イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/10/12

269. ヨハネ福音書と新約の司祭職 使徒パウロの至福直観

前回の「区別と識別Ⅱ」では、ヨハネ福音書と黙示録が、「川」というたとえを使って、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することによって、聖霊と協働する機会に恵まれ、至福直観と、多くの実りと癒しを得る幸いに与ることができることを考察した。そこでは人は、自己超越欲求が引き出され、その高揚感によって神のようになった感覚、あるいはキリストとの合一を体験した感覚に陥ることはない。ましてやそこにエクスタシーを見出すことはない。至福直観の至福とは、福音を観ることである。それは、聖霊が私たちの記憶から福音を引き出し、私たちの声がそれを語るとき直観される。私たちの語る声は、自分の感覚が捉えたものを証しするからである。 

イエスが、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハ14:20)と言われた言葉を自分のものにするのは、聖霊と協働する機会を捉えた時である。それを容易にするのは、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することを助けるヨハネの黙示録の訓練を、日常的に実践することである。聖霊と協働するということは、イエスご自身が、「私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(14:10)と言われたことを、信者が体験するのであるから、訓練はどうしても必要である。それによって、聖霊と協働する自分を捉えて、「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいる」と言われたイエスの言葉を共有することができる。 

パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように主の幻と啓示について綴っている。「私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです」(二コリ12:2)。十四年前というのは、彼が回心した頃かもしれない。続けて同じ内容を繰り返していることから(12:3参照)、パウロはイエスの名によって遣わされた聖霊と協働する機会を捉えた時、その強烈な印象を受け取ったのである。そして、「その人は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです」(12:4)とある。「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」とは、新約聖書に記されることになる福音であった。それが未来を先取りした内容であったために、彼には分かっても言葉にできなかったのである。 

パウロは、聖霊と協働する機会を捉え、至福直観に与った。しかしここで問題なのは、「第三の天にまで引き上げられた」と、「その人は楽園にまで引き上げられ」と書いていることだ。彼はその時、あるいは、後で、その体験に何らかのエクスタシーが伴っていたことを見出したのである。彼はそれを隠さず告白している。当時のコリントの共同体が抱えていた厳しい状況に対する戦略があったからだ。パウロは自分のすべてをかけてその状況を乗り越えようとしていた。彼は、「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません。もっとも、私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。しかし、誇るのはやめましょう。私について見たり、聞いたりする以上に、私を買いかぶる人がいるかもしれないからです」(二コリ12:5~6)と続けた。 

そして、「また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(二コリ12:7~8)と書いた。彼は、啓示を受けるたびにまとわりつくエクスタシーの感覚を、「棘」にたとえて冷静に受け止めている。そして主が、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(12:9)と言われたことを私たちに伝え、「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」(12:9~10)と励ましている。 

パウロには、至福直観の先に見えていたものがあった。それは、未来の信者たちが、完成されたミサ典礼の中で、キリストとの完全な合一の体験に与り、聖霊の特別な「識別」に導かれる姿である。パウロが次のように証ししたことから、新約聖書の成立によって、福音書にイエスの言葉が現れると、その言葉がすべての時を自由に現在化することを、彼が知っていたことが分かる。 

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリ11:23~26)。 

Maria K. M.


 2026/10/05

268. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅱ

創世記で神が人を創造された時、人は、「我々のかたち」(創1:26)を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が(本ブログ№252参照)、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」(同)を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。人は、「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型がセットアップされて初めて聖霊と協働することができる。創世記に、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(2:19)と書かれているのは、人が初めて聖霊と協働した様子を描いたものである。 

その後、人が二人になったことによって、「人間の情報」が発現した。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」に、人は強く引き寄せられてしまう。善か悪かを判断することが、人の自己超越欲求を引き出し、その高揚感によって神になったような錯覚に陥るのだ。創世記で神が、「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」(創3:22)と言われて人を追放し、「命の木」に至る道を守られた理由がここにあった。自分の記憶に入って来た「人間の情報」を「区別」することなく取り込んで、自分の「人間の知識」にしてしまえば、「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」が、「命の木」を飛び越えて「命の息」とつながり、霊の領域が維持できなくなる。人は聖霊と協働する機会を失ったのだ。 

