イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/02/26


132.ミサ典礼の完成と第一の復活

前回までの考察を踏まえて、黙示録に戻り、本ブログ№121で取り扱った、ヨハネの黙示の預言的構成(本ブログ№120の図参照)における「ミサ典礼の完成の預言」(黙示録19~20章)の考察を続ける。 

振り返ると、ミサ典礼の完成の預言は、初めに堕落した教会が裁かれたことを褒める(19:1~4)。次に、新約聖書成立の預言の成就の上に、ミサ典礼の完成が預言される(19:5~10)。ゆえに信者たちは、完成したミサ典礼に向けて、さまざまな形で聖霊の清めを通り(本ブログ№98~№105参照)、人の知識と体験が創り出す欲がそぎ落とされる(19:11~21)。後半は、実際に完成した典礼によるミサが挙行される間、また、終わった後起こることが描かれる(20:1~15)。 

ここでたびたび登場する「千年」は、ペトロが手紙に「愛する人たち、この一事を忘れてはなりません。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(二ペトロ3:8)と書いたように、完成した典礼によるミサが、「主のもとで」挙行される間のことである。その間、この時空に、「人の偶発的情報」も悪霊も関与することができない(20:1~) 

今回は、「また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(20:4~5)から考察を進める。 

「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂」とは、イエスが証しした「人の偶発的情報」を区別し、神の言葉によって「命の息」と「命の木」がつながった者たちである。この人々には「神の姿」が現われる(本ブログ№129参照)。彼らは、「人の偶発的情報」を自分の知識として区別なく取り込んだ「人相応の知識と記憶」が求めるままに行為することがない(本ブログ№130参照)。いわば「首をはねられた者たち」のようになるのだ。だから、「あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった」のである。「魂」とあるので、彼らは生きている人々なのだ。 

彼らは日々のルーティンの只中に置かれたミサ典礼に入ると、ここで御言葉と日ごとの糧を与えられ「生き返る」。「キリストと共に千年の間支配した」とは、ミサ典礼が行われる間、皆がキリストと共にいる現実に集中しているさまを表している。 

現在もミサ典礼の挙行は人々に大きな恵みをもたらす。しかし、すべての信者たちが聖なる者になる「幸い」を得て、生きたまま「第一の復活」に与るためには、ミサ典礼が完成し、完全なものにならなければならない。それは、そこに聖霊の働きが見えるようになるということである。

Maria K. M.


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