イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/01/08



125. 主の洗礼

洗礼者ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に、「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:7~8)と厳しい言葉を放った。この「毒蛇の子ら」には、創世記の「蛇」の子孫のイメージが重なる。 

本ブログ124参照
「蛇」が、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」(創世記3:5)と言った「善悪の知識の木」にまつわる出来事を観察すると、次のような考察が可能になる(創世記3:1~24参照)。人には、行為にしようとする対象について、何事かを判断する無意識の思考作用がある(3:1~5参照)。そこから遅れて意識に現れる判断は、人に特徴的なエピソード記憶を発達させ、その言語表現に深く関る(3:6~8参照)。このような観点から見て、神が命の木と善悪の知識の木を生えさせたエデンの園の中央とは(2:93:3参照)、人の意識の中央だと捉えられる。 

主の洗礼は、イエス・キリストが、ご自身の人生を自ら聖書の歴史に挿入した出来事である。キリスト者は洗礼を受けてイエス・キリストに従っている。それは、いわば、彼のいる新約聖書の世界の未来に飛び込み、自らそこの住人となって生きることで、新約聖書の世界の歴史的時間を引き延ばしている。新約聖書から生まれたミサ典礼がこれを可能にしている。 

イエスは、この引き延ばされた新約聖書という神の現実の内で生きることになる私たち信者のために、創世記に起こった人の過ちを一つ一つ丁寧に御言葉で贖い(本ブログ№116参照)、ご自身の受難と死によって、初めの殺人者となったカインの罪と、人の罪の歴史を贖った(本ブログ№117参照)。そして、死者として墓に収められ、復活することによって、未来永劫すべての過ちと罪と死を先に消去した。神は、イエス・キリストによって、聖書に載ったすべての過ちと罪と死の記憶が消し去られたことを、新しい聖書によって証ししたのだ。 

「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)という主の洗礼についての洗礼者ヨハネの証言は、多くの信者が、今も自分の意識の中に大切に抱えている自身の洗礼の恵みである。彼らには、「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3:17)と言う声を聞く希望がある。 

ヨハネ福音書には、「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人がイエスを信じた」(ヨハネ10:41~42)という記載がある。洗礼者ヨハネは確かにその使命を全うした。

Maria K. M.


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