イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/10/26


271. ヨハネ福音書と新約の司祭職 私の血による新しい契約

新しい契約は、神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したことの実現を、その先に見ている。そこに行き着くには、イエスが、「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:39~40)と重ねて強調しているように、永遠の命を得て復活するという必要不可欠の道を通る。そのためには、イエスが、「私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく」と加えられた言葉に込められたように、生きている間に人を救う罪の赦しがあることが大前提となる。その罪の赦しを実現する保障が「私の血による新しい契約」である。 

その御言葉は、新約聖書の内にある。聖体制定の言葉の内に抱かれている。マタイは、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)、マルコは、「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マコ14:24)、ルカは、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)と書き取った。これらの文言は、イエスが十字架上で亡くなられた直後に、「兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハ19:34)とある場面から効力を発揮した。そのイエスに向かって立っていたローマの百人隊長でさえ、イエスが息を引き取られた様子を見て、「まことに、この人は神の子だった」(マコ15:39)と言った。私たち信者は、ご聖体に向かって立ち、宣言する言葉の重要性に未だ気付いていない。 

ご聖体が神の子キリストであると宣言することの重要性に気付けば、ヨハネ福音記者がイエスの脇腹から、「すぐ血と水とが流れ出た」ことについて、「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」(ヨハ19:35)と書いた思いを、私たち信者も共有することができる。ヨハネ福音書1章に、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである」(1:12~13)と書かれた箇所は、イエスを受け入れ、その名を信じて入信の秘跡を受け取った私たちが、「神の子となる権能」を授かったということを伝えている。 

そして、「神によって生まれた」とは、イエスの「私の血による新しい契約」によって生まれたということである。私たち信者自身がそれを証ししている。「神の子となる権能」は、信者が自発的に神を「天の父」と呼ぶときその効力を発揮し、イエスの「私の血による新しい契約」を現実のものにする。イエスが宣教の初めから、弟子と人々に向かって、「天におられるあなたがたの父」(マタ5:45他)という言葉を使われ、人々が神に向かって、「天におられる私たちの父よ」と呼ぶように、主の祈りを教えられたのは(6:5~13参照)、「神の子となる権能」が、神を「天の父」と呼ぶことで行使できる権能だからである。その権能には、イエスが最期の食卓で、「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」(ヨハ17:11~12)と祈られた、その祈りの力が込められている。 

イエスのその祈りは、私たちに、信者が自発的に神を「天の父」と呼ぶことで、その名が信者を守ることを伝えている。それは主の祈りの最後にあるように、誘惑や悪から、ゆえに罪からも守られることである。たとえば、創世記で、善悪の知識の木から取って食べることを人に禁じられた神を、私たちの天の父だと捉え直してみる。その気持ちのまま、3章で神に背いた初めの二人の物語を読むと、そこに、ご自分の子たちが仕出かした事の後始末に追われる父の姿を見出すことができる。また、4章のカインの殺人事件に対応する神には、罪を犯してしまった子にきちんと向き合い、何とかして救おうとする天の父の姿が見えてくる。神を「天の父」と呼ぶことには、神の命じたことに背いた過ちや罪を乗り越えていくための力がある。絶望を断って前へ進み、何かを失っても変化を起こし、聖霊と協働して新しい時間を作り出そうとする人がそこに現れる。 

神を「天の父」として理解する力は、やがて自分自身と隣人をより深く理解しようとする方向に向かう。それが「神の子となる権能」の力であり、私たち信者にとって、神を「天の父」と呼ぶことそれ自体に、計り知れない可能性が秘められている。私たちが神に「天の父」と呼びかけることは、「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたイエスに呼びかけることでもある。そこに私たちは「父と子」としての神の在り方を見る。創世記2~3章に現れた「神である主」がおられるのである(本ブログ№264参照)。「神である主」は、聖霊が信者と協働することを可能にするために、三位一体の神でありながら、「父と子」の在り方を取ってご聖体の内に現存される。それは、聖霊が御父と御子から発出されるゆえに可能なのである。信者を神の内に具体的に招き入れる神の仕方である。ゆえに私たち信者は、次のイエスの言葉を完全に受け取り、ミサ典礼を完成し、主の再臨に向かって前進するのである。 

「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」(ヨハ6:53~56)。 

Maria K. M.

