イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/08/03


259. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の食卓へ

イエスは最期の食事の席で使徒たちに、「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、聖体制定と同時に新約の司祭職を授けられた。そして、「私の父が私に王権を委ねてくださったように、私もあなたがたにそれを委ねる。こうして、あなたがたは、私の国で食卓に着いて食事を共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる」(22:29~30)という御言葉によって、ご自身の王権を使徒たちに委ねられた。その王権は、天使がイエスの母に、「神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(1:32~33)と告げた王権である。この言葉は、それを委ねられた使徒たちによって、新約の司祭職が永遠に継承されることを保障している。 

聖霊は、このような新約の司祭職を信者たちが受け取ることができるように、彼らの感覚を、無意識の内に、イエスが準備されたミサ典礼へ向けるための暗黙知を必要としていた。そこでヨハネの黙示を用意されたのである。その訓練は、7つの預言(下記図参照)を繰り返し通過するループの中に日常的に入ることで、ミサ典礼に向かう上で最も大きな障害となる「人間の情報」を徹底的に区別するように組まれている。さらに、信者たちがミサ典礼を日常の軸に据え、そこに通う道を具体的な「イエスの道」として認識できるように、7つの幸いが導いていく。第1の幸い(黙1:3参照)が告げているように、黙示録の訓練は、感覚を通した刺激によって、無意識の内に、「イエスの道」を進む行動を促すための合図や命令を起こす、暗黙知となることができる。それは黙示録が、新約聖書の内容を示唆し、その正典としての完成と、ミサ典礼の完成を預言しているからである。 

旧約の民は、聖なる神との交わりの中に生き続けられるように、繰り返し犠牲を献げ、民のために執り成しをする祭司職を授かっていた。しかし、祭司職を委ねられた者たちの信頼性に不安を持った民は、神に王を求め、与えられた王にすべての期待をかけた。やがて王と民は、救い主を求める声を上げた。詩編は、王と民の声を無意識の内に一つにし、彼らが、未来の救い主へ希望を向け続けることで、神との交わりを保つための拠り所であった。ゆえに、すでに新約の司祭職を授かり、神の国に向けてミサ典礼を完成しようとしている現代の信者たちの訓練の書として用いる意味は全くない。旧約聖書は、信者の教養の一環として必要に応じて知らしめる必要はあるとしても、それを信者の記憶に刻みこむような養成をしてはならない(ルカ5:36~39参照)。 

「私の記念としてこのように行いなさい」という御言葉によって、イエスが使徒たちに聖体制定と同時に授けられた新約の司祭職は、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、イエスが臨席された最期の食事の場面を現在化させる。それは、ただ一度の死によって、人類のすべての罪を贖われたイエスが陰府に降り、罪の結果によって死んでも苦しむ人々の霊を救われたそのみ業を、継続させるためである(マタ27:51~53参照)。ペトロの手紙がそれを次のように伝えている。 

「キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです」(一ペトロ3:18~20)。 

「神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たち」として死んでいく人々は、今も大勢いる。「あなたがたを神のもとへ導くためです」とペトロが言っているように、私たち信者も決して例外ではない。ミサ典礼は、「私の国で食卓に着いて食事を共にし・・」とイエスが言われたように、本質的に食卓を囲んで集まる行為である。しかし、その日が来るまでは、私たち信者は、ご聖体を拝領することによって、キリストが捕らわれの霊たちのところへ行って宣教される機会を供することができるように、主の食卓を囲みながらも、主の十字架のもとに立ち続けるのである。 

本ブログでも考察したアッシジの聖フランシスコが出会ったサン・ダミアーノの十字架は、それらを語りつくしている。イエスの十字架の周りを囲む白いレースの縁取りのような模様は、イエスの足の下で途切れ、その先に続きがあることを伝えている。ミサ典礼が、教会に集う会衆だけのためではなく、世界中の人々が囲む食卓に向かって捧げられていることを暗示しているのである。そこには、私たちの福音を宣べ伝える熱意が足りないために、死んでも待っていなければならない人々もいるだろう。十字架上から遠くを見つめるイエスの眼差しには、次の御言葉が秘められている。 

「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」(ヨハ10:14~16)。 

Maria K. M.