今の私たち信者は、イエス・キリストによって「命の木」に至る道を見出し、再び聖霊と協働する機会を授かった。私たちは、イエスが教えてくださった天の父の名を呼んで、聖霊と協働する望みを表明することができれば、その時、自分が「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型にセットアップされている。しかし、「人間の情報」を取り込み、それに満たされ乗っ取られてしまう危険は、常に待ち構えている。それを防ぐには、「人間の情報」を聖霊と協働したいと願う自分と「区別」しなければならない。そしてそのためには、それに特化した訓練が必要である。自分が持っていた聖霊と協働する望みを失ってはならないのである。信者は、聖霊と協働することによって、イエスの言葉を体感し、至福直観へと導かれ、イエス・キリストの似姿を現わすのである。 

ヨハネ福音書と黙示録は、「川」でそのことを表現して教えている。ヨハネ福音書については次の場面である。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである」(ヨハ7:37~39)。イエスのこの言葉どおり、聖霊降臨後、聖霊は、信者一人一人とつながり、協働し(使2:3~4参照)、イエスの言葉を信者の記憶から引き出し、実現しようと、常に待ち構えておられる。私たちの自発性が、ご自分に向く時を待っておられるのである。 

一方黙示録は「川」について、「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす」(黙22:1~2)と表現した。これは、黙示録の最終章の言葉である。ここまで黙示録を日々朗読しその声を聞く訓練をしてきた者は、神がその僕たちに示すためキリストに与えた黙示録が、「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川」であることを悟っている。朗読する者の声によって流れ出たその預言の言葉が、それを聞く自身の記憶に入り、暗黙知となって、中に記されたことを守る者とする。こうして、聖霊がその預言の言葉を引き出す時に備えているのである。その人は、それが実際に起こる時、至福直観を体験し、多くの実りと癒しを得る。黙示録の訓練は、それを保証している(黙1:3、22:7参照)。 

このように聖霊は、イエスを信じた人々が聖霊を受け、聖霊と協働する幸いを得ることができるように、ヨハネの黙示録を新約聖書に加えられた。それは、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と「人間の情報」を「区別」することに特化した訓練のための預言の書である。ヨハネの黙示録の冒頭の次の言葉がそれを明らかに示している。 

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:1~3)。 

Maria K. M.

(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 ➡ 「パトモスの風⑯」


 2026/09/28


267. ヨハネ福音書と新約の司祭職  契約

イスカリオテのユダは、「盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていた」(ヨハ12:6)。マタイ福音書はユダの最期について、「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった」(マタ27:3~5)と書いている。元徴税人であって、金銭の力を、身をもって知っていたマタイは、ユダの陥った状況をよく理解できたのである。しかしユダがなぜ最後に祭司長や長老たちを頼ったかについては、言及していない。 

そこは、私たち信者が、なぜミサ典礼の中の交わりの儀で、奇妙な言動をするのかという前回考察した理由に近い。ご聖体を前に、百人隊長の謙遜の言葉を唱えるのは、謙遜の徳を身につけ、キリストに相応しい者になるという、教会の高次の欲求の表れである。その理由は、キリストを花婿にたとえ、教会を、その花婿に相応しく成長する花嫁のイメージで捉えているからだ。この捉え方は、旧約の民が、神と民の契約関係を、人間にとって最も身近で強固な夫婦の契約にたとえたもので、私たち教会は、その表現を世襲し、発展させてきた。しかし全ての福音書が、イエスが人々に、「天におられるあなたがたの父」と言って語りかけている場面を記載している。さらにそのイエスが「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われているのだから、キリストと教会の契約関係は、父と子の契約関係なのである。 

旧約の民が、神と民の契約関係を、夫婦の契約にたとえ、それが、イエスの時代に、民にとって旧約聖書に根付いた、よく知られた宗教的イメージだったとすれば、そこに父と子の契約関係をもたらそうとするイエスに対して、ユダヤ人たちが反感を抱いたのも当然である。金銭に捕らわれてイエスのもとに留まっていたユダさえも、最後には他のユダヤ人と同じような不信感を持って、祭司長や長老たちを頼り、その側に就いてイエスを裏切ることになったということが理解される。 

創世記6章のノアの契約についてみると、当時ギリシア文化が広い地域に伝播し、現地文化と融合し始めていた。人間的な家族関係を持っているギリシア神話の神々が伝わって来たのだ(創6:1~8参照)。大洪水の伝承は世界各地に残っていると言われる。ここでは、神が唯一の方であることを知らせ、その信仰を守ることが、箱舟のイメージで語られていると考えられる。ノアは、「私はあなたと契約を立てる」(6:18)と言われた神に守られ、唯一の神の信仰へと招かれた。彼は、「主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた」(8:20)。そこで神は、人と初めての契約を結んだ(9:1~17参照)。そこには、契約内容としるしが明示されている。旧い契約はこのようにその初めから、その内容が明らかに示され、しるしをもって証しされている。 