 


 2026/10/19


270. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅲ

前回考察したように、パウロは、至福直観が福音を観ることであると悟っていた。その悟りの先には、ローマに教会を建てるというイエスから受けた使命があった。彼は「外套」の隠語をテモテに送った。その意図を理解したテモテは、ペトロとマルコを伴ってローマに向かった(本ブログ№238参照)。こうしてローマに集まった使徒たちの未来には、完成した新約聖書を手にする信者たちがいた。そこにミサ典礼を完成する道が備えられている。ことばの典礼のはじめに、真理を語る福音書が読まれ、それを使徒書や書簡によって反芻し、司祭の説教によって信者たちの記憶に真理が固められるなら、そこで信者たちは、新しい革袋に入った新しいぶどう酒が発酵するように成長することができる。これらの事の上に、信者たちに命を与えるご聖体を拝領するという現実が一つになって、彼らは、キリストとの完全な合一体験に与るのである。そこには、聖霊の特別な「識別」に導かれる信者たちの姿が現れる。 

その特別な「識別」は、聖霊によってイエスの言葉がすべての時を自由に現在化させることを、信者たちに悟らせる。ヨハネ福音書と黙示録は、それを「泉」で表現した。ヨハネ福音書が、「泉」について言及するのは、4章のサマリアの女との対話の場面である。イエスは女に、「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハ4:13~14)と言われた。サマリアの女は即座に、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)と願った。しかしイエスはそれには答えず、彼女の素性を見抜いていることを伝え(4:16~18参照)、彼女が善悪の判断を飛び超えて、自身から真の願いを引き出すことができるよう助けられた(4:19~22参照)。 

続く場面で、イエスはサマリアの女に次のように言われた。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハ4:23)。私たち信者が、この言葉が示す、霊と真実をもって父を礼拝するまことの礼拝者になるためには、まず、「霊と真実をもって」という言葉に注目する。それは、聖霊と協働することが前提であることを示しているのだ。そのために私たちは、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することを身に付けなければならない。そして、「今がその時である」と言われたイエスの言葉は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る」という未来が、イエスがサマリアの女と対話しているその時に、現在化されたことを明らかにしている。 

それは、聖体制定の時の、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)というイエスの言葉を、現在の司祭が唱える時、イエスがパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えたその時が現在化するのと、時間の向きは逆であるが、同じ現象である。イエスを前にしたサマリアの女と、ご聖体を前にした現在の私たちは、同じ体験を共有しているのである。聖霊の導く特別な「識別」は、イエスの言葉が、聖霊によってすべての時を自由に現在化させることを、私たちに教え、悟らせる。さらにこの特別な「識別」は、信者をミサ典礼が神の国であるという現実に覚醒させる。これらが可能となるために、イエスは、神へ近づく人が、善悪を判断することに関わらないことを求められる。善悪を判断することこそが、人が「人間の情報」を取り込んで自分の知識としたことの現れだからである。 

イエスの言葉には、聖霊によってすべての時を自由に現在化する力がある。ゆえに聖霊は信者を、聖霊との協働に招くことができる。黙示録はそれを次のように「泉」で表現した。そこには、聖霊が信者を特別な「識別」に導く源が描かれている。この源が、ミサ典礼を出て、再び次のミサ典礼を目指す信者の日常のルーティンを支える。「すると、玉座におられる方が言われた。『見よ、私は万物を新しくする。』また言われた。『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である。』また、私に言われた。『事は成った。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。私は彼の神となり、彼は私の子となる』」(黙21:5~7)。 

「これらのものを受け継ぐ」とは、「アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」方の在り方を受け継ぐ、黙示録の訓練のループする力を、信者が獲得することである。黙示録を朗読し、聞く訓練は、信者の記憶に「イエス・キリストの黙示」(黙1:1)の暗黙知を創り、信者を「中に記されたことを守る者」(1:3)にする。そして、聖霊と協働したいと願う彼らの記憶を根底から支える。そこで授かった至福直観は現実的で、天の父との信頼関係を築き、その知覚は、自分がキリストとの完全な合一に「渇いている者」であることに気付かせる。その気付きは、信者を、命の水の泉から価なしに飲むことのできるミサ典礼に向かう日常のルーティンに強く引き入れる。そこで、「私は彼の神となり、彼は私の子となる」という言葉が実現する。 

Maria K. M.


