イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2021/12/27

19. 神の権威

「天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(黙示録12:1)。前回、このしるしは、聖霊と司祭がミサの中でキリストの聖体が生まれるために協働する姿だと書いた。この姿は、次のようにマリアが天使ガブリエルから告げられた言葉とイメージが重なる。「その子は偉大な人になり(太陽を身にまとい)、いと高き方の子と呼ばれる(月を足の下にし)。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる(頭には十二の星の冠をかぶっていた)」(ルカ1:32)。一方、天使が夢でヨセフに告げた言葉は、マリアに告げられたことと異なり、イエスは自分の民を罪から救う方だと伝えた。「罪から救う」神の仕方は、罪を赦し癒すことであった。十字架上でイエスのわき腹から流れ出た血と水は、罪を赦し癒す神の権威が全人類を覆ったことの確かな証しであった。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(ヨハネ19:35)と福音記者は記載した。イエスは、すべての罪を赦し癒す神の権威を御父から受けて世に来た。イエスが幼子である間、この権威は、地上の父であるヨセフに任され、彼は、天使の言葉に従いながら、イエスとその母マリアを守るためにこの権威を行使した。イエスが昇天し聖霊が降臨した後、この権威は、聖霊を受けた使徒に任され、使徒は、聖霊と協働しながら、キリストの聖体と教会を守るために、この権威を行使するのである。そこで、復活したイエスは、聖霊が降臨したとき、イエスがこれについて語ったのだということを、使徒たちが思い出すように、前もって彼らに息を吹きかけ、次のように言った。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:22~23)。このときトマスは不在であったが、他の使徒たちが「私たちは主を見た」と言って、この出来事を共有したにちがいない。しかし、トマスは信じることができなかった。8日目にイエスが再び現れた時、イエスを見てトマスは信じた。イエスはトマスに「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言った。イエスはこのとき、ご自分の昇天後に来られ、彼らを導くことになる、見えない聖霊を信じる者の幸いについて言ったのである。

【参考】1. マタイ1:212. マタイ1:24~252:13~23、ルカ2:1~72:41~50

Maria K. M.

 2021/12/20


18. もはや時がない

雲を身にまとい天から降って来た力強い天使の声が言った。「もはや時がない。第七の天使がラッパを吹き鳴らすとき、神の秘義が成就する」(黙示録10:6~7)。第七の天使がラッパを吹き鳴らすと、天でも地でも特別なイベントが起こった(11:15~19)。ヨハネの黙示の中で、それまでにも2度イベントがあり、これら3つのイベントには、それぞれにキーワードがある。1度目は、玉座と神の7つの霊(4:2~11)2度目は、天使、香炉、祭壇(8:1~5)、そして3度目が、神の神殿と契約の箱(11:15~19)である。これらの言葉と「神の秘義が成就する」という言葉から、イベントはミサが始まる予兆だと言える。「もはや時がない」とは、キリストの聖体が生まれることを指していたのだ。そこで、天に大きなしるしが現れた(12:1)。このしるしは一人の女の姿で描写されているが、実は聖霊と司祭がミサの中でキリストの聖体が生まれるために協働する姿である。聖霊は、イエスが御父のもとから遣わす弁護者、すなわち、御父のもとから出る真理の霊である。イエスは受難に向かう前に、聖霊の助け手として自ら選んだ使徒たちに、イエスの母の権威をすべて引き継がせた。イエスの母の権威とは、第1に聖霊によってイエスを身ごもり母となったことである。そこでイエスは聖体を制定し、使徒たちの記憶に、パンと葡萄酒がキリストの体と血になるみ言葉を入れた。使徒は、ミサの度ごとにこの言葉が実現するように御父に願う仕方で、このみ言葉を生み出す母の役割を果たす。第2にイエスに関するすべてを知っていることで、使徒たちは聖霊によってイエスに関するすべてを悟る恵みを与えられた。第3に母の願いによってイエスが水を葡萄酒に変えたように、使徒たちもイエスの名によって御父になんでも願うようになることである。格別にパンと葡萄酒がキリストの御体と御血になるときはそうだ。最後にイエスは、十字架上で、ご自分の母とイエスの愛する弟子である使徒を親子の絆で結んだ。使徒はその時からイエスの母を自分の家に引き取った。これによって使徒は、イエスの母の権威の正当な相続者となったのである。