しかし、イエスが契約という言葉を使われたのは、彼の最期の食卓の席において、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:27~28)と言われた時だけであった。そこには、「私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである」(ヨハ10:17~18)と証しされたイエスの言葉をもってしても、私たちには理解することが難しい父と子の契約があった。 

イエスによって自分たちが授かった新しい契約の全貌が、明確につかめないままに、私たち教会は、神と民の契約関係を、夫婦の契約にたとえた旧約の民の表現を世襲しただけでなく、信者たちを養成するために、ミサのことばの典礼の初めに、まず旧約聖書を朗読し、詩編を唱和する。教会の祈りにも詩編を用いてきた。また、徳の道を説き、「ソロモンの雅歌」(雅1:1)も大いに参考にした。初め神の御心に適ったソロモンは、多くの女性たちを愛し、やがてその虜になったために、神に背き、従わなくなったことが、彼と民を滅びの悲劇へといざなっていった(王上11:1~13参照)。 

旧約聖書の中の雅歌の教えは、これを読む者がソロモンの轍を踏んで滅びの子とならないために、性愛を実際に体験せずとも、そのいざないが人の感覚にどのような刺激をもたらすか、さまざまな角度から伝えている。その最後は、金銭の力を身に受けて、ユダのように人間に頼り、神を裏切ることになるのである(雅8:11~14参照)。 

Maria K. M.


 2026/09/21


266. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅰ

私たち信者の多くは、自分たちがミサ典礼の中の交わりの儀でする奇妙な言動に気付いていないので、今も世界中でそれを続けている。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ったにもかかわらず、司祭が上げるご聖体を前にして、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と宣言し、そうしておきながら、次にはご聖体を拝領しに出ていくのだ。信者たちがこの自分の言動の奇妙さに気付かない原因は、イエスが、「私が行って癒やしてあげよう」(マタ8:7)とご自身から言われたその言葉を断ってまでも見せた、百人隊長の人間的な謙遜を見習えば、イエスが褒めた信仰につながるという誤解と錯覚にある。しかし、イエスが褒めた百人隊長の信仰は、自分の兵士としての素朴な体験から、イエスの権威を信じたことにあった(8:9参照)。 

この誤解に満ちた錯覚は、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたイエスの言葉が、ご聖体制定に向かっていたという現実を曖昧にする。そこには徳を身につければ、キリストに相応しい者になれるという高次の欲望が隠れている。その欲望を裏から支えているのは、世の罪を取り除く神の小羊の食卓で、花婿と肩を並べて立つ花嫁のイメージである。しかしイエスは、「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」(マタ10:25)と言われた。イエスが弟子を導く道は、徳ではなく真理を身に付けることにある。真理が彼らをご聖体に向かわせる。 

弟子の多くが離れていった中でユダがイエスのもとにとどまった理由は、彼が金入れを預かっていたからだ(ヨハ12:6参照)。彼はやがてイエスの前で人に意見をするまでになる(12:5参照)。イエスと肩を並べて立つようになったと錯覚したのだ。錯覚は、人を聖霊が働くことのできない状態(悪魔の状態)に陥らせる。ヨハネ6章のパンを増やす場面で、イエスはご自分の方へ来る大勢の群衆を見て、フィリポに、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」(6:5)と言われた。それはフィリポを試みるためであったと書かれているが、むしろユダのためだったと思う。その問いかけに、金入れを預かっていたユダは誰よりも敏感に反応したに違いないからだ。しかしユダはそれを表に出さなかった。そこで6章の最後にイエスは、「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」(6:70)と言わざるを得なかったのだ。 

パンを増やす場面に戻ると、イエスの問いかけにフィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」(ヨハ6:7)と答えた。その向こうでアンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」(6:9)と言った。アンデレの眼差しは、イエスの「パンを買って来て」という言葉を超えて、その先にあるイエスの現実に向けられ、彼の言葉は、イエスのしるしに結び付いていった。 

アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、この師がイエスに従うように促した二人の内の一人であった。師に機会を与えられたこの二人が従って来るのを見たイエスは、「何を求めているのか」(ヨハ1:38)と言われた。彼らは、その時夕方であったので、「どこに泊まっておられるのですか」(1:38)と尋ねた。イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と言われた。彼らは、その日はイエスのもとに泊まった。心を合わせてイエスに従っていこうとする彼らが、瞬時に「識別」してイエスに答え、この流れをつかんだのは、聖霊が働かれたからだ。 

