2026/05/04
246. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸いⅣ
主の祈りの第4の祈願、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りは、前回考察したように、「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が実現することを、信者が願う祈りでもある。これらの祈りが叶うのを見るのは、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いに与っている時である。この黙示録の第4の幸いの直前には、「私たちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て花嫁は支度を整え輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである」(19:7~8)という句が置かれている。
この句の、支度を整えた「花嫁」とは、司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている新約の司祭職である。新約の司祭職が身にまとった「聖なる者たちの正しい行い」とは、花婿であるイエスの名によって遣わされた聖霊の「介添え人」として、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。ここにご聖体が誕生する。居合わせた司祭と会衆は、すべてを目撃する。彼らは、新約の司祭職を受け取った民だからである。そこで、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いを悟った筆者は、感動のあまり、天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。しかし天使は、次のように言った。「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)。
天使が言う「あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたち」とは、イエスの聖体制定の言葉と、それとともに授けた新約の司祭職を記憶に保持し、イエスが委ねた王職によってそれらの権威を継承した使徒とその後継者たちである。イエスが新約の司祭職と共に使徒たちに授けたこれらの言葉は、聖霊が預言の霊となって彼らの記憶から引き出し、彼らと共に働き現実にする。その時、彼らは、天使と同じく、神である聖霊に仕える者となっているのである。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現に、重厚で根源的な構造が織り込まれていることを示している。続く第4の幸いの、「これらは、神の真実の言葉である」という句に、それが暗示されている。天使の言葉が終わると筆者は、次の描写を続けた。
「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。
この描写は、聖霊と、ご聖体に関するものである。白い馬が現れ、それに乗っている方が「忠実」および「真実」と呼ばれるのは、イエスが聖霊について、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハ16:13)と言われたからである。正義をもって裁き、また戦われるのは、「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:8)ためであり、「この世の支配者が断罪される」(16:11)ためである。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた、とあるのは、この世の人に聖霊の姿が見えないからである。
とはいえ、この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるので、信者は、受難の場面で、イエスが深紅の外套を着せられたことを想起し(マタ27:28~29参照)、イエスが、「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハ16:14)と言われたことを思い出す。その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるのは、聖霊がイエスの名によって遣わされ、御言葉を生きるものし、イエスの証ししたことを実現するためである。そこで、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、聖霊に従っていた。聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭たちである。聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣である。それで打ち倒す「諸国の民」とは、人々の内奥に入り込んだ「人間の情報」である。
次に、自ら鉄の杖で彼らを治めるとあるのは、キリストの御体を示唆している。この言葉が、黙示録12章の「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」(黙12:5)から取られているからである。この描写は、「天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(12:1)という場面の後に書かれており、本ブログでこれまで考察したように、この「一人の女」は、イエスの母のイメージをもって描写された新約の司祭職である。ここから、「男の子を産んだ」女は、それを記憶に保持する使徒(司祭)であり、「神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」とある男の子は、キリストの御体である。
「そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」とあるのは、イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)と言われたからである。「そのぶどう酒」とは、イエスの御血である。続く、「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」とは、ご聖体の名である。「王の王」は油注がれた者、メシアを、「主の主」は、神の子イエスの名を示唆している。ご聖体には名があり、それは、「メシア、神の子イエス」である。
これらの事は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いの中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子イエス」と呼ぶことができるということを示唆している。実際に「私たちと共におられる」(マタ1:23)神に向かってその名を呼ぶことは、キリスト者の悲願である。そして、信者がご聖体を前にして、「メシア、神の子イエス」と呼び、その声を聞くことは、その名を自身の記憶に書き記すということになる。そこで天使は筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言ったのである。
Maria K. M.
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