【参考】1.ヨハネ15:262.ヨハネ14:26,16:133.ヨハネ2:1~114.ヨハネ16:235.ヨハネ19:26~27

Maria K. M. 

 2021/12/13

17. 二人の証人

著者ヨハネに語りかける声が、彼にもう一度預言をすることを命じると(黙示録10:11)、著者に杖のような物差しが与えられ、「立って神の神殿と祭壇とを測り、また礼拝している者たちを数えなさい。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。測ってはならない。そこは異邦人に与えられたからである」(11:1~2)と告げられた。「杖」は、牧者の杖から使徒たちを連想させる。また、「神殿と祭壇」、「礼拝している者たち」という言葉は、これらが登場する使徒言行録の場面を想起させる。さらに、語りかける声が、神殿の外の庭について「そこは異邦人に与えられた」と言ったところから、異邦人の使徒となったパウロの14の書簡も暗示されているようだ。この章でこの2つの書が、預言と証しの力を与えられ、再び取り上げられたのは、第6のラッパの響きの後も、偶像を拝むことをやめず、自分たちの犯した殺人やまじない、淫行や盗みについても、悔い改めようとしなかった人々(9:20~21)がいたからである。「この二人の証人とは、大地の主の前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である」(11:4)とあるように、2つの書は「二人の証人」として擬人化され、灯を絶えずともすために、純粋な油を取るオリーブの木と燭台にたとえられている。これらの書に書かれた福音宣教に身を投ずる人々の体験と教えが、時代を超えて宣教する人々を照らすものだからである。2つの書物は燭台の上に置かれる灯のように天に上げられた。彼らの敵もそれを見た(11:12)。やがてこの黙示の訓練者は、ここで言われた「彼らの敵」が自分の敵でもあることを知る。ヨハネの黙示11~12章は、訓練者の記憶に新約聖書のイメージを注ぐ前半と、蛇、悪魔、サタンとも呼ばれる偶発的情報に決着をつける後半との懸け橋となっている。日々この黙示の訓練を続ける者は、幾度もこの橋を渡り、人生をかけてこれに決着をつけていく。

【参考】1. 本ブログ№4

Maria K. M.

 2021/12/06

16. 第七の封印

第7の封印はヨハネの黙示である。この黙示は、冒頭で「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ」という言葉によって、人々をヨハネの黙示の訓練に招く。黙示録の訓練が臨場感を伴って行われるために、また、時代を超えて有効であるために、諸教会への手紙という形式を取った(黙示録1:1~20)。そして実際に7つの手紙が書かれた(2:1~3:22)。訓練者はこれらの手紙の内容に自分自身や自分が属する共同体の問題を重ね見て共感し、少なからず反省する気持ちを持つ。各手紙の終わりに必ず繰り返される「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉に、知らず知らずのうちに心の準備をしている。訓練者は、その後すぐ描写される玉座と神の7つの霊、4つの生き物に聖書的なイメージを感じ取り、「耳のある者」として聞こうとする。こうして朗読して聞く訓練を続けていくと、新約聖書のイメージが記憶の無意識の領域に注入される(4:1~11)。さらにそのイメージが「封印を解く」という緊張感あふれる言葉で暗示されることによって (5:1~7:17)、無意識の中にも臨場感が高まっていく。ヨハネの黙示である第7の封印が解かれると、7人の天使が持つラッパの響きによって、新約聖書の7つの書の効能が伝えられる。ラッパの響きというさらなる緊張感を持って繰り返されることで、そのイメージを訓練者の記憶に定着させる(8:1~9:21)。著者は、空高く飛び大声で「災いあれ」と言う一羽の鷲に自身の姿を重ねる(8:13)。これは4つ目のラッパの響きがヨハネ福音書であることを指すと同時に、先の3つのラッパの響きは共観福音書であったことを示している。この後に続く2つのラッパの響きは、それぞれの描写を手掛かりに、該当する書物を特定することができる。また、「7つの雷」によって表現された公同書簡についても言及され、ここに新約聖書の全貌が預言されたと言える。天から降って来た天使の手にあった「開かれた小さな巻物」は新約聖書である。著者がこれをすべて食べ「腹には苦いが、口には蜜のように甘い」と言った天使の言葉を悟ったように(10:5~11)、訓練者もやがてその意味を悟るようになる。