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 2026/07/27


258. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音書5章

ヨハネ福音書は5章から、「神の置かれた敵意」として誕生されたイエスが(ルカ2:34~35参照)、「人間の情報」と本格的に対峙される様子を描いていく。ヨハネ福音書には、他の福音書に比べて圧倒的に「ユダヤ人」という言葉が多い。ヨハネ福音記者の同胞に対する熱い思いには、イエスを受け入れず、その名を信じようともしない彼らについて、無念の思いが強かったのではないだろうか。それは彼が、ヨハネ福音書に流れる新約の司祭職という伏流水が、創世記の物語にその源泉を持つ旧約の祭司職を完成し、神の計画を実現するものであったと悟っていたが故であった。ヨハネ福音書は、1章の冒頭から、創世記を想起させるかたちで、その思いを綴っている(ヨハ1:1~18参照)。 

創世記で神はエデンの園から人を追放し、命の木に至る道を閉ざした後、「人間の知識」を守るために「神の置かれた敵意」が人の内奥で働くに任せた。その一方で、ご自分の目にかなう人を見出し、使命を与え、人が神との関係をつなぎとめるように導いていかれた。こうして一つの民となっていった人々は、モーセの時代に与えられた神の名と祭司職と律法を守ってきた。ダビデとソロモンの時代の後、捕囚の苦難を経ても、彼らはそれらをどこまでも保持し続けてきたのである。第二神殿を建立し、イエス誕生後も続いていたその工事のように、そこには、神殿への民の一途な思いがあった。しかし、神である御父の御心を担った御子がイエスとして地上にその姿を現した時、彼らの思いは、すでに神の思いと一つではなかった。 

ヨハネ福音書5章には、初めにイエスが安息日にベトザタの池で病人を癒した出来事が書かれている。それをきっかけに、「ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた」(ヨハ5:16)とある。イエスは彼らに、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(5:17)と答えられた。福音書は、「このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(5:18)と書いて、彼らの気持ちが、「迫害し始めた」から「殺そうと付け狙うようになった」に変わったことを示し、その変わり目が、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされた」というところにあることに注目した。ここには、本ブログでこれまで何度も検証してきたように、構造的な問題が隠されている。 

当時のユダヤ人たちにとって、イエスが、神を自分の父であると言われたことが、大きなショックであったことを、これらの出来事は物語っている。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史を(王上11:1~10参照)、彼らは承知していたのである。ヨハネ福音書は、「そこで、イエスは彼らに答えて言われた」(ヨハ5:19)と続けて、強い口調でイエスが御父と御子の関係を語られた言葉を、5章の最後まで書き通した。イエスがこれほどまでに証ししないではいられない問題を、彼らが抱えていたからである。 

ユダヤの人々は、幼いころから、詩編を耳で覚え、旧約聖書を暗記するように身に付ける環境にいた。その中で、すでにソロモンの時代から、神とイスラエルを花婿と花嫁、夫と妻になぞらえる発想が生まれ発展していた。後に雅歌を、神とイスラエルの愛として読む伝統も定着していく。神と親子の関係を築けなかった民の苦肉の策であったに違いない。しかし、神と民の関係に、花婿と花嫁、夫と妻という婚姻のイメージを当てはめることは、大きなリスクを伴っていた。そこには神と対等であるとの思いが、隠れて芽を出すからである。家父長制度のもとでも、婚姻の日は、花嫁は花婿と共に祝われ、等しい関係にあると感じることができる。そのように、男女の婚姻にたとえた神との関係理解は、神を礼拝しつつ、礼拝を司る者たちが、神へ向けるべき民の眼差しを、自分たちに向けさせようとする動機となる(マタ23:1~39参照)。自分が神と等しい者であるかのような錯覚に捉えられていくのである。 

