2023/08/14
104. 「あの獣」と「偽預言者」 その3
「毒麦のたとえ」では、毒麦は集められて「焼くために束に」された (マタイ13:30参照)。イエスは、これを、「つまずきとなるものすべてと不法を行う者たちとを御国から集めて、燃え盛る炉に投げ入れる」(マタイ13:41~42)と解説した。また、黙示録の「神の大宴会」の最後の描写でも、「獣と偽預言者」は捕らえられて「生きたまま硫黄の燃え盛る火の池に投げ込まれ」(黙示録19:20)と書かれている。これらは、イエスが証ししたことも、「預言の霊」(黙示録19:10)の仕方で実現したことも(本ブログ№98参照)、同じ帰結になっているということだ。それらは皆、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)にたとえられた人の偶発的情報が起源だからである(本ブログ№4参照)。
一方、「麦」は、「集めて倉に納めなさい」(マタイ13:30)と言われ、イエスは、「その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(マタイ13:43) と解説した。イエスのこれらの証しは、「預言の霊」の仕方で実現されたとき、「残りの者たちは馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるまで食べた」(黙示録19:21)と描写された。「残りの者たち」とは、この新しい預言を実証する信者たちである。彼らは「馬に乗っている方の口から出ている剣」、すなわち、御言葉で殺される必要がある。人は常に情報を取り込み、それを知識や言葉として記憶に保持している。そこで、信者は、自身の記憶にあるこれらと、御言葉を聞く自分自身を区別するためには、御言葉の剣で引き裂かれ、いわば、殺される必要があるのだ。
この事の重要性は、イエスが、使徒ペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」(マタイ16:23)と言って、他の弟子たちの前で厳しく戒めたことからも理解することができる。続けて「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:24~25)とイエスが言った御言葉の真意がここにある。
私たちが、常に“人のことを思わず、神のことを思っている”ためには、「御言葉の剣」を身に受けることが必須である。そこには、「永遠の命」への御父の御心がある(ヨハネ6:40参照)。この命ゆえに、イエスは次のように続けた。「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか。人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイ16:26)。
Maria K. M.