【参考】1. 5のラッパの響き(9:6)は、第5の封印を解いたとき、神の言葉と自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の描写(6:9~10)と、逆説的な意味で符合する。天使が第6のラッパを吹いたとき、神の前にある金の祭壇の四本の角から聞こえた命令(9:14~15)は、第6の封印を解いたときの描写(7:1~3)と符合する。2. 本ブログ№12

Maria K. M. 

 2021/11/29


15. 第五、第六の封印

「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(黙示録6:9)。この描写の「自分たちが立てた証し」は、イエスの最後の食事の後に書かれた次の個所に、その根拠がある。「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)。使徒たちは、自身で全うできなかった証しを、聖霊が降臨したことによって成し遂げた。彼らを「祭壇の下」に見たのは、「こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(ルカ22:30)というイエスの言葉が実現する時、その役目をすぐ務めるためである。第5の封印は、使徒たちの宣教、投獄や殉教が書かれている使徒言行録だ。小羊が第6の封印を解いたときの描写は、パウロの回心と、それが人々に大きなショックを与えたことを暗示している(黙示録6:12~17)。ここで、「神と小羊の大いなる怒りの日が来たのだ。誰がそれに耐えられようか」(黙示録6:17)という表現の「怒りの日」と言う言葉は、新約聖書の中では、この箇所と次の使徒パウロの「ローマの信徒への手紙」の中だけにみられる。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日に下される怒りを、自分のために蓄えています」(ローマ2:5)。そしてこの箇所のパウロの教えを読むと、上記の黙示録の内容の根拠となっていることが分かる。第6の封印はパウロの書簡である。続く黙示録7章は、パウロの書簡がもたらす偉大な働きの結果について言及している。ここに描写された「彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた」(黙示録7:9)という文は、使徒言行録のアナニアに命じた主の言葉と符合する。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である」(使徒言行録9:15)。
Maria K. M.

 2021/11/22


14. 四騎手 その2

「黒い馬が現れた。それに乗っている者は、手に秤を持っていた。私は、四つの生き物の間から出る声のようなものを聞いた。『小麦一コイニクスを一デナリオン、大麦三コイニクスを一デナリオンとする。オリーブ油とぶどう酒を損なってはならない』」(黙示録6:5~6)という第3の封印が解かれたときの描写には、ルカ福音書の「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』あなたがたは、これらのことの証人である。私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:46~49)というイエスの最後の言葉が符合する。神が、その独り子を苦しみと十字架の死に渡したのは、罪の贖いが公示され、「その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」ためであった。この犠牲はまるで小麦1マスを1日分の給料で買うようなもので、とうてい釣り合うものではない。その象徴として黒い馬の騎手は手に秤を持っている。そしてイエスが、「都にとどまっていなさい」と言ったのは、「これらのことの証人」である弟子たちを一人も「損なってはならない」からであった。「青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は『死』と言い、これに陰府が従っていた。彼らには、剣と飢饉と死と地の獣とによって、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられた」(黙示録6:8)という第4の封印の描写で、陰府が従っていた「死」は、イエスの受難と十字架上の死によって復活とつながった「死」である。この「死」に、地上の四分の一で人々を殺す権威が与えられたのは、これにあやかる者の数が満ちるためである。この描写に符合するのは、ヨハネ福音書のイエスの最後の命令である。それは、イエスがペトロに、彼がどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示し、ご自分の「死」に従うように命じた後、ペトロが、イエスの愛しておられた弟子を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねたときの答えである。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ21:22)というこのイエスの言葉を、福音記者は「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない」という解説を挟んで繰り返した。「彼」は、イエスの愛する弟子の信仰であり、イエスが再臨のとき、地上に見いだすことを望んだ信仰である。「神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」と書かれた通り、神は、ヨハネの黙示を訓練の書として弟子たちに与えた。

