イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/08/17


261. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私は自分からは何もできない

「私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである」(ヨハ5:30)。ここには、ご聖体のイメージがある。イエスは、「私が命のパンである」(6:35)と言われる6章で、前回考察したテーマを繰り返しておられるだけではなく、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(6:38)と言われた。「御心を求めている」ところから、「御心を行うため」へと、話を先に進められたのである。そして、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである」(6:39)と明らかにされた。 

この言葉は、ヨハネ18章の「それは、『あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした』とイエスが言われた言葉が実現するためであった」(ヨハ18:9)へとつながっている。この時この場面で、使徒たちを一人も失ってはならなかった。聖体制定とそれを継続することを命じた御言葉によって、新約の司祭職を授け、王権を委ねた彼らが、聖霊と協働し、イエスの御業を引き継ぐご聖体を世に現し続け、司祭を産みだす教会を司牧し、世話をして仕えることになるからである(21:15~19参照)。こうして、彼らは生きている人に仕える。ご聖体は、生者も死者も、すべての霊を救っていくのである。御父が引き寄せてくださる力と一つになって、十字架上ですべての人を引き寄せるイエスの力が、ご聖体の内からあふれ出るからである。 

このように6章の「私が一人も失うことなく」という言葉は、18章の場面と連動し、格別に死者がイメージされている。今も、無知の内に死んで陰府で待つ人々は、生きている間に救いの道に招かれる人々よりも、はるかに多いと思われる。そこには死を受け入れずに死んだ者たちもいる。悪霊となってさまようこの人々の霊は、ゆえに死を求めて、生きている人々に取りつこうとする。彼らと共に死を再体験して救われたいのである。しかし悪霊に取りつかれた人は、自分に起こる尋常ではない葛藤に苦しむ。その人にも神が「命の息」を吹き込まれた霊の領域があるからである。 

その苦しみから人を救うために、イエスは弟子たちに、悪霊を追い出す権能をお授けになった。そして、神であっても人でもあったイエスご自身も、現世では悪霊を追い出すだけで、救うことはされなかった。人にはできないということをお示しになったのである。イエスは、人として死んで復活され、私たちに永遠の命を証しされた。しかしそれだけではない。こうしてご聖体という、第二の受肉を起こされ、悪霊となった人々の霊をも引き寄せ救うことを決めておられたのである。この事が起こる場が黙示録にあるハルマゲドンである(黙16:12~1620:7~10参照)。イエスは、御父が与えてくださった人を、まさに一人も失うことなく、終わりの日に復活させる完全な神の計画を実行されようとしていた。 

そこで生きている人々に対して、「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:40)と言われた。御父は、生きている人々が、生きている間にイエスを受け入れ、その名を信じて永遠の命を授かったことを認識にしていくようにと願っておられるのである。ご聖体は、私たちが拝領し、御父の願いを実感するようにご自身をお与えになる。この実感こそが、派遣の祝福と共にミサ典礼が閉祭し、私たちが日常の中に向かいつつも、再びミサ典礼の場に、ご聖体のもとに戻るように私たちを引き寄せる大きな力である。 

私たちが日常の中に向かうのは、そこで聖霊が協働して生きようと待ち構えておられるからだ。聖霊は日常の中で私たちと協働することで、いわば第三の受肉の神秘を起こし、私たちに神の似姿が現れる。そしてイエスの福音を伝播させながら、私たちの霊の領域が肉体と切り離される時、私たちと共にいて、天のミサ典礼の場まで引き上げようとされるのである。使徒言行録に、「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使2:2~3)と書かれたように、イエスの名によって遣わされた聖霊は、私たち信者一人一人の上にとどまっておられる。 

イエスが証しされたように、「私がその人を終わりの日に復活させることだからである」という御父の御心を現実にできるかどうかは、私たちが、子を見て信じ、永遠の命を得る者であることを、いかに自覚し、自分の認識に落とし込めるかにかかっている。ゆえに信者は、自分の救いのためにご聖体を拝領することを強く望む者なのである。しかし私たちは、信者である自分の思いを知って、それを素直に言い表し、実現しようとしているだろうか。イエスは、当時の人々がその業を見ても信じないことを知っておられた。

 Maria K. M.