 2026/10/12

269. ヨハネ福音書と新約の司祭職 使徒パウロの至福直観

前回の「区別と識別Ⅱ」では、ヨハネ福音書と黙示録が、「川」というたとえを使って、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することによって、聖霊と協働する機会に恵まれ、至福直観と、多くの実りと癒しを得る幸いに与ることができることを考察した。そこでは人は、自己超越欲求が引き出され、その高揚感によって神のようになった感覚、あるいはキリストとの合一を体験した感覚に陥ることはない。ましてやそこにエクスタシーを見出すことはない。至福直観の至福とは、福音を観ることである。それは、聖霊が私たちの記憶から福音を引き出し、私たちの声がそれを語るとき直観される。私たちの語る声は、自分の感覚が捉えたものを証しするからである。 

イエスが、「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハ14:20)と言われた言葉を自分のものにするのは、聖霊と協働する機会を捉えた時である。それを容易にするのは、聖霊と協働したいと願う自分と、「人間の情報」を「区別」することを助けるヨハネの黙示録の訓練を、日常的に実践することである。聖霊と協働するということは、イエスご自身が、「私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(14:10)と言われたことを、信者が体験するのであるから、訓練はどうしても必要である。それによって、聖霊と協働する自分を捉えて、「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいる」と言われたイエスの言葉を共有することができる。 

パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように主の幻と啓示について綴っている。「私は、キリストにある一人の人を知っています。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体の外に出てかは知りません。神がご存じです」(二コリ12:2)。十四年前というのは、彼が回心した頃かもしれない。続けて同じ内容を繰り返していることから(12:3参照)、パウロはイエスの名によって遣わされた聖霊と協働する機会を捉えた時、その強烈な印象を受け取ったのである。そして、「その人は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです」(12:4)とある。「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」とは、新約聖書に記されることになる福音であった。それが未来を先取りした内容であったために、彼には分かっても言葉にできなかったのである。 

パウロは、聖霊と協働する機会を捉え、至福直観に与った。しかしここで問題なのは、「第三の天にまで引き上げられた」と、「その人は楽園にまで引き上げられ」と書いていることだ。彼はその時、あるいは、後で、その体験に何らかのエクスタシーが伴っていたことを見出したのである。彼はそれを隠さず告白している。当時のコリントの共同体が抱えていた厳しい状況に対する戦略があったからだ。パウロは自分のすべてをかけてその状況を乗り越えようとしていた。彼は、「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、私自身については、弱さ以外は誇るつもりはありません。もっとも、私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。しかし、誇るのはやめましょう。私について見たり、聞いたりする以上に、私を買いかぶる人がいるかもしれないからです」(二コリ12:5~6)と続けた。 

そして、「また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(二コリ12:7~8)と書いた。彼は、啓示を受けるたびにまとわりつくエクスタシーの感覚を、「棘」にたとえて冷静に受け止めている。そして主が、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(12:9)と言われたことを私たちに伝え、「だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです」(12:9~10)と励ましている。 

パウロには、至福直観の先に見えていたものがあった。それは、未来の信者たちが、完成されたミサ典礼の中で、キリストとの完全な合一の体験に与り、聖霊の特別な「識別」に導かれる姿である。パウロが次のように証ししたことから、新約聖書の成立によって、福音書にイエスの言葉が現れると、その言葉がすべての時を自由に現在化することを、彼が知っていたことが分かる。 

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(一コリ11:23~26)。 

Maria K. M.