その翌日イエスは、フィリポに出会って、「私に従いなさい」(ヨハ1:43)と言われた。その後、フィリポはナタナエルに出会うと、「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(1:45)と言った。しかし、ナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出ようか」(1:46)と言い返した。この言葉に、フィリポは、「来て、見なさい」(同)と返した。彼は無心に、ナタナエルが言った情報を、イエスと出会った自分の知識と「区別」していた。そして彼の口から出て来た言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であった二人に、イエスが返した言葉と同じであった。フィリポはこのとき聖霊と協働したのである。 

本ブログ№264で考察したように、創世記は、天地、森羅万象を創造された方を「神」と呼び(創1:1~2:3参照)、聖霊が人と協働できるように人に霊の領域を形づくり、霊を授けた方を「神である主」と呼んだ(2:4~25参照)。創世記2章に、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(2:19)と書かれている。神である父と一つであるイエスは、人であっても聖霊が降ったことによって、三位一体の神の働きを現される。イエスはまだ栄光を受けておられなかったが(ヨハ7:39参照)、「神である主」となって、弟子たちに聖霊と協働して事を成す体験をさせることができたのである。 

このような体験を私たち信者が授かるために不可欠な準備は、私たちがイエスの仕方(道)に従って、「人間の情報」を、聖霊と協働したいと願う自分と「区別」する習慣を身に付けることと、その習慣を身に付けようとする者たちが、行為の前に、イエスの名によって二人三人が心を合わせ「識別」する習慣を持つことである(マタ18:19~20参照)。これらの習慣が先に立って道を進み、私たちは、真理を身に付け、命に至るのである。 

Maria K. M.


 2026/09/14


265. ヨハネ福音書と新約の司祭職 悪魔からサタンへ

前回の考察を続ける。ヨハネ6章で、イエスの言葉を聞いていた弟子たちの多くが離れ去った後、イエスは残った12人の弟子たちに、「あなたがたも去ろうとするのか」(ヨハ6:67)と問うた。シモン・ペトロは、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)と答えた。この言葉に応じたイエスの言葉が衝撃的なのは、ペトロが言った「私たち」の中の一人が悪魔にたとえられたからだ。その原因は、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)という現実を見たイスカリオテのシモンの子ユダの状態にあった。 

この時のユダの状態は、創世記3章で「女」が神の命じたことを色々考えているうちに、「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」(創3:4~5)と結論付けたと同じところに止まっていた。この時、「人間の情報」を取り込み自分の知識にした「女」は、悪魔にたとえられる。そして、続く、「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」(3:6)ということを機に、神が食べることを禁じておいた実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたのである。この行為に及んだときの「女」は、「サタンが彼女の中に入った」状態にたとえられる。悪魔がサタンになるのは、実際の行為に及ぶ時宜を得た時である。ユダは、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のを機に、イエスから離れるという行動に出ることもできたのである。 

しかし、彼はイエスのもとにとどまった。それは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからだと後で説明された(ヨハ12:6参照)。彼が悪魔の状態のままイエスのもとに留まったことは、彼に大きな葛藤を負わせることになった。創世記で神が「女」に、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われた言葉が、実現しようとしていたからだ。この神の言葉は、すでに「女」の子孫であるカインに、効力として現れていた。彼は、「神が置かれた敵意」のおかげで、殺人の罪を犯したにもかかわらず、自分のした行為に恐れをもって神に向き直り、救われた。今、ユダが前にしているのは、まさに「神が置かれた敵意」が人となって現れたイエスであった(ルカ2:34~35参照)。 

人は、聖霊と協働して神の似姿を現わすために、神の姿に似せて創造された霊の領域と、神のかたちに創造され、他の被造物にはない富と権力と権威を付与された肉体の領域との間で(本ブログ№252参照)、そのバランスを取ることができるような人相応の「人間の知識」を授かっている。神が受肉して人の前に立つ方、イエスとして現れた時も、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」に「人間の情報」が関わる時、そのままその人の内で、「人間の知識」に寄り添っていた。ゆえに、自分の記憶にある「人間の情報」を、聖霊と協働するはずの自分と区別せずに、自分の知識として取り込んだ時に起こる葛藤の大きさは、進化のゆえに、創世記の「女」やカインの比ではない。 