このようにして、福音書に書かれた、「神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」というユダヤ人たちの気持ちには、二重の怒りが込められていたことがわかる。神と父と子の関係を結べず、神の子とされることのなかった彼らの現実を見せられた怒りと、神の民への愛を、花婿の花嫁への愛、夫の妻への愛にたとえる婚姻の神秘の中で、神と等しい者として神に愛されるというフィクションの世界を破られたという怒りである。それらは、イエスを殺そうと思うほど強い感情であった。彼らは、慣れ親しんだ詩編や、旧約聖書の文言から、婚姻神秘主義的な神学を産みだしていた。その結果、モーセから続く旧約の祭司職は、ダビデやソロモンの時代を経て、そのあり方を変えていき、イエスが公生活を始めた頃には、新約の司祭職を接続することができないものと化していたのである。 

同胞と同じように、詩編を唱え、旧約聖書を身に付けていたにもかかわらず、新約の司祭職を悟っていたヨハネ福音記者は、彼らに対する無念さを「ユダヤ人」という言葉に込めたのだと私は思っている。その思いは、アダムに示唆した祭司職の完成と(創3:19参照)、ダビデに与えた希望を実現すべく(サム下7:14参照)、新約の司祭職をもたらしたイエスのものでもあったのではないだろうか。それは確かに、ダビデの末裔として来られ、イスラエル人として同じ教育を受けたイエスの無念さでもあったに違いない。ヨハネは、ユダヤ人として自分が生まれ育った民がはまり込んでしまったこれらの問題が、イエスがもたらした新約の司祭職とはけして相容れないものであることを、初めに悟ったのである。それはまさに旧約脳と新約脳と言えるほどに、まったく異なるものとなっていたのであった。 

Maria K. M.


 2026/07/20


257. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の現実

人は、地を従え、あらゆる生き物を治め、霊と真理をもって神を礼拝するために創造された。神が聖別された日を神と共に永遠に祝い、その食卓を囲むのである。そのために、神は、人が「我々のかたち」を現すように、人に権力や富、権威が付与された肉体の自発性を授け(本ブログ№252参照)、この自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として、人を創造された。この常態において人は聖霊と協働することができ、それによって、神の似姿を現わすことができるのである。唯一の神のかたちを現すために独りで生まれ、独りで死んでいく肉体を持つ人にとって、人が三位一体の神の姿を現すために協働される聖霊は、人の存在の初めから、無二の隣人であり、人は、養成されれば、生涯、聖霊と協働して生きることができるのである。 

創世記で、「人」が独りであったとき、聖霊と協働して体験したことは、現代の私たち信者にも受け継がれている。「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とある描写は、私たちが、聖霊と協働することで、自分の記憶を耕し守ることになることを想起させる。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2:16~17)とは、「人間の情報」を区別せず取り込んで自分の「人間の知識」にしたら必ず死ぬことになるということである。「必ず死ぬ」とは、人本来の常態を失い、聖霊と協働するという最高の幸せに与ることができなくなることを意味している。 

「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)という記述は、まさに聖霊と協働する人の体験である。続けて、名を付けた生き物の中には、「自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」(2:20)という事実は、人に相応しい助け手として、同じように聖霊と協働するように養成された人との出会いがあることを物語っている。これらの理解が私たちになければ、「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか」(3:11)と、神から言われたアダムのように、私たちにも神への敵意が起こる可能性がある。なぜなら、「取って食べると必ず死ぬことになる」という言葉が、自分に実現しなかったということの真の意味を、悟ることができない者となっているからである。 