 2026/08/10


260. ヨハネ福音書と新約の司祭職 死と陰府


ヨハネ福音書5章では、イエスを迫害し、殺そうと思う者たちの内奥に、安息日についての無理解と、神を父と呼ぶことができなかった民の無念さが明らかにされていた。形骸化したモーセの律法に対する思いよりも、繁栄を極めたと伝えられる王たちの時代への憧憬と、いつかローマの従属から解放されて救われる日を願う民の思いを、詩編の朗読の声はつなぎとめていたに違いない。今や、ダビデやソロモン以上に偉大な王となる預言者や救い主が現れることを待ち望む彼らとともに、イエスも会堂に集って、詩編を朗読し、預言の書を開いていたのだろうか。しかしイエスは、新約の司祭職のために全く新しい教えと養成を持っていたのである。そこからすべてが新しくされた。 

前回は、「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職が、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼において、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させることから、ミサ典礼は、信者たちがその食卓にあずかるためだけではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられているということを考察した。そしてそれは、十字架上で成し遂げたただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが、陰府に降り、無知のために、死んでも苦しむ人々の霊を救われたその御業を、私たち信者がご聖体を拝領し続けることで、継続させるためであると考えた。そして、このことを伝えるペトロの手紙の箇所を取り上げ、確認した。 

マタイ福音書には、イエスが十字架上で亡くなった後、「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた」(マタ27:51~53)という描写がある。ヨハネ福音書5章でイエスは、それを裏付けるような教えを語っている。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える」(ヨハ5:21)と言われているからである。その対象者は、死んで墓に入っていた者である。生きている者には、すでにご自身の教えがあるからだ。そこで、「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている」(5:24)と言われた。 

死んで墓に入った者については、次のように言われた。「よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう」(ヨハ5:25~29)。この言葉は次の黙示録の「第二の死」と深く関わっている。 

「また私は、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方を見た。天も地も、その前から逃げて行き、見えなくなった。また私は、死者が、大きな者も小さな者も玉座の前に立っているのを見た。数々の巻物が開かれ、また、もう一つの巻物、すなわち命の書が開かれた。これらの巻物に記されていることに基づき、死者たちはその行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を吐き出し、死と陰府も、その中にいた死者を吐き出した。死者はおのおの、その行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。命の書に名が記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙20:11~15)。 

ご聖体は、それを拝領する私たち信者を、神のひとり子と一つに結びつけるとともに、それを通して、教会に一致をもたらす。ご聖体はまさに信者個々人と教会を生かすいのちの糧である。しかし、それだけではなく、ご聖体が私たち信者に食べられることによって、そこに現存するキリストは、ふたたび陰府に降り、そこで苦しんで待つ死者の霊を救いに招くことができる。ご聖体を拝領する私たちには、そのための機会をキリストに供することができるのである。 

ヨハネ福音書5章のこのテーマの終わりにイエスは、「私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである」(ヨハ5:30)と言われている。次回はここから考察を進め、6章で起こったことをしっかり検証していきたい。「私は自分からは何もできない」という御言葉に、命のパンであるご聖体のイメージがあるからだ。 

Maria K. M.


 2026/08/03


259. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の食卓へ

イエスは最期の食事の席で使徒たちに、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、聖体制定と同時に新約の司祭職を授けられた。そして、「私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(22:29~30)という御言葉によって、ご自身の王権を使徒たちに委ねられた。その王権は、天使がイエスの母に、「神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(1:32~33)と告げた王権である。この言葉は、それを委ねられた使徒たちによって、新約の司祭職が永遠に継承されることを保障している。 