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」(マタ26:24)と最期の食卓の席でイエスが言った言葉には、人となられた神の無念さが現れている。ヨハネの6章の終わりにある「あなたがたも去ろうとするのか」というイエスの問いかけは、特にユダに向けられていたとも言える。それは、「神が置かれた敵意」そのものとして世に来られたイエスが、洗礼者ヨハネが言った、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)だったからである。「私が命のパンである」(6:35)と言われたのは、イエスである。ミサ典礼の中でキリストの御体として現れるご聖体は、私たち信者自身の内に潜んでいるユダにも「あなたがたも去ろうとするのか」と問うておられる。 

現在、司祭がご聖体を取り上げ、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」と唱える言葉に、世界中の信者は、司祭も会衆も共に、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」と応える。しかし、そう応えておいてその直後に、ご聖体を拝領するというコントラストがある。しかも交わりの儀の場面の初めには、信者全員で、主の祈りを唱え、その中で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っているのである。実に私たちカトリック信者のこの奇妙な光景は、いったい何を意味するのであろうか。 

ユダがイエスのもとにとどまったのは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからだと後で説明されていることを思い出すと、私たちがこのような現実にとどまっている理由を、自分自身に問い直す必要に迫られている。

 Maria K. M.


 2026/09/07

264. ヨハネ福音書と新約の司祭職 イスカリオテのユダ その始まり

ヨハネ6章の最後には、次のように書かれている。「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」(ヨハ6:70~71)。これは、直前のイエスの問いに、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)と答えたシモン・ペトロの言葉にイエスが続けた言葉である。この言葉は、唐突で、衝撃的でさえある。それは、「私たちは信じ、また知っています」と言ったペトロの言葉と、「その中の一人は悪魔だ」と続けたイエスの言葉とに、際立ったコントラストが見えるからだ。 

ヨハネ福音書は、これまで考察したように、1章の冒頭から天地創造とイエスの到来を関係づけ、その中心になるテーマが命であることを告げている。そして3章までに、洗礼者ヨハネを通して新約の司祭像とその役割を示し、同時に聖霊の降臨、入信の秘跡、聖霊の働きと新約の司祭職について示唆した。4章では、新しい礼拝について、またこれに関連して、神と新約の司祭との新しい関係が具体的に示された。また5章では、安息日の真の意味とその完成について明らかにされたイエスが、父が神の自発性そのものであり、それが命であることを示された(ヨハ5:19~21参照)。そして、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(5:26)と言われた。このイエスの言葉は、イエスの到来を告げる1章の冒頭の次の言葉を説明することができる。 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」(ヨハ1:1-5)。この1章の冒頭の言葉は、神には、神と言と命という三つの在り方があるということを示している。一方、上記のイエスの言葉と合わせてみると、神は父であり、言は子であり、「言の内に成ったものは、命であった」とある「命」は、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださった」命である。「この命は人の光であった」とあることから、この命が真理の霊であることが分かる。このように、聖霊は御父と御子から発出するのである。 

このことは、創世記が「神」と「神である主」を、状況によって書き分けていることと関係している。創世記1章では、天地、森羅万象を創造され、人を「我々のかたち」に創造された方を「神」と呼んでいる(創1:1~2:3参照)。父から子を通して聖霊(命)に至る仕方で創造を成し遂げ、成し遂げた状態を聖霊(命)によって維持するためである。一方、2章では、聖霊が人と協働できるように人に霊の領域を形づくり、人を「我々の姿」に創造された方を「神である主」と呼んでいる(2:4~25参照)。こうして人の内にも三位一体の神の似姿である霊の領域を創造し、聖霊と人が一つになって働くことを可能にしたのである。このとき父と子は一つになって、聖霊の働きによって、人を三位一体の神の内に招き入れる。聖霊は御父と御子から発出するのである。 

3章では、人が聖霊と協働できる状態の時には「神である主」として、できない状態の時には「神」として描かれている。ここで「女」と「蛇」に「神である主」が対応しているのは、この時「女」が聖霊と協働できる状態にいたことを物語っている。「蛇」は「女」の記憶にある「人間の情報」なのだ。「女」が聖霊と協働できる状態にいたのは、彼女が、自分に取り込んだ「人間の情報」(蛇)の存在を認識し、自分と区別していたからである(創3:13参照)。さらに、人がエデンの園を追放され、神と関わった記憶が遠のいていく4章では「主」が登場し、「神」への人の思いが曖昧になっていく様子が描かれる。「命の木」への道を閉ざされた人は、もう聖霊と協働することがなかったからだ。そこでこれ以後、神は、3章まで使われた「神である主」の仕方で、ご自身から人に語りかけることはなくなった。 