 2026/10/05

268. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅱ

創世記で神が人を創造された時、人は、「我々のかたち」(創1:26)を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が(本ブログ№252参照)、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」(同)を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。人は、「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型がセットアップされて初めて聖霊と協働することができる。創世記に、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(2:19)と書かれているのは、人が初めて聖霊と協働した様子を描いたものである。 

その後、人が二人になったことによって、「人間の情報」が発現した。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」に、人は強く引き寄せられてしまう。善か悪かを判断することが、人の自己超越欲求を引き出し、その高揚感によって神になったような錯覚に陥るのだ。創世記で神が、「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」(創3:22)と言われて人を追放し、「命の木」に至る道を守られた理由がここにあった。自分の記憶に入って来た「人間の情報」を「区別」することなく取り込んで、自分の「人間の知識」にしてしまえば、「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」が、「命の木」を飛び越えて「命の息」とつながり、霊の領域が維持できなくなる。人は聖霊と協働する機会を失ったのだ。 

今の私たち信者は、イエス・キリストによって「命の木」に至る道を見出し、再び聖霊と協働する機会を授かった。私たちは、イエスが教えてくださった天の父の名を呼んで、聖霊と協働する望みを表明することができれば、その時、自分が「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型にセットアップされている。しかし、「人間の情報」を取り込み、それに満たされ乗っ取られてしまう危険は、常に待ち構えている。それを防ぐには、「人間の情報」を聖霊と協働したいと願う自分と「区別」しなければならない。そしてそのためには、それに特化した訓練が必要である。自分が持っていた聖霊と協働する望みを失ってはならないのである。信者は、聖霊と協働することによって、イエスの言葉を体感し、至福直観へと導かれ、イエス・キリストの似姿を現わすのである。 

ヨハネ福音書と黙示録は、「川」でそのことを表現して教えている。ヨハネ福音書については次の場面である。「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである」(ヨハ7:37~39)。イエスのこの言葉どおり、聖霊降臨後、聖霊は、信者一人一人とつながり、協働し(使2:3~4参照)、イエスの言葉を信者の記憶から引き出し、実現しようと、常に待ち構えておられる。私たちの自発性が、ご自分に向く時を待っておられるのである。 

一方黙示録は「川」について、「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒やす」(黙22:1~2)と表現した。これは、黙示録の最終章の言葉である。ここまで黙示録を日々朗読しその声を聞く訓練をしてきた者は、神がその僕たちに示すためキリストに与えた黙示録が、「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように光り輝く命の水の川」であることを悟っている。朗読する者の声によって流れ出たその預言の言葉が、それを聞く自身の記憶に入り、暗黙知となって、中に記されたことを守る者とする。こうして、聖霊がその預言の言葉を引き出す時に備えているのである。その人は、それが実際に起こる時、至福直観を体験し、多くの実りと癒しを得る。黙示録の訓練は、それを保証している(黙1:3、22:7参照)。 

このように聖霊は、イエスを信じた人々が聖霊を受け、聖霊と協働する幸いを得ることができるように、ヨハネの黙示録を新約聖書に加えられた。それは、私たち信者が、聖霊と協働したいと願う自分と「人間の情報」を「区別」することに特化した訓練のための預言の書である。ヨハネの黙示録の冒頭の次の言葉がそれを明らかに示している。 

「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:1~3)。 

Maria K. M.

(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。 ➡ 「パトモスの風⑯」


 2026/09/28


267. ヨハネ福音書と新約の司祭職  契約

イスカリオテのユダは、「盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていた」(ヨハ12:6)。マタイ福音書はユダの最期について、「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んでそこを離れ、出て行って、首をくくった」(マタ27:3~5)と書いている。元徴税人であって、金銭の力を、身をもって知っていたマタイは、ユダの陥った状況をよく理解できたのである。しかしユダがなぜ最後に祭司長や長老たちを頼ったかについては、言及していない。 