聖霊は、このような新約の司祭職を信者たちが受け取ることができるように、彼らの感覚を、無意識の内に、イエスが準備されたミサ典礼へ向けるための暗黙知を必要としていた。そこでヨハネの黙示を用意されたのである。その訓練は、7つの預言(下記図参照)を繰り返し通過するループの中に日常的に入ることで、ミサ典礼に向かう上で最も大きな障害となる「人間の情報」を徹底的に区別するように組まれている。さらに、信者たちがミサ典礼を日常の軸に据え、そこに通う道を具体的な「イエスの道」として認識できるように、7つの幸いが導いていく。第1の幸い(黙1:3参照)が告げているように、黙示録の訓練は、感覚を通した刺激によって、無意識の内に、「イエスの道」を進む行動を促すための合図や命令を起こす、暗黙知となることができる。それは黙示録が、新約聖書の内容を示唆し、その正典としての完成と、ミサ典礼の完成を預言しているからである。 

旧約の民は、聖なる神との交わりの中に生き続けられるように、繰り返し犠牲を献げ、民のために執り成しをする祭司職を授かっていた。しかし、祭司職を委ねられた者たちの信頼性に不安を持った民は、神に王を求め、与えられた王にすべての期待をかけた。やがて王と民は、救い主を求める声を上げた。詩編は、王と民の声を無意識の内に一つにし、彼らが、未来の救い主へ希望を向け続けることで、神との交わりを保つための拠り所であった。ゆえに、すでに新約の司祭職を授かり、神の国に向けてミサ典礼を完成しようとしている現代の信者たちの訓練の書として用いる意味は全くない。旧約聖書は、信者の教養の一環として必要に応じて知らしめる必要はあるとしても、それを信者の記憶に刻みこむような養成をしてはならない(ルカ5:36~39参照)。 

「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職は、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させる。それは、ただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが陰府に降り、罪の結果によって死んでも苦しむ人々の霊を救われたそのみ業を、継続させるためである(マタ27:51~53参照)。ペトロの手紙がそれを次のように伝えている。 

「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです」(一ペトロ3:18~20)。 

「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち」として死んでいく人々は、今も大勢いる。「あなたがたを神のもとへ導くためです」とペトロが言っているように、私たち信者も決して例外ではない。ミサ典礼は、「私の国で食卓に着いて食事を共にし・・」とイエスが言われたように、本質的に食卓を囲んで集まる行為である。しかし、その日が来るまでは、私たち信者は、ご聖体を拝領することによって、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行って宣教される機会を供することができるように、主の食卓を囲みながらも、主の十字架のもとに立ち続けるのである。 

本ブログでも考察したアッシジの聖フランシスコが出会ったサン・ダミアーノの十字架は、それらを語りつくしている。イエスの十字架の周りを囲む白いレースの縁取りのような模様は、イエスの足の下で途切れ、その先に続きがあることを伝えている。ミサ典礼が、教会に集う会衆だけのためではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられていることを暗示しているのである。そこには、私たちの福音を宣べ伝える熱意が足りないために、死んでも待っていなければならない人々もいるだろう。十字架上から遠くを見つめるイエスの眼差しには、次の御言葉が秘められている。 

「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」(ヨハ10:14~16)。 

Maria K. M.


(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。  「パトモスの風⑭


 2026/07/27


258. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音書5章

ヨハネ福音書は5章から、「神の置かれた敵意」として誕生されたイエスが(ルカ2:34~35参照)、「人間の情報」と本格的に対峙される様子を描いていく。ヨハネ福音書には、他の福音書に比べて圧倒的に「ユダヤ人」という言葉が多い。ヨハネ福音記者の同胞に対する熱い思いには、イエスを受け入れず、その名を信じようともしない彼らについて、無念の思いが強かったのではないだろうか。それは彼が、ヨハネ福音書に流れる新約の司祭職という伏流水が、創世記の物語にその源泉を持つ旧約の祭司職を完成し、神の計画を実現するものであったと悟っていたが故であった。ヨハネ福音書は、1章の冒頭から、創世記を想起させるかたちで、その思いを綴っている(ヨハ1:1~18参照)。 