神である主は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)と言われ、「神への敵意」が起こる前に、「神が置かれた敵意」が働くようにされた。それは、それによって「神への敵意」を阻止することが、罪を食い止める強力な手段となるからである。「神への敵意」が「神が置かれた敵意」を乗り越えて隣人に向かっても、「神が置かれた敵意」の効果が、人を神に連れ戻すこともある。さらに、この御言葉は、御子が人となって地上に遣わされることを決定づけた。「頭を砕き」とは、悪魔やサタンと呼ばれるものが「人間の情報」であることを、イエスが、人が分かるように暴かれたことである。「かかとを砕く」とは、「人間の情報」によって、次のようにイエスの宣教の歩みが止められ、十字架上で救いを成就する方向に向けられたことである。 

「イエスは言われた。『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』」(ヨハ6:70「夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(13:2「ユダがパン切れを受けるやいなや、サタンが彼の中に入った。イエスは、『しようとしていることを、今すぐするがよい』と言われた」(13:27)。 

結果的にアダムの神への敵意は、隣人である妻に向けられた。彼は、彼女に自分で「エバ」と名を付けた。その名で呼ぶことによって、妻を自分の支配下に置くことになる。人は、隣人を支配することはできない。すべての被造物は、神に由来する自発性を持っている。それゆえその振る舞いには、神に従う自由がある。人は誰でも、権力や富、権威ある人としての肉体をもって、聖霊と協働することができる者として創られた。アダムは、そのような隣人の、神に従うための自発性を貶め、支配下に置いて、隣人と協働する真の隣人である聖霊を冒瀆したのである。 

「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創3:24)。イエスは、聖霊を冒瀆した人々を救い、命の木を現わすためにも、地上に遣わされたのである。 

Maria K. M.


 2026/07/13

256. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神が置かれた敵意

人は、複数になると、その間に偶発的に情報(「人間の情報」)が行きかう。それを自分と区別せず自分の知識(「人間の知識」)として取り込んでしまうと、そこから善か悪のイメージを受け取り、錯覚が起こる。善のイメージが受け取られた場合、人の肉体は他の動物と同じように単体であるにもかかわらず、誰かと一体になったという錯覚を持ち、大きな快感が生じる。神が「人」から男と女を創造された時、神が連れて来た「女」を見て「男」が言った言葉、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」(創2:23)にそれを見ることができる。創世記の初めの「人」が、聖霊と共に土を耕したり、動物に名を付けたりしたように、神である主は、人が聖霊と協働して神の似姿を現わすために、人に、無意識の内に聖霊と協働する体験を授けられるからである。 

人の生殖機能に置かれた自発性は、他の動物と同じように種を存続させ、全能の神の永遠性と真理である神の自由とを具現している。動物たちにとって生殖機能に置かれた自発性は、彼らの他者との関りやつながりを、種を存続させるという一点に集中させる。しかし、神のかたちに創造され、聖霊と協働するに相応しく行動するために、権力や富、権威が付与された人の生殖機能に置かれた自発性には、種の存続のみならず、権力や富、権威に向かう強い嗜好がある(本ブログ№252参照)。このような嗜好を帯びた自発性は、その人の「人間の知識」とつながっている。「人間の知識」が、「人間の情報」を取り込んでいる状態でこれらの嗜好が「人間の知識」に伝達されれば、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、同時に錯覚からフィクションへの移行を伴い、行為に至る。創世記の初めの「女」に起こった欲求は、「神のように善悪を知る者となること」(創3:5)であった。 

創世記1章では、創造主を「神」と呼び、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを示した(創1:1~2:3参照)。2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼び、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を示していた(2:4~2:22参照)。一方、創世記3章では、人が聖霊と協働できる状態の時、「神である主」と記載し、人ができない時、「神」と書くことによって、その時の人の状態や状況を明らかにしているように見える。そこで、「人」に対して、初め「神である主」が当てられ(3:9~10参照)、次には「神」が当てられていること(3:11~12参照)、「女」には、「神である主」が当てられていることに注目すると(3:13~15参照)、それを確認することができる。 

