イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/11/06

116. 使徒の継承者 その11

キリスト者が、キリストの贖いを完全なかたちで継承していることを具体的に表現することができるのは、ミサ典礼の中である。ミサ典礼の完成の必須要件として、これまで3点挙げてきたが、その内の2点は受容しやすい。 

一つは、新しい契約の祭儀を執り行う職務、すなわちキリストの司祭職には、常に男性が就かねばならないこと。創世記において、神は、自身の過ちを神に素直に告白した「女」に、それを贖う業を命じなかった(創世記3:13参照)。だから女性は、「額に汗して糧を得る」と神から定められたアダムの贖いの業を完成したキリストの司祭職を、引き受ける歴史的根拠を持たない(本ブログ№110111参照)。 

二つ目は、信者は、司祭の手で配られるご聖体を自身の手で「取って食べる」ことである。イエスが「取って食べる」という表現をしたのは、弟子たちに自発性を求めていたからだ(マタイ26:26参照)。信者は、身体に不自由がない限り、司祭の手で配られるご聖体を自身の手で「取って食べる」ことで、神に背いて善悪の知識の木から取って食べたという創世記の初めの男女の行為を御言葉で贖ったキリストの御業を継承するだけではなく、自発的に参与していることを、具体的に表現することになる。 

一方、もうひとつの要件、ご聖体が神の子メシアであることを公に告白することは、キリストの贖いを継承することと無関係に見えるかもしれない。それは、上記の2つのように直感的に結びつかないからだ。 

創世記の初めの「女」は、「蛇」とのやり取りの中で、「決して死ぬことはない」という「蛇」の言葉に騙され、神の言葉に背いた。この過ちは、マルタという一人の女性が、イエスとのやり取りの中で、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)というイエスの問いに、イエスに導かれ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11: 27)と答えたことによって贖われた。 

イエスは、この瞬間、「蛇」の情報を取り消して御言葉に置き換えることで「女」の過ちを贖っただけではなく、同時に、彼女を通して全人類が受け取った「死」の情報を修正し、真理を示したのだ。それは、信者を永遠の命に導き、第一の復活に与らせるためである(黙示録20:5参照)。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)と言ったイエスの言葉が、これを証ししている。 

そして、「私は復活であり、命である」と言ったイエスを現わしているご聖体を前にして、全信者が、マルタのこの言葉を繰り返すことで、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という天の父がペトロに現した言葉の上に「私の教会を建てよう」と言ったイエスの言葉を、教会が実証することになるのである。 

つづく

Maria K. M.


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