創世記で神はエデンの園から人を追放し、命の木に至る道を閉ざした後、「人間の知識」を守るために「神の置かれた敵意」が人の内奥で働くに任せた。その一方で、ご自分の目にかなう人を見出し、使命を与え、人が神との関係をつなぎとめるように導いていかれた。こうして一つの民となっていった人々は、モーセの時代に与えられた神の名と祭司職と律法を守ってきた。ダビデとソロモンの時代の後、捕囚の苦難を経ても、彼らはそれらをどこまでも保持し続けてきたのである。第二神殿を建立し、イエス誕生後も続いていたその工事のように、そこには、神殿への民の一途な思いがあった。しかし、神である御父の御心を担った御子がイエスとして地上にその姿を現した時、彼らの思いは、すでに神の思いと一つではなかった。 

ヨハネ福音書5章には、初めにイエスが安息日にベトザタの池で病人を癒した出来事が書かれている。それをきっかけに、「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(ヨハ5:16)とある。イエスは彼らに、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(5:17)と答えられた。福音書は、「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(5:18)と書いて、彼らの気持ちが、「迫害し始めた」から「殺そうと付け狙うようになった」に変わったことを示し、その変わり目が、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」というところにあることに注目した。ここには、本ブログでこれまで何度も検証してきたように、構造的な問題が隠されている。 

当時のユダヤ人たちにとって、イエスが、神を自分の父であると言われたことが、大きなショックであったことを、これらの出来事は物語っている。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史を(王上11:1~10参照)、彼らは承知していたのである。ヨハネ福音書は、「そこで、イエスは彼らに答えて言われた」(ヨハ5:19)と続けて、強い口調でイエスが御父と御子の関係を語られた言葉を、5章の最後まで書き通した。イエスがこれほどまでに証ししないではいられない問題を、彼らが抱えていたからである。 

ユダヤの人々は、幼いころから、詩編を耳で覚え、旧約聖書を暗記するように身に付ける環境にいた。その中で、すでにソロモンの時代から、神とイスラエルを花婿と花嫁、夫と妻になぞらえる発想が生まれ発展していた。後に雅歌を、神とイスラエルの愛として読む伝統も定着していく。神と親子の関係を築けなかった民の苦肉の策であったに違いない。しかし、神と民の関係に、花婿と花嫁、夫と妻という婚姻のイメージを当てはめることは、大きなリスクを伴っていた。そこには神と対等であるとの思いが、隠れて芽を出すからである。家父長制度のもとでも、婚姻の日は、花嫁は花婿と共に祝われ、等しい関係にあると感じることができる。そのように、男女の婚姻にたとえた神との関係理解は、神を礼拝しつつ、礼拝を司る者たちが、神へ向けるべき民の眼差しを、自分たちに向けさせようとする動機となる(マタ23:1~39参照)。自分が神と等しい者であるかのような錯覚に捉えられていくのである。 

このようにして、福音書に書かれた、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」というユダヤ人たちの気持ちには、二重の怒りが込められていたことがわかる。神と父と子の関係を結べず、神の子とされることのなかった彼らの現実を見せられた怒りと、神の民への愛を、花婿の花嫁への愛、夫の妻への愛にたとえる婚姻の神秘の中で、神と等しい者として神に愛されるというフィクションの世界を破られたという怒りである。それらは、イエスを殺そうと思うほど強い感情であった。彼らは、慣れ親しんだ詩編や、旧約聖書の文言から、婚姻神秘主義的な神学を産みだしていた。その結果、モーセから続く旧約の祭司職は、ダビデやソロモンの時代を経て、そのあり方を変えていき、イエスが公生活を始めた頃には、新約の司祭職を接続することができないものと化していたのである。 

同胞と同じように、詩編を唱え、旧約聖書を身に付けていたにもかかわらず、新約の司祭職を悟っていたヨハネ福音記者は、彼らに対する無念さを「ユダヤ人」という言葉に込めたのだと私は思っている。その思いは、アダムに示唆した祭司職の完成と(創3:19参照)、ダビデに与えた希望を実現すべく(サム下7:14参照)、新約の司祭職をもたらしたイエスのものでもあったのではないだろうか。それは確かに、ダビデの末裔として来られ、イスラエル人として同じ教育を受けたイエスの無念さでもあったに違いない。ヨハネは、ユダヤ人として自分が生まれ育った民がはまり込んでしまったこれらの問題が、イエスがもたらした新約の司祭職とはけして相容れないものであることを、初めに悟ったのである。それはまさに旧約脳と新約脳と言えるほどに、まったく異なるものとなっていたのであった。 

Maria K. M.