そこは、私たち信者が、なぜミサ典礼の中の交わりの儀で、奇妙な言動をするのかという前回考察した理由に近い。ご聖体を前に、百人隊長の謙遜の言葉を唱えるのは、謙遜の徳を身につけ、キリストに相応しい者になるという、教会の高次の欲求の表れである。その理由は、キリストを花婿にたとえ、教会を、その花婿に相応しく成長する花嫁のイメージで捉えているからだ。この捉え方は、旧約の民が、神と民の契約関係を、人間にとって最も身近で強固な夫婦の契約にたとえたもので、私たち教会は、その表現を世襲し、発展させてきた。しかし全ての福音書が、イエスが人々に、「天におられるあなたがたの父」と言って語りかけている場面を記載している。さらにそのイエスが「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われているのだから、キリストと教会の契約関係は、父と子の契約関係なのである。 

旧約の民が、神と民の契約関係を、夫婦の契約にたとえ、それが、イエスの時代に、民にとって旧約聖書に根付いた、よく知られた宗教的イメージだったとすれば、そこに父と子の契約関係をもたらそうとするイエスに対して、ユダヤ人たちが反感を抱いたのも当然である。金銭に捕らわれてイエスのもとに留まっていたユダさえも、最後には他のユダヤ人と同じような不信感を持って、祭司長や長老たちを頼り、その側に就いてイエスを裏切ることになったということが理解される。 

創世記6章のノアの契約についてみると、当時ギリシア文化が広い地域に伝播し、現地文化と融合し始めていた。人間的な家族関係を持っているギリシア神話の神々が伝わって来たのだ(創6:1~8参照)。大洪水の伝承は世界各地に残っていると言われる。ここでは、神が唯一の方であることを知らせ、その信仰を守ることが、箱舟のイメージで語られていると考えられる。ノアは、「私はあなたと契約を立てる」(6:18)と言われた神に守られ、唯一の神の信仰へと招かれた。彼は、「主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥の中から選んで、焼き尽くすいけにえとして祭壇の上で献げた」(8:20)。そこで神は、人と初めての契約を結んだ(9:1~17参照)。そこには、契約内容としるしが明示されている。旧い契約はこのようにその初めから、その内容が明らかに示され、しるしをもって証しされている。 

しかし、イエスが契約という言葉を使われたのは、彼の最期の食卓の席において、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:27~28)と言われた時だけであった。そこには、「私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである」(ヨハ10:17~18)と証しされたイエスの言葉をもってしても、私たちには理解することが難しい父と子の契約があった。 

イエスによって自分たちが授かった新しい契約の全貌が、明確につかめないままに、私たち教会は、神と民の契約関係を、夫婦の契約にたとえた旧約の民の表現を世襲しただけでなく、信者たちを養成するために、ミサのことばの典礼の初めに、まず旧約聖書を朗読し、詩編を唱和する。教会の祈りにも詩編を用いてきた。また、徳の道を説き、「ソロモンの雅歌」(雅1:1)も大いに参考にした。初め神の御心に適ったソロモンは、多くの女性たちを愛し、やがてその虜になったために、神に背き、従わなくなったことが、彼と民を滅びの悲劇へといざなっていった(王上11:1~13参照)。 

旧約聖書の中の雅歌の教えは、これを読む者がソロモンの轍を踏んで滅びの子とならないために、性愛を実際に体験せずとも、そのいざないが人の感覚にどのような刺激をもたらすか、さまざまな角度から伝えている。その最後は、金銭の力を身に受けて、ユダのように人間に頼り、神を裏切ることになるのである(雅8:11~14参照)。 

Maria K. M.


 2026/09/21


266. ヨハネ福音書と新約の司祭職 区別と識別 Ⅰ

私たち信者の多くは、自分たちがミサ典礼の中の交わりの儀でする奇妙な言動に気付いていないので、今も世界中でそれを続けている。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ったにもかかわらず、司祭が上げるご聖体を前にして、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と宣言し、そうしておきながら、次にはご聖体を拝領しに出ていくのだ。信者たちがこの自分の言動の奇妙さに気付かない原因は、イエスが、「私が行って癒やしてあげよう」(マタ8:7)とご自身から言われたその言葉を断ってまでも見せた、百人隊長の人間的な謙遜を見習えば、イエスが褒めた信仰につながるという誤解と錯覚にある。しかし、イエスが褒めた百人隊長の信仰は、自分の兵士としての素朴な体験から、イエスの権威を信じたことにあった(8:9参照)。 