「人」は、おそらく、「女」と情報を共有するうちに、それを区別せず、自分の知識として取り込んでしまい、「私は裸なので、怖くなり、身を隠した」(創3:10)という体験の渦中にいた。やがて彼の、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(3:12)という言葉は、神への怖れが、敵意に変わったことを示している。「女」にも起こったように、彼の「人間の知識」に、人の生殖機能に置かれた自発性に付与された、権力や富、権威に向かう強い嗜好が伝達されたのである。この時、「人間の情報」を取り込んでいる状態の彼の「人間の知識」は、神の前にいるに相応しく、その人格を保つことができなかった。 

そこで、「神である主」は「人間の情報(「蛇」)」に言われた。「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)。ここで、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」にあって、「人間の情報」が侵入するのを阻む砦のようである。それは、人の霊の領域を「人間の情報」から守る。しかし人が、その砦を超えて「人間の情報」を取り込み、自分の「人間の知識」としてしまえば、苦しむことになる。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」と「神が置かれた敵意」との間に、矛盾が起こるからである。この戦いが激しくなり、その矛盾によって、自分の錯覚から生み出されたフィクションの世界が打ち破られようとするとき、人は、その造り主に敵意を向けることで、それを阻止しようとする。 

この造り主への敵意はやがて、現実的に解決を見るために、隣人への敵意に変質していく。隣人への敵意は、いわば聖霊に敵意を向けたも同然である。聖霊こそが、第一の隣人だからである。人は、「我々のかたち」を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。聖霊は人にとって、まさに無二の隣人である。時が満ちると、「神が置かれた敵意」は、イエス・キリストとして誕生した(ルカ2:34~35参照)。律法の専門家が、イエスにどの掟が最も重要かと問うた時、イエスは、次のようにお答えになった。 

「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタ22:37~40)。「あなたの神である主」とは御父と御子である。自分のように愛すことのできる隣人とは、聖霊である。人が、聖霊を無二の隣人として自分のように愛そうとするとき、神の愛がすべての隣人に向かうのである。 

Maria K. M.


 2026/07/06

255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。 

私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。 

人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。 

ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。 

ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。 

複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。 

Maria K. M. 

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 2026/06/29

254. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の情報

神である主は、人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。しかし私たちの「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクションは、仮想現実を造る。その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そうして信者でも、「善悪の知識の木」にすがり、それに憑依し、遂には行為に至る。イエスが、「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)と言われた言葉は、信者の誰にも当てはまるのである。

イエスが、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハ8:12)と言われた言葉から始まった、ファリサイ派の人々とユダヤ人たちとの問答の後(8:13~30参照)、ご自分を信じたユダヤ人たちに次のように言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(8:31~32)。「私の言葉にとどまる」とは、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、「御言葉(命の木)」を介してつながっている状態のことである。このようにつながって初めて、人は真理を知り、真理は人を自由にする。人が真の自由を感じるのは、神の自由をもたらす聖霊と協働する時である。その時、人は、三位一体の神の関係性に招き入れられ、無心となって神に集中し、神の自由に与るのである。

 しかし私たちの「人間の知識」が、「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクション、そこから造りだされる仮想現実は、人を神の恵みに与らせないどころか、最期には、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」という結果に至らせる。「人間の知識」はなぜ「人間の情報」を取り込むのか。前回考察したように、動物も相応の知識を授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。動物たちにとって、他者との関りやつながりは、種を存続させるという一点に集中している。その目的のために同一種の個体間で情報が行きかい、神から相応に授かった知識が発達する。

人においては、前々回考察したように、第一の川ピションにたとえられた自発性を持つ生殖機能の働きには、子孫だけではなく、権力や富、権威を産みだす強い嗜好がある。その嗜好は、愛情、親密さ、快楽を求め、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「御言葉(命の木)」を介してつながっている「人間の知識」に突き付けられるのである。それに応えようとする「人間の知識」は大きな混乱を抱え、他者との関りやつながり、すなわち「人間の情報」を求める。そうこうするうちに「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。 