 2026/07/20


257. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の現実

人は、地を従え、あらゆる生き物を治め、霊と真理をもって神を礼拝するために創造された。神が聖別された日を神と共に永遠に祝い、その食卓を囲むのである。そのために、神は、人が「我々のかたち」を現すように、人に権力や富、権威が付与された肉体の自発性を授け(本ブログ№252参照)、この自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として、人を創造された。この常態において人は聖霊と協働することができ、それによって、神の似姿を現わすことができるのである。唯一の神のかたちを現すために独りで生まれ、独りで死んでいく肉体を持つ人にとって、人が三位一体の神の姿を現すために協働される聖霊は、人の存在の初めから、無二の隣人であり、人は、養成されれば、生涯、聖霊と協働して生きることができるのである。 

創世記で、「人」が独りであったとき、聖霊と協働して体験したことは、現代の私たち信者にも受け継がれている。「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とある描写は、私たちが、聖霊と協働することで、自分の記憶を耕し守ることになることを想起させる。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2:16~17)とは、「人間の情報」を区別せず取り込んで自分の「人間の知識」にしたら必ず死ぬことになるということである。「必ず死ぬ」とは、人本来の常態を失い、聖霊と協働するという最高の幸せに与ることができなくなることを意味している。 

「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)という記述は、まさに聖霊と協働する人の体験である。続けて、名を付けた生き物の中には、「自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」(2:20)という事実は、人に相応しい助け手として、同じように聖霊と協働するように養成された人との出会いがあることを物語っている。これらの理解が私たちになければ、「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか」(3:11)と、神から言われたアダムのように、私たちにも神への敵意が起こる可能性がある。なぜなら、「取って食べると必ず死ぬことになる」という言葉が、自分に実現しなかったということの真の意味を、悟ることができない者となっているからである。 

神である主は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われ、「神への敵意」が起こる前に、「神が置かれた敵意」が働くようにされた。それは、それによって「神への敵意」を阻止することが、罪を食い止める強力な手段となるからである。「神への敵意」が「神が置かれた敵意」を乗り越えて隣人に向かっても、「神が置かれた敵意」の効果が、人を神に連れ戻すこともある。さらに、この御言葉は、御子が人となって地上に遣わされることを決定づけた。「頭を砕き」とは、悪魔やサタンと呼ばれるものが「人間の情報」であることを、イエスが、人が分かるように暴かれたことである。「かかとを砕く」とは、「人間の情報」によって、次のようにイエスの宣教の歩みが止められ、十字架上で救いを成就する方向に向けられたことである。 

「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』」(ヨハ6:70「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(13:2「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた」(13:27)。 

結果的にアダムの神への敵意は、隣人である妻に向けられた。彼は、彼女に自分で「エバ」と名を付けた。その名で呼ぶことによって、妻を自分の支配下に置くことになる。人は、隣人を支配することはできない。すべての被造物は、神に由来する自発性を持っている。それゆえその振る舞いには、神に従う自由がある。人は誰でも、権力や富、権威ある人としての肉体をもって、聖霊と協働することができる者として創られた。アダムは、そのような隣人の、神に従うための自発性を貶め、支配下に置いて、隣人と協働する真の隣人である聖霊を冒瀆したのである。 

「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)。イエスは、聖霊を冒瀆した人々を救い、命の木を現わすためにも、地上に遣わされたのである。 

Maria K. M.


