イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/05/22


92. 霊に満たされ その3

人々は、さまざまな動機で、自発的に、ネット環境がある「場」にいて、PCやタブレット、スマホなどの端末機器を使ってインターネットとつながり、それらの機器の操作に集中し、情報を得る。黙示録の著者の経験も、これとよく似ている。「私は、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。主の日、私は霊に満たされ、後ろの方でラッパのような大きな声を聞いた」(黙示録1:9~10)と書かれたように、彼は「神の言葉とイエスの証しのゆえに」という動機で、パトモスと呼ばれる島で、自発的に、「主の日」にその「場」にいた。「霊に満たされ」は、協働するために聖霊とつながり、「ラッパのような大きな声」に集中したことを示す。そして情報を得たのである。 

上記の二つの「場」に臨む人々の共通点は、情報を得るためのリテラシーを持っているということだ。使徒ヨハネであるといわれる黙示録の著者は、確かにそれを持っていた。イエスが最期の食卓で、「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるであろう。あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである」(ヨハネ15:26~27)と言って、使徒たちが聖霊と協働することを決めていたからだ。イエスと常に共にいることによってイエス・キリストの世界観を保持し、聖霊降臨を体験した使徒たちのこのリテラシーは、やがて、すべてのキリスト者のものにならなければならない。その信仰を得たときから、すべてのキリスト者も、イエスについて証しをすることになるからだ。だから、ある程度の訓練を受ければ、誰もがインターネットにアクセスすることができるように、キリスト者の誰もが、同程度の訓練で、聖霊と協働するための情報にアクセスすることができなければならない。 

キリスト者にとって、自発的に神の無情報とつながるためのネット環境に相当する「場」は、ヨハネ同様に「主の日」に現れる「場」である。それは、恒常的にミサが挙行される場であり、ご聖体が安置されている場である。人々がインターネットとつながるためには、端末機器が必要である。だから、イエスは、キリスト者がこの「場」で聖霊とつながる必要のためにも、ご聖体を準備していたのだ。人々は、インターネットとつながって情報を引き出すが、私たちは、神の無情報とつながると、聖霊が私たちから情報を引き出す。そこで、私たちは、黙示録の著者がまさにそうであったように、自身の記憶から引き出された情報を見聞きすることになる。 

黙示録は、イエス・キリストの世界観で満たされていた著者の記憶から、聖霊によって引き出された。次のヨハネ福音記者が書いた最後の言葉は、黙示録の著者が、それを保持していたことを裏付けている。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)。

Maria K. M.


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