イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/10/10


60. エルサレム その2

イエスは弟子たちに、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ12:31)と命じ、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)と保証した。これまで考察してきたように、聖霊は、その実現のために、キリスト者に、3つの機会を与えた。1に、ヨハネの黙示を日々朗読しこれを聞く訓練を続けること。信者の無意識の領域に、イエス・キリストの世界観が注入される(本ブログ№36参照)。2に、ミサに与かること。福音書の朗読と聖体拝領が、信者の五感に強く働きかけ、最期の食卓で使徒たちが経験したイエスとの合一体験を与え(本ブログ№32参照)、キリストの名に相応しい役割を実感させる(本ブログ№49参照)。3に、聖霊の養成に与かること。神の無情報とつながる信者の意識の領域が、御父の摂理に適合するよう育成され、聖霊と協働する第3の受肉の神秘に向けて準備される(本ブログ№38参照)。こうして信者たちは、聖霊と協働するとき、神の国がキリスト者のものになったことを実感する。これら3つの機会は、黙示録21章の天から降って来る聖なる都エルサレムの描写に当てはまる。1に、「都の城壁には十二の土台があり、そこには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった」(黙示録21:14)とあるのは、十二使徒たちが持っているイエス・キリストの世界観を指す。城壁はヨハネの黙示の訓練である。2に、「この都は四角形で、長さと幅が同じであった」と「それは長さも幅も高さも同じであった」(黙示録21:16)は、ミサの平面的広がりと立体的空間を表現している。都の外観はミサである。3に、「十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠でできていた」(黙示録21:21)とある「真珠」はご聖体を暗示する。ゆえに門は聖霊の養成である。これらの符合からこの聖なる都エルサレムは、聖霊と信者が協働するとき現れる神の国の預言となっている(黙示録21:9~27参照)。前回、神の国を求めるキリスト者がミサへ向かう日常のルーティンを生きるとき、そこで辿る道がイエスの最期の食卓を、“今”に引き寄せ、再び『私の記念』(ルカ22:19)を現実にすると書いた。これは続く22章に描かれた、永遠に生きる都の描写に当てはまる。「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす。もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する」(黙示録22,1~5)。

Maria K. M.


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