2026/07/06
255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木
「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。
私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。
人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。
ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。
ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18)と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。
複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。
「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。
Maria K. M.
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