【参考】1. 黙示録6:112. ヨハネ21:193. ルカ18:8、4.黙示録1:1

Maria K. M.

 2021/11/15


13. 四騎手 その1

小羊が7つの封印を解いたとき、著者は、4つの生き物が次々と雷鳴のような声で「行け」と言うのを聞いた。その後に続く馬と騎手の描写から、これらの命令は、それぞれが、4福音書の復活したイエスの最後の命令に符合することが分かる。第1の「白い馬が現れ、それに乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上になお勝利を得ようとして出て行った」(黙示録6:2)という描写には、マタイ福音書の「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18~20)という言葉が符合する。「弓」は、「天と地の一切の権能を授かっている」、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という保証であり、「冠」は勝利のしるしである。「なお勝利を得ようとして出て行った」のは、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という命令に従ったのである。第2の「火のように赤い馬が現れた。それに乗っている者には、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取る力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(黙示録6:4)という描写には、マルコ福音書の「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16:15~18)という言葉が符合する。「平和を奪い取る力」は、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる」とき働く。また、「大きな剣」は、「彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という権能の事である。(つづく)

【参考】1. 黙示録6:1~7

Maria K. M.


 2021/11/08

12. 預言の書

ヨハネの黙示にイエス・キリストの世界観があるのは、その全体が新約聖書成立の預言にあてられているからだ。主の日、著者が霊に満たされ、ラッパのような大きな声を聞いて書き取った7つの教会への手紙には、すべて「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい」という言葉が付されている。諸教会が新約聖書成立に目を向けるよう励ましているのだ。先の声が再び「ここへ上って来なさい。そうすれば、この後必ず起こることをあなたに示そう」と言った事柄が、それを証ししている。著者にとって、玉座の中央とその周りにいる四つの生き物4つの福音書を表していることは自明のことであった。前にも後ろにも一面に目があったと書いていることから、すでにこれらの書物を目にした人々が少なからずいたのだろう。次に7つの封印がある巻物4によって、4つの福音書と使徒言行録、パウロの書簡が、預言的な言葉で紹介されている。最後に解かれた封印は黙示録である。この後、開かれた巻物を手にした天使5が叫んだ時、7つの雷が鳴ったが、「七つの雷が語ったことは秘めておけ」と命じた天の声から、これは当時まだ新約聖書に含まれることが明らかではなかった7つの公同書簡であると思われる。7つの封印が解かれ「開かれた巻物」は、「小さな巻物」であったことが3度書かれている。これは、ヘブライの聖書と比べて「小さな」新約聖書を指していたのである。著者はこれを取り、すべて食べた。

【参考】1. 黙示録1:102. 黙示録4:13. 黙示録4:64. 黙示録5:15. 黙示録10:1. 黙示録10:47. 黙示録10:2, 10:9, 10:10

Maria K. M.


