 

つづく

Maria K. M.



 2023/07/10


99.  「神の大宴会」

「また私は、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た」(黙示録19:17)と書かれている。「太陽の中に立っている」という描写が、福音書の「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(マルコ15:25)と言う記述と合致することから、黙示録の場面は、ここからイエスが十字架に付けられた時点に移ったと言える。 

続けて、「この天使は大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。『さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、将校の肉、権力者たちの肉を食らえ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由人、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食らえ』」(黙示録19:17~18)と書かれた。この天使の言葉は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)という十字架上のイエスの証を、「預言の霊」の仕方で実現したものである(本ブログ№98参照)。 

イエスのこの祈りは、多くの人が、権力欲、権威欲、支配欲など、人の知識と体験が創り出すさまざまな欲に従って行動しているのに、それに気づかないでいることを示している。天使が「鳥」に「食らえ」と命じた「肉」は、これらの欲であり、これらが鳥に食われてしまえば、自分が何をしているかわかるようになる。そこで、この考察を先に続ける。 

この天使が「鳥」に「食らえ」と命じた言葉は、福音書に類似の表現を見つけることができる。それは、「種を蒔く人のたとえ」にある「鳥が来て食べてしまった」(マタイ13;4)という文である(マタイ13:3~23参照)。このたとえにはイエスご自身が解説を加えており、それを頼りに、また、上記のように、天使が「鳥」に命じた言葉が、イエスが十字架に付けられた時点で発せられたことを考慮して、その解釈を試みる。 

「王の肉、将校の肉、権力者たちの肉」は、大祭司、律法学者、長老など、十字架上のイエスをののしって侮辱した人たちのものである(マタイ27:39~44参照)。彼らは、御言葉を聞く機会があったとしても悟らない。自身の権威欲や支配欲が、記憶に入った御言葉を奪い取ってしまうからだ(マタイ13:19参照)。彼らにとって御言葉は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまった種である(マタイ13:4参照)。 

「あらゆる自由人、奴隷の肉」は、死を前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んだイエスの言葉を聞いて興味を持った人たちのものである(マタイ27:46~49参照)。彼らにとって御言葉は、「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5~6)種である。彼らは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れたとしても、「自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」(マタイ13:21)。

つづく

Maria K. M.


 2023/07/03


98.  「イエスの証しは預言の霊なのだ」

これまで見てきたように、黙示録を朗読し、それを聞くヨハネの黙示の訓練者は、黙示録の第4の「幸い」、すなわち「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の幸いに同伴されて、福音書に記された「イエスの証し」が、黙示録において「預言の霊」の仕方で実現されていく過程を、著者ヨハネと共有することになる。その例を以下に具体的に見ていくことにする。この過程を共有することによって、ヨハネの黙示の7つの「幸い」の中で唯一「幸い」の理由が書かれていない第4の「幸い」に解を与えることが可能になる(本ブログ№32参照)。それは、神の国で過越しを成し遂げる第一歩である。 

本ブログ№95で考察したように、白い馬に乗っている方は、メシア、神の子であった(黙示録19:11~13参照)。続けて、「天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた」(黙示録19:14)という描写は、マタイ福音書のゲッセマネの園で、「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26:53)というイエスの証しが、預言の霊の仕方で実現されたものであった。 

「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである」(黙示録19:15)の描写は、ヨハネ福音書のキドロンの谷の向こうにある園で、「イエスが『私である』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハネ18:6)という証しが、預言の霊の仕方で実現されたのである。 

「また、自ら鉄の杖で彼らを治める」(黙示録同上)の描写は、「茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した」(マタイ27:29)と言う証しが、預言の霊の仕方で実現されたものである。 

「そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」(黙示録同上)という描写は、4つの福音書すべてに記載されたイエスの受難の血の証しが、預言の霊の仕方で実現することを表している。 

これらイエスの受難の場面では、誰がイエスか、また、イエスは誰なのか、神の子か、メシアか、ユダヤ人の王か、という問いが付いて回った。イエスは、これらの問いに対して、常に”神の現実“を語って証しした。「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙示録19:16)という描写は、イエスの名に関わるこれらイエスの証しが、預言の霊の仕方で実現されたのである。 

世の人々は、誰でも、婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだと言うだろう。しかし、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いは、この婚礼の祝宴が「小羊」のものであるところに、その特異性がある。「小羊の婚礼の祝宴」は、「神の大宴会」(黙示録19:17)になる。

Maria K. M.


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