イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/12/05


68. 光あれ!

カトリック教会の司祭から子供のころ性的虐待の被害にあったダニエル・ピッテ氏の手記の最後には、その教区のモレロ司教と執筆協力者のレポン氏が、本手記の出版前年に、加害者のアラス神父に面談した記録が載せられている。このとき76歳になっていたアラス神父の年齢をみると、前回考察したように、彼自身が、聖体拝領において、司祭の前で跪いて唇を開き、舌を出して拝領する人であったし、叙階された後は、このような人々に聖体を授ける司祭の一人であったろう。このような重大な犯罪が長きに渡って隠蔽され得たのは、大きな権力と権威が結びついた結果であり、上記の聖体拝領の仕方を続けてきたことは、司祭をこのような権威に依存させ、支配欲を満足させる行為に向かわせる危険をはらんでいた(本ブログ№67参照)。加えて、ミサのたびごとに、聖体拝領の前には、司祭は会衆と共に百人隊長由来の言葉を唱えてきたにちがいない(マタイ8:8参照)。

本ブログ№66で考察したように、百人隊長の人間的な謙遜は、これらの欲望から遠ざけるより、支配欲をかき立てる方に向く可能性がある。彼が語った部下の兵隊とのやり取りのたとえから分かるように(マタイ8:9参照)、彼の謙遜は、人間の権威の下にいる者が、その権威への服従によって発現したものだ。だから彼は、特別な権威の下にいるイエスが命じれば、子(僕)は癒されるということを、自動的に信じることができた。そして、イエスが言った「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ8:13)という言葉が実現した。しかし、彼が、子(僕)が癒されても、感謝して神を賛美するためにイエスのもとに戻って来なかったのは、誰もがイエスを神であると思っていなかったように、彼にとってもそれは思いもよらないことだったからだ。彼は当時の人々と同じく、イエスをエリヤやエレミヤのような権威ある預言者の一人だと考えていたにちがいない(ヨハネ16:13~14参照)。この百人隊長由来の言葉を、信者がミサの度にご聖体を前にして唱え続けていれば、やがて無意識のうちに、“イエスが神だとは思いもよらないこと”に陥ってしまい、ご聖体がイエスご自身だと信じる根拠を失ってしまう危険がある。

上記の面談記録にあるように、聖務が禁じられ、典礼や祭事に未練はないと言うアラス神父は、「神とはいったい誰なのか」、「神よ、私は何をしてしまったのか」、「自分が何者であるか」、「どうして神は私を止めてくれなかったのか」などの疑問を発し、その答えを悟れずにいた。百人隊長と同じく“イエスが神であるとは思いもよらないこと”を突破できずにいたのだ。これを突破したのは、天の父がペトロに現した言葉である(マタイ6:13~20参照)。ご聖体を前にして、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」と司祭が唱え、司祭と会衆がともに唱える言葉は、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)というペトロの信仰告白である。「世の罪を取り除く神の小羊」はメシアである生ける神の子を示唆している。だから、「神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」(黙示録19:9参照)なのである。ゆえに、ペトロの信仰告白は「神の真実の言葉である」(黙示録19:9)。

Maria K. M.


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