 2021/11/01


11. キリストの聖体

ヨハネの黙示の中で、「私たちの主とそのメシアのものとなった」1、「神のメシアの権威が現れた」2と書かれているところのメシアは、キリストの聖体を表している。聖霊の働きによってパンと葡萄酒がミサの中でキリストの体と血となって神が現存し、司祭の手で上げられることで、神は、受肉の神秘と十字架の神秘を現在化し続ける。ご聖体は、「神は私たちと共におられる(インマヌエル)」というイエスについての預言を引き継いでいる。「『私はある』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言ったイエスの言葉は、ご聖体の存在によって悟ることができる。ご聖体は、イエスの語った「命のパン」である。ご聖体が信徒たちに食べられることによって何度でも死を通るのは、イエスが一人一人に手を置いて癒やしたように、イエスがただ一度で成し遂げたすべてを、一人一人に与える神の仕方である。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」7というイエスの言葉は、ご聖体の内に生きている。私たちの衣は、小羊の血、すなわち新しい契約で洗われ、ミサのたびごとに白くなる8。このようなご聖体の姿は、ヨハネの黙示にあるイエス・キリストの世界観と合致する。そこでキリストの聖体を表す上記の2つのフレーズは、天に現れた2つのしるしの前後に意図的に配置されている。

【参考】1. 黙示録11:152. 黙示録12:103. マタイ1:23. ヨハネ8:24. ヨハネ6:35. ルカ4:407. マルコ10:458. 黙示録7:9~179. 黙示録12:1~3

Maria K. M.

 2021/10/25


10. 神のメシア

ヨハネの黙示の中では、聖霊の働きを表す言葉をほとんどの章に見出すことができる。それは、この黙示を朗読し聞く訓練者の無意識の記憶に、聖霊降臨の出来事を刻み、聖霊の働きを絶えず注入するためだ。聖霊が降臨したその日、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた」とあるように、聖霊はイエスの名によって集まった人々に、神の家という特別な空間をもたらした。それぞれの弟子たちの感覚に、また同時にその人々の間に、具体的に出現する神の家は、イエスが諭したように、すべての民の祈りの家と呼ばれる。ここでイエスが引用したイザヤ56章の預言はこのとき実現した。神の家は、神と人々が共に集う場であり、「彼らが座っていた」ように神にも玉座がある。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあるのは、聖霊が、イエスのものを受けて弟子たちに告げるために、個々人の脳とつながる様子を表現したものだ。そこで、「玉座の前には、七つの松明が燃えていた。これは神の七つの霊である」、「小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」といったフレーズを朗読し聞くと、そこに暗示された聖霊降臨の日の出来事が、訓練者の感覚の記憶に植えられる。イエス・キリストの世界観は、当時の弟子たちがそうであったように、聖霊降臨の出来事の体験によって開花する。

【参考】1. 使徒言行録2:22.マタイ21:13/マルコ11:17/ルカ19:463. 使徒言行録2:34. ヨハネ16:155. 黙示録4:56. 黙示録5:6

Maria K. M.


 2021/10/18


9. イエス・キリストの名

ヨハネの黙示には、要所にミサの創始者であるイエス・キリストの名が配置されている。また、たとえば「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」のように、イエス・キリストをイメージさせる多くの表現が置かれている。それらが激流のごとくこれを朗読する訓練者の感覚に流れ込み、イエス・キリストの世界観の形成を助け、五感の記憶を浄める。それは、み言葉によって知識の記憶を浄め、具体的に神との真の合一体験に与かるミサに、訓練者を向かわせるためだ。イエス・キリストの名の多くは、前回考察した「幸い」と同じ文脈にあるが、独立して置かれているものがある。それは、「海辺の砂の上に立った」竜と、「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」という名の女が登場する文脈である。これらはどちらも、これから偶発的情報が個々人によって具体的な行為になって世に現れる姿をイメージさせている。しかし、偶発的情報は、複数の人々が関わる中で、初めは個々人の脳の記憶に発生する。そこでこれらの文中に、「イエスの証し」、「イエスの証人」という言葉を差し込むことによって、ここでイエスの名に遭遇した訓練者に、勇気を出して自身と偶発的情報を区別する覚悟を固めさせる。アナニア3のように、イエス・キリストとその世界観を共有する弟子としての行動につなげていくために。

【参考】1. 黙示録12:172. 黙示録17:63.本ブログ№6

Maria K. M.