最期の食卓でイエスが語った次の言葉は、やがて再び「神である主」の仕方で、神が人に関わっていくことを示している。イエス・キリストの到来によって、人は、聖霊と協働する可能性を持つようになったのである。「よくよく言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」(ヨハ14:12~14)。ここに御父と同じ命を持つ御子の姿がある。イエスはご聖体を制定し、ご自分が父のもとに昇った後、「神である主」が、常に私たちと共におられ、聖霊と協働する私たちが、三位一体の神の内に常に招き入れられるようにされた。 

イエスがこの言葉を語ったのは、フィリポが、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」(ヨハ14:8)と言った場面である。このフィリポは、6章の初めの場面で、イエスに試されている(6:6参照)。そしてその場面こそが、イスカリオテのユダの物語の始まりでもあった。イエスに、「私たちに御父をお示しください」といったフィリポの言葉が、「私たちは信じ、また知っています」と言ったペトロの言葉と、「その中の一人は悪魔だ」と続けたイエスの言葉との間にあるコントラストの答えにつながっていく。 

Maria K. M.

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 2026/08/31


263. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私は命のパンである

ヨハネ5章でイエスは、「私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、その人を受け入れるだろう。互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか」(ヨハ5:43~44)と言われた。このイエスの言葉は、そのまま今の私たち信者にも向けられている。私たち信者がイエスから求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは何であろうか。イエスは、ヨハネ6章に至るまで、およそ1年以上も弟子たちと共に過ごし、彼らを養成してこられた(ヨハ2:13、6:4参照)。6章で弟子たちは、新約の司祭職に関わる最も重要な体験をする。1~5章までともに見てきた私たち信者にも、彼らが何を体験したか、その理解が問われている。そこには3つのポイントがある。 

第1のポイントは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)である。このイエスの言葉の「父なる神が、人の子を認証された」ということを証ししたのは、洗礼者ヨハネである(1:32~34参照)。それは、神であっても人でもあるイエスに聖霊が降ったということであり、聖霊降臨を証ししている。したがって、ここで私たち信者が求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは、イエスのように日常を聖霊と協働して生きることである。 

第2のポイントは、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:38~40)というイエスの証しである。ここには、生きている人と死んだ人とを救うご聖体の働きが語られている。ここで私たち信者が求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは、ご聖体が働けるように、ご聖体を拝領することである。 

第3のポイントは、イエスが、「私は命のパンである」(ヨハ6:48)と言われ、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(6:53)と証しされたことである。ここにヨハネ福音記者が、「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」(6:59)と但し書きをつけたのは、イエスがこれらの言葉を会堂で公に語っことを明らかにするためであった。ここで私たち信者が求めるように勧められている「唯一の神からの栄光」とは、このようにご自分の肉と血について会堂で公に宣言されたイエスに倣って、私たち信者もミサ典礼の中で、ご聖体がイエス・キリストであることを公に宣言することである。その仕方は、福音書の中に3つの仕方で示されている。 

1つ目は、イエスの言葉を聞いていた弟子たちの多くが離れ去った後、イエスが残った12人の弟子たちに、「あなたがたも去ろうとするのか」(ヨハ6:67)と問うた時である。シモン・ペトロは、次のように答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)。イエスが教えることのなかったこれらの言葉がペトロの口から出たのは、ペトロが聖霊と協働したからである。シモン・ペトロは、聖霊によって答えたのだ。 

2つ目は、同じくヨハネ福音書で、イエスがマルタを導きながら、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハ11:25~26)と問うた時である。マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(11:27)と答えた。マルタは、イエスによって答えたのである。 

3つ目は、マタイ福音書で、イエスが弟子たちに、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うた時である。シモン・ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と答えた。イエスは、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(16:17)と言われた。シモン・ペトロは御父によって答えたのである。 

これらの3つの問答には、父と子と聖霊がそれぞれに関わっておられる。ここで注目するのは、イエスが導いたマルタの答えと、御父が現したシモン・ペトロの答えが同じであることだ。それは偶然ではなく、まさにイエスが、「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたとおりである。そこで私たち信者は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」という言葉によって、ご聖体がイエス・キリストであることを公に宣言しなければならない。しかし、それは未だ現実になっていない。私はイエスが私たち教会に次のように言われている気がする。「私は蛇の頭を砕いた。あなたは砕かれた踵を再生しなさい。それは私が洗ったものだからだ。」 

Maria K. M.

 


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