 2026/07/13

256. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神が置かれた敵意

人は、複数になると、その間に偶発的に情報(「人間の情報」)が行きかう。それを自分と区別せず自分の知識(「人間の知識」)として取り込んでしまうと、そこから善か悪のイメージを受け取り、錯覚が起こる。善のイメージが受け取られた場合、人の肉体は他の動物と同じように単体であるにもかかわらず、誰かと一体になったという錯覚を持ち、大きな快感が生じる。神が「人」から男と女を創造された時、神が連れて来た「女」を見て「男」が言った言葉、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」(創2:23)にそれを見ることができる。創世記の初めの「人」が、聖霊と共に土を耕したり、動物に名を付けたりしたように、神である主は、人が聖霊と協働して神の似姿を現わすために、人に、無意識の内に聖霊と協働する体験を授けられるからである。 

人の生殖機能に置かれた自発性は、他の動物と同じように種を存続させ、全能の神の永遠性と真理である神の自由とを具現している。動物たちにとって生殖機能に置かれた自発性は、彼らの他者との関りやつながりを、種を存続させるという一点に集中させる。しかし、神のかたちに創造され、聖霊と協働するに相応しく行動するために、権力や富、権威が付与された人の生殖機能に置かれた自発性には、種の存続のみならず、権力や富、権威に向かう強い嗜好がある(本ブログ№252参照)。このような嗜好を帯びた自発性は、その人の「人間の知識」とつながっている。「人間の知識」が、「人間の情報」を取り込んでいる状態でこれらの嗜好が「人間の知識」に伝達されれば、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、同時に錯覚からフィクションへの移行を伴い、行為に至る。創世記の初めの「女」に起こった欲求は、「神のように善悪を知る者となること」(創3:5)であった。 

創世記1章では、創造主を「神」と呼び、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを示した(創1:1~2:3参照)。2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼び、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を示していた(2:4~2:22参照)。一方、創世記3章では、人が聖霊と協働できる状態の時、「神である主」と記載し、人ができない時、「神」と書くことによって、その時の人の状態や状況を明らかにしているように見える。そこで、「人」に対して、初め「神である主」が当てられ(3:9~10参照)、次には「神」が当てられていること(3:11~12参照)、「女」には、「神である主」が当てられていることに注目すると(3:13~15参照)、それを確認することができる。 

「人」は、おそらく、「女」と情報を共有するうちに、それを区別せず、自分の知識として取り込んでしまい、「私は裸なので、怖くなり、身を隠した」(創3:10)という体験の渦中にいた。やがて彼の、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(3:12)という言葉は、神への怖れが、敵意に変わったことを示している。「女」にも起こったように、彼の「人間の知識」に、人の生殖機能に置かれた自発性に付与された、権力や富、権威に向かう強い嗜好が伝達されたのである。この時、「人間の情報」を取り込んでいる状態の彼の「人間の知識」は、神の前にいるに相応しく、その人格を保つことができなかった。 

そこで、「神である主」は「人間の情報(「蛇」)」に言われた。「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)。ここで、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」にあって、「人間の情報」が侵入するのを阻む砦のようである。それは、人の霊の領域を「人間の情報」から守る。しかし人が、その砦を超えて「人間の情報」を取り込み、自分の「人間の知識」としてしまえば、苦しむことになる。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」と「神が置かれた敵意」との間に、矛盾が起こるからである。この戦いが激しくなり、その矛盾によって、自分の錯覚から生み出されたフィクションの世界が打ち破られようとするとき、人は、その造り主に敵意を向けることで、それを阻止しようとする。 

この造り主への敵意はやがて、現実的に解決を見るために、隣人への敵意に変質していく。隣人への敵意は、いわば聖霊に敵意を向けたも同然である。聖霊こそが、第一の隣人だからである。人は、「我々のかたち」を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。聖霊は人にとって、まさに無二の隣人である。時が満ちると、「神が置かれた敵意」は、イエス・キリストとして誕生した(ルカ2:34~35参照)。律法の専門家が、イエスにどの掟が最も重要かと問うた時、イエスは、次のようにお答えになった。 

「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタ22:37~40)。「あなたの神である主」とは御父と御子である。自分のように愛すことのできる隣人とは、聖霊である。人が、聖霊を無二の隣人として自分のように愛そうとするとき、神の愛がすべての隣人に向かうのである。 

Maria K. M.


 2026/07/06

255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。 

私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。 

人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。 

ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。 

ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。 

複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。 

Maria K. M. 

(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。  「パトモスの風⑬


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