 2021/10/11

8.7つの幸い   

ヨハネの黙示にある7つの幸い(①~⑦)1は、この黙示録の流れを支え、生きている者に多くの実りをもたらすイエス・キリストの世界観の到達点を示す。これらの幸いは、A,B、 2つのグループに分類することができる。Aは、ヨハネの黙示によって訓練する者の幸いについて書かれているもので、①:預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たち、②:主にあって死ぬ人、③:裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人、⑥:この書の預言の言葉を守る者、が当てはまる。Bは、ミサに与かる者の幸いについてで、④:小羊の婚礼の祝宴に招かれている者、⑤:第一の復活にあずかる者、すなわち神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する者、⑦:(キリストの聖体によって)自分の衣を洗い清める者、が当てはまる。次に、グループ別の幸いを登場する順に並べると、①A-A-A-B-B-A-Bとなる。ここからこの幸いの流れが、ヨハネの黙示の訓練者をミサに向かうように導いていることが分かる(①A-A-A-B-B)。幸いの到達点はミサである。最後の2つの「幸い」を告げる天使は、再びヨハネの黙示の訓練を勧め(⑥A)、「この書の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない」(黙示録22:10)と命じた。最後の幸いは、ミサに与かるキリスト者の特別な使命を表しているからだ(⑦B)。

【参考】.『黙示録』①1:3、②14:13、③16:15、④19:9、⑤20:6、⑥22:7、⑦22:14. 本ブログ№23.『神学の河口』№24「白い衣」

Maria K. M.


 2021/10/04

7. プロローグ

ヨハネの黙示の言葉には、なぜイエス・キリストの世界観があるのか。それを少しずつ考えてみたい。まず、冒頭の「イエス・キリストの黙示」1という書き出だしには、次のような意味が読み取れる。「イエス」の名は、神が人として生まれ、人々の間に住むことによって実現した初めの救いを表す。「キリスト」の名は、イエスが受難と十字架上の死によって成し遂げた第2の救いである2。ヨハネの黙示は、それぞれの名で表された二つの救いが重ね合わさって、すべての人々を救った証の書だ。次に「すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」という文が続く。この文は、神から与えられた情報の最後の受け手が、人であることに注目させている。そして、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」3と述べて、人であるヨハネは、天使が知らせた内容を理解したうえで、この黙示録を書いたのではないことを伝えた。だから、自分が見たすべてを証ししたと書いた。さらに、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」4と書いたのは、そこに「すぐにも起こるはずのこと」があるからだ。それは、この預言の言葉を朗読し、聞いたことを記憶に保持する者たちが、すぐにヨハネの証しを共有するということに違いない。

【参考】1. 黙示録1:1、2. 黙示録21:6, 22:13、3. 黙示録1:2、4. 黙示録1:3

Maria K. M.


 2021/09/27

6 イエスの弟子たち

聖パウロの回心に関わったダマスコのアナニア1について、私は何度も考察してきた。アナニアが、幻の中で主と話した内容とその後の行動は、主イエスの弟子として訓練された者の姿を克明に物語っているからだ。アナニアは主の声に慣れ親しんでいて、神の言葉と向き合う自分の姿勢に信頼し、自分の考えていることを率直に主に話す。だからパウロを訪ねるように命じたイエスに「主よ、私は、その男がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて縛り上げる権限を、祭司長から受けています」(使徒言行録9:13)と答えた。主イエスと弟子のこの関係は、弟子が神の置いた敵意に常に目覚め2、偶発的情報をしっかりと区別するための基礎になる。アナニアは、自分の聞いた噂が信頼できる仲間からのものであり、パウロについての悪い情報が確かなものであっても、迷うことなくみ言葉の側に付いた。「弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる」(ルカ6:40)というイエスの言葉は、主イエスと共に歩んだ弟子たちの上に実現していた。彼らは、主の声に慣れ親しみ、イエス・キリストとその世界観を共有して、神の言葉と向き合う自分の姿勢に信頼した。この姿勢を身に着ける訓練は、後世に続く弟子たちのために、ヨハネの黙示に託された。

【参考】使徒言行録(9:1~20)本ブログ№5

Maria K. M.


