イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)


103. 「あの獣」と「偽預言者」 その2

これまで考察してきたように、黙示録の「あの獣」とは、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)にたとえられた人の偶発的情報が(本ブログ№4参照)、それを取り込む人の中で、知識となったものだ。この知識は、人を媒体として言葉になる。これが「偽預言者」である。この言葉は、一見実現可能なイメージを伴って、人の内で強固な記憶に作り上げられていく。人の“知識”が人を媒体として“言葉”になった「偽預言者」の振る舞いは、神の知識である御言葉が人となったイエスにとって、まさに「毒麦のたとえ」の「敵の仕業」(マタイ13:28)であった。 

「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」(マタイ13:25)のである。だから、前回考察したように、「地上の王たちとその軍勢」(黙示録19:19)は、生きている間から「獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者」(黙示録19:20)になっていた。人の偶発的情報を取り込んで、獣の”知識“を持った彼らは、それを”言葉“にして、「偽預言者」の振る舞いを演じたのだ。 

ここで、「毒麦のたとえ」で、「行って抜き集めておきましょうか」(マタイ13:28)という僕に、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」(マタイ13:29)と言った主人の心配を見ると、イエスの「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」(マタイ13:37~38)という解説の、「畑」を、一人の人の記憶と捉えることができる。また、「毒麦は悪い者の子らである」と言って、「毒麦を蒔いた敵は悪魔」(マタイ13:39)とも言っていることから、毒麦は人の偶発的情報を指している。これを取り込んで自分自身の知識にし、それを”言葉“にすれば、「偽預言者」が出現する。 

御言葉を聞く信者は、自身の記憶の内の「偽預言者」の存在を知ることができる。御言葉を聴く自分自身と区別できるようになるのだ。公生活を始める前にイエスが荒れ野でした体験は、神であっても人でもあったイエスにも、人の偶発的情報の記憶があったことを伝えている。しかし、イエスは、これをサタンと呼んで御言葉であるご自身と完全に区別していた(マタイ4:1~11参照)。今、複雑な社会構造の只中にいる私たちは、荒れ野でイエスがしたように、内なる「偽預言者」を、御言葉を聞く自分自身と区別する必要に迫られている。そのためには、イエス・キリストの世界観を身につけることが必須である。新約聖書の内にあって、福音書と密接につながっているヨハネの黙示の訓練がそれを可能にする。それは、聖霊によって御言葉が生きているからだ。

つづく

Maria K. M.

 

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