イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/05/02

37. 聖霊の養成

使徒言行録に、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2:2)と書かれたように、聖霊の養成は、聖霊がもたらした空間の中で行われる。「彼らが座っていた家」とは、定期的にミサが執り行われる神の家だ。その中心には常にご聖体がおられ、ミサの時空を保っている。ミサの中でご聖体を拝領する信徒がこの時空に入ると、無意識の領域にあるご聖体を食べた記憶が、現在の時空と同期され、聖霊の養成に与ることが容易になる。信徒自身は気づかずとも、ご聖体と同じ目線に座るようになる。この世で唯一の師であるイエスは(マタイ23:8~10参照)、神の似姿に創造された人の尊厳を重んじ、「弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる」(ルカ6:40)と励ましている。イエスの望みは、キリスト者がその名に相応しい役割を担うまでに成長することだった。イエスがすべてのあがないを成し遂げた後、その業を継続するためにキリスト者に任せた役割とは、ご聖体を拝領することだ。だから、教導職は、ミサの中でご聖体を拝領する者たちが、この役割を自覚するように配慮しなければならない。まず、拝領する信徒たちに、ご聖体を前にして、この方が誰であるのかを明確に宣言し、自発的に拝領する意志を表明することを求める。信徒たちは、ご聖体を掲げ、「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と言う司祭の声に応えて、イエスに「幸い」と宣言されたペトロの信仰告白で、ご聖体が誰であるのかを明言する(本ブログ№32参照)。そして、信徒たちが、司祭の前に両手を差し出してご聖体をしっかりと受け取り、自発的に自身で口に運ぶように、明瞭に導かなければならない。このようにすれば、拝領する信徒たちは、ご聖体が神の子キリストであることを声に出して宣言し、その声を聞き、ご聖体を目で見、手で触れ、嗅ぎ、食べることができる。五感のすべてを駆使してご聖体を受け取ることができるのだ。こうして、神との合一体験を果たしたことを、記憶に鮮明に上書きする。信徒はご聖体に集中すれば、ベトレヘムの馬小屋で、人となった神を初めて抱き上げたヨセフのように、復活したイエスの足を抱いた婦人たちのように、また「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい」(ヨハネ20:27)と言われたトマスのように、人と共にいる神を体験し記憶することができる。ご聖体を配る者は、これらの記述に信頼し、信徒たちがご聖体に触ってよく見て食べる瞬間を守らなければならない。それは、復活したイエスが次のように言って、「触ってよく見なさい」と命じた言葉を大切にするためだ。「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ」(ルカ24:39)。

Maria K. M.


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