2021/09/22


5. 噂ばなし

前回、創世記に登場する蛇は、複数の人の間に発生する偶発的情報だと述べた。この適例に噂がある。噂はその出どころがなんであれ、蛇が這うようなイメージで人々の間を行き来する。偶発的情報は、もともと動物や自然の間にも発生する情報だから、人の感覚に心地よく、思考にもするりと入ってくる。ここで人は、往々にして、自分と他人とを区別するように、自分の思考と偶発的情報とを区別せずに、それを拡散しようとする。しかし、自分が拡散した情報と自分の思考との間にしばしば矛盾が起こる。この矛盾は、持った人に恐れを抱かせ、真理と希望を目指す歩みのかかとを砕く。キリスト者であれば、イエスと共に歩むことを躊躇させる。神は人々をこのような危険から守るために、太古の昔に蛇に向かって「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く」(創世記3:15)と宣言したのだ。神の置いた敵意は、人の感覚に偶発的情報が入ったとき、人の記憶の中で敵意を発して警戒させる。人は、偶発的情報を他者として区別するために、神の置いた敵意に常に目覚めている必要がある。キリスト者は、イエスが公生活の初めに荒れ野でサタン(悪魔)から試された経験に倣わねばならない。神であっても人でもあったイエスにも、偶発的情報は現れた。そのとき、神の置いた敵意に常に目覚めていたイエスは、この情報をはっきり他者として区別し、神の言葉によってその頭を砕いた。そして、これをサタンと呼んで退けた。

【参考】『神学の河口』14「私は敵意を置く」

Maria K. M.


 2021/09/14


4. いにしえの蛇

ヨハネの黙示の中に登場する竜は、巨大な竜で、いにしえの蛇、悪魔ともサタンとも呼ばれる者、全人類を惑わす者だと書かれている。竜は伝説の生き物だし、悪魔ともサタンとも呼ばれる者という表現はあいまいで誰とも特定できない。ただ、ヨハネが「いにしえの蛇」と書いたので、私は、これらが創世記の3章に出てくる蛇のことだと推測する。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる」(創世記3:14)と言った神の言葉から察すると、ここで登場する蛇は、現実の蛇ではない。この蛇は、神が、「産めよ、増えよ」と命じた生き物たちの数が増え、やがて同種間で偶発的に発生した情報だと考える。この情報が生き物たちの脳内で知識のように働き、緩やかに進化に結び付いていったのではないだろうか。今では、家畜や獣だけではなく、木々や、草花でさえ、何かの情報を伝達し合っていることが知られている。これらは常日頃から私たちに安らぎや癒しを与えてくれる情報でもある。この偶発的に発生する情報は、初めに創造された男と女の間でも発生した。しかもこちらは急速に発達した。この情報が、神の命令を留めていた2人の記憶を凌駕したとき、2人は、神が食べるなと命じた善悪の知識の木の実を取って食べたに違いない。このときから、人の間に発生する偶発的情報は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われるものとなった。

【参考】『神学の河口』№11「人間の仕業()

Maria K. M.