この誤解に満ちた錯覚は、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」(ルカ22:15)と言われたイエスの言葉が、ご聖体制定に向かっていたという現実を曖昧にする。そこには徳を身につければ、キリストに相応しい者になれるという高次の欲望が隠れている。その欲望を裏から支えているのは、世の罪を取り除く神の小羊の食卓で、花婿と肩を並べて立つ花嫁のイメージである。しかしイエスは、「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」(マタ10:25)と言われた。イエスが弟子を導く道は、徳ではなく真理を身に付けることにある。真理が彼らをご聖体に向かわせる。 

弟子の多くが離れていった中でユダがイエスのもとにとどまった理由は、彼が金入れを預かっていたからだ(ヨハ12:6参照)。彼はやがてイエスの前で人に意見をするまでになる(12:5参照)。イエスと肩を並べて立つようになったと錯覚したのだ。錯覚は、人を聖霊が働くことのできない状態(悪魔の状態)に陥らせる。ヨハネ6章のパンを増やす場面で、イエスはご自分の方へ来る大勢の群衆を見て、フィリポに、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」(6:5)と言われた。それはフィリポを試みるためであったと書かれているが、むしろユダのためだったと思う。その問いかけに、金入れを預かっていたユダは誰よりも敏感に反応したに違いないからだ。しかしユダはそれを表に出さなかった。そこで6章の最後にイエスは、「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」(6:70)と言わざるを得なかったのだ。 

パンを増やす場面に戻ると、イエスの問いかけにフィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」(ヨハ6:7)と答えた。その向こうでアンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」(6:9)と言った。アンデレの眼差しは、イエスの「パンを買って来て」という言葉を超えて、その先にあるイエスの現実に向けられ、彼の言葉は、イエスのしるしに結び付いていった。 

アンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、この師がイエスに従うように促した二人の内の一人であった。師に機会を与えられたこの二人が従って来るのを見たイエスは、「何を求めているのか」(ヨハ1:38)と言われた。彼らは、その時夕方であったので、「どこに泊まっておられるのですか」(1:38)と尋ねた。イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」(1:39)と言われた。彼らは、その日はイエスのもとに泊まった。心を合わせてイエスに従っていこうとする彼らが、瞬時に「識別」してイエスに答え、この流れをつかんだのは、聖霊が働かれたからだ。 

その翌日イエスは、フィリポに出会って、「私に従いなさい」(ヨハ1:43)と言われた。その後、フィリポはナタナエルに出会うと、「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(1:45)と言った。しかし、ナタナエルは、「ナザレから何の良いものが出ようか」(1:46)と言い返した。この言葉に、フィリポは、「来て、見なさい」(同)と返した。彼は無心に、ナタナエルが言った情報を、イエスと出会った自分の知識と「区別」していた。そして彼の口から出て来た言葉は、洗礼者ヨハネの弟子であった二人に、イエスが返した言葉と同じであった。フィリポはこのとき聖霊と協働したのである。 

本ブログ№264で考察したように、創世記は、天地、森羅万象を創造された方を「神」と呼び(創1:1~2:3参照)、聖霊が人と協働できるように人に霊の領域を形づくり、霊を授けた方を「神である主」と呼んだ(2:4~25参照)。創世記2章に、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(2:19)と書かれている。神である父と一つであるイエスは、人であっても聖霊が降ったことによって、三位一体の神の働きを現される。イエスはまだ栄光を受けておられなかったが(ヨハ7:39参照)、「神である主」となって、弟子たちに聖霊と協働して事を成す体験をさせることができたのである。 

このような体験を私たち信者が授かるために不可欠な準備は、私たちがイエスの仕方(道)に従って、「人間の情報」を、聖霊と協働したいと願う自分と「区別」する習慣を身に付けることと、その習慣を身に付けようとする者たちが、行為の前に、イエスの名によって二人三人が心を合わせ「識別」する習慣を持つことである(マタ18:19~20参照)。これらの習慣が先に立って道を進み、私たちは、真理を身に付け、命に至るのである。 

Maria K. M.