 2021/09/06


3. 天使

今時の人は、天使や堕天使の話など興味がないかもしれない。実は私は天使の存在を信じている。格別に守護の天使のことをよく思い出す。その一方で、堕天使の話をなかなか本気で受け取れない。堕天使がいるなんて、どうしてもおとぎ話のように感じてしまうからだ。私が日本でキリスト教とは無縁な家族の中で育って、大人になってから自分で洗礼を受けたからかもしれない。私は自分の家族から、天使の話も、ましてや堕天使の話など生まれてから一度も聞いたことがない。しかし私は、ヨハネの黙示の中の天使について特別に興味を持ち始めた。こんなことを言うと笑われるかもしれないが、この天使たちが、まるで神が創造したAIのように思えるのだ。めとりも嫁ぎもしない天使の体に、神が組み込む神のプログラムが彼らの意志だ。それが、人のように自由意志ではないからこそ、著者が天使の足元にひれ伏して拝もうとしたとき、「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ」と言えたのではないか。著者が天使を拝もうとする場面は二度出てくるが、天使は状況に合わせて言葉を選びながらも、まったく同じ反応をする(黙示録19:10,22:9参照)。天使はまさに神にプログラムされた通りに答えているのだ。まるで、高い信頼性で "疲れる" ことなく現場の状況に正確に対応し実行するAIのようだ。私は、イエス・キリストの世界観を表す源がこんなところにあるかもしれないと考えて興味を持っている。

Maria K. M.

 2021/08/30


2. 世界観

毎日ヨハネの黙示の言葉を朗読し、その声を聞くように努力していると、文中で強調されている「すぐにも起こるはずのこと」が自分に起こる。それは、自分が言った言葉、自分に日常的に起こる些細な出来事の中に、隠された意味を見つけるようになり、聖霊が言葉ではなく意味で導くことを体験する機会に恵まれるということだ。そういうことは、他でも起こるよ、と言う人もいるかもしれないが、私の場合はとにかくここで起こった。さらに、このごろ私と同じようにヨハネの黙示を朗読している人たちと話す機会に、おもしろいことを知った。彼らは自分たちに「すぐにも起こるはずのこと」が起こっているのに、それに気が付かないでいるのだ。彼らは、知らずに自分の言動や、自分に起こる出来事の中に、これまでになく隠された意味を見つけた経験を語っている。これを指摘すると、彼らは驚きながらも自分にそれが起こっていたことを認めた。そんなことを言い合っているうちに、私たちは、その日、私たちの間で、互いが語る信仰の話の通りがよく、価値観の共有が早いことに気付いた。これまでけして交わることのなかった互いの言い分が再び出てきても、まるで相手を自分が見聞きしたことのように理解することができる。これは、私たちが、日々ヨハネの黙示の言葉を朗読し、その声を聞くように努力しながら、イエス・キリストとその世界観を共有し始めているのだと思った。イエスが語る「私の名によって」とは、人がイエスとイエスの世界観を共有していることを意味しているのではないだろうか。

【参考】『神学の河口』№22「ヨハネの黙示と聖霊の2つの霊性」№24「白い衣」

Maria K. M.


 2021/08/26


1. 文明

米国の政治学者サミュエル・ハンティントンによると、20世紀の世界文明という視点の中で、日本文明は、独立した固有の文明として分類されている。私の生まれ育った日本の歴史は、ギリシア文化もゲルマン民族の大移動も、イスラム文化の影響も全く経験していない。一方、キリスト教の歴史は、これらの出来事と溶け合って発展した西洋の歴史そのものである。そこで聖書の解釈は、その影響を大きく受けてきた。しかし、聖書の成り立ちは西洋の歴史そのものではない。だから日本人である私が、これらの歴史をいろいろ学びながらも、聖書を読んでその教えを理解しようとするとき、今日までヨーロッパの歴史が捉え、育んできたものをすべて共有できるわけではない。その一方で、思いがけない発見と遭遇するかもしれない。このような状況の中で、ヨハネの黙示がイエス・キリストの世界観を表していると知ったのは、最近のことだ。私はこれを知るやいなや、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙示録1:3)という勧めに従った。毎日この預言の言葉を声に出して読み、その声を聞いて、「中に記されたこと」を自分の記憶に保持する幸いな者になりたいと思ったからである。
Maria K. M.

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