 2026/09/14


265. ヨハネ福音書と新約の司祭職 悪魔からサタンへ

前回の考察を続ける。ヨハネ6章で、イエスの言葉を聞いていた弟子たちの多くが離れ去った後、イエスは残った12人の弟子たちに、「あなたがたも去ろうとするのか」(ヨハ6:67)と問うた。シモン・ペトロは、「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」(6:68~69)と答えた。この言葉に応じたイエスの言葉が衝撃的なのは、ペトロが言った「私たち」の中の一人が悪魔にたとえられたからだ。その原因は、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)という現実を見たイスカリオテのシモンの子ユダの状態にあった。 

この時のユダの状態は、創世記3章で「女」が神の命じたことを色々考えているうちに、「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」(創3:4~5)と結論付けたと同じところに止まっていた。この時、「人間の情報」を取り込み自分の知識にした「女」は、悪魔にたとえられる。そして、続く、「女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」(3:6)ということを機に、神が食べることを禁じておいた実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたのである。この行為に及んだときの「女」は、「サタンが彼女の中に入った」状態にたとえられる。悪魔がサタンになるのは、実際の行為に及ぶ時宜を得た時である。ユダは、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のを機に、イエスから離れるという行動に出ることもできたのである。 

しかし、彼はイエスのもとにとどまった。それは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからだと後で説明された(ヨハ12:6参照)。彼が悪魔の状態のままイエスのもとに留まったことは、彼に大きな葛藤を負わせることになった。創世記で神が「女」に、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われた言葉が、実現しようとしていたからだ。この神の言葉は、すでに「女」の子孫であるカインに、効力として現れていた。彼は、「神が置かれた敵意」のおかげで、殺人の罪を犯したにもかかわらず、自分のした行為に恐れをもって神に向き直り、救われた。今、ユダが前にしているのは、まさに「神が置かれた敵意」が人となって現れたイエスであった(ルカ2:34~35参照)。 

人は、聖霊と協働して神の似姿を現わすために、神の姿に似せて創造された霊の領域と、神のかたちに創造され、他の被造物にはない富と権力と権威を付与された肉体の領域との間で(本ブログ№252参照)、そのバランスを取ることができるような人相応の「人間の知識」を授かっている。神が受肉して人の前に立つ方、イエスとして現れた時も、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」に「人間の情報」が関わる時、そのままその人の内で、「人間の知識」に寄り添っていた。ゆえに、自分の記憶にある「人間の情報」を、聖霊と協働するはずの自分と区別せずに、自分の知識として取り込んだ時に起こる葛藤の大きさは、進化のゆえに、創世記の「女」やカインの比ではない。 

「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」(マタ26:24)と最期の食卓の席でイエスが言った言葉には、人となられた神の無念さが現れている。ヨハネの6章の終わりにある「あなたがたも去ろうとするのか」というイエスの問いかけは、特にユダに向けられていたとも言える。それは、「神が置かれた敵意」そのものとして世に来られたイエスが、洗礼者ヨハネが言った、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)だったからである。「私が命のパンである」(6:35)と言われたのは、イエスである。ミサ典礼の中でキリストの御体として現れるご聖体は、私たち信者自身の内に潜んでいるユダにも「あなたがたも去ろうとするのか」と問うておられる。 

現在、司祭がご聖体を取り上げ、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」と唱える言葉に、世界中の信者は、司祭も会衆も共に、「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」と応える。しかし、そう応えておいてその直後に、ご聖体を拝領するというコントラストがある。しかも交わりの儀の場面の初めには、信者全員で、主の祈りを唱え、その中で「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っているのである。実に私たちカトリック信者のこの奇妙な光景は、いったい何を意味するのであろうか。 

ユダがイエスのもとにとどまったのは、自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからだと後で説明されていることを思い出すと、私たちがこのような現実にとどまっている理由を、自分自身に問い直す必要に迫られている。

 Maria K. M.


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