ヨハネ福音書には、「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)とある。人の心の中にあるのは、「人間の情報」である。神であるイエスが、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたように、神の似姿に創造され、霊の領域を持つ人は、何が自分の心の中にあるかを知っている必要がある。このような信者は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる権能を与えられた状態を保持する可能性がある。「自分の心の中」とは、「人間の知識」の中と言うことができる。 

これらの考察の中で、私がいつも「人間の心」と言わず、「人間の知識」と言うのは、今回のように、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」ということの原因が「人間の情報」からくるので、それに対応するのは「人間の知識」だと考えるからである。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」は、イエスの言葉を聞かない。初めイエスを信じた人々が、イエスが語った真理が自分たちの嗜好とぶつかったために、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなると、イエスを信じなくなった。私たち教会は、次のイエスの言葉を胸に刻まなくてはならない。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47 

Maria K. M.


 2026/06/22


253. ヨハネ福音書と新約の司祭職 自発性と知識

前回考察したように、主なる神は人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。神が、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1:26)と言われた「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が霊であり、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として人は完成した。神は人にこれらを備えただけではなく、神ご自身である三位一体の関係に人を招き入れることを望まれた。そこで創世記1章では、創造主を「神」と呼んで、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを強調したが、2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼んで、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を強調した。 

創世記の、「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」(創2:9)と書かれた「見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木」は、私たち信者にとっては新約聖書である。これを「食べる」ということは、朗読して聞くということ、「あらゆる木」とあるのは、それがすべての人に対応していることを告げている。誰もが御言葉とつながるぶどうの枝となることができる。黙示録には、「それを取って食べなさい」(黙10:9)と命じた天使の言葉に従った筆者は、「そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった」(10:10)と書かれている。 

新約聖書は、旧約聖書に比べてはるかに小さいから、ただ読んで聞くには易しいが、人の内奥に到達した生きた御言葉は、真理によって人を清め、人の身には苦い薬のように感じるのである。しかし、そのことが返って信者たち一人一人を聖霊に向かわせ、「そこを耕し、守る」(創2:15)創世記の初めの「人」と同じ養成に与らせることができる。「そこ」とは、初めの「人」と同じく、信者自身の記憶である。黙示録の筆者は、その後、再び預言することを命じられている。彼は、預言の書の世界で天使に同伴されていたが、私たちは創世記の初めの「人」と同じように聖霊と協働する。そうして私たちは福音を宣教するのである。創世記は、初めの「人」が、聖霊と協働する様子を次のように書いている。 

「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)。神である主によって、唯一の「人」として創られ、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっていた初めの「人」は、聖霊と協働していたために、生き物に名をつけた時、「それがすべて生き物の名となった」のである。私たち信者も初めの「人」と同じく、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっている時、高い親和性をもってイエスの名によって遣わされた聖霊と協働することができる。 

前回考察したように、創世記に、「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創2:10)と書かれたエデンの園は、人の記憶である。記憶の領域は、「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)とイエスが言われたように、聖霊が働く場である。人は、聖霊の働きによって流れ出て、園(記憶)を潤す川にたとえられた知識を授かっている。そして、そこから分かれて四つの川となったその第一のもの、「産めよ、増えよ」(創1:28)と命じた神の言葉によって与えられた生殖機能に自発性が置かれている。生殖機能は種の存続のために、個体の情報のすべてを子孫に残す使命があるからである。 

動物にも知識は授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。一方、霊の領域で「神の自発性(命の息)」とつながる「人間の知識」は、生殖機能に置かれた肉体の自発性ともつながりながら、聖霊と協働して一連の業を成すのである。神である主が、「人」を男と女に分けられ、「女」を人のところへ連れて来られた時、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創2:23)と言った「男」の言葉には、その様子が現れている。彼らが授かった生殖機能は(2:24参照)、この時正常に機能していた(2:25参照)。この状況で、二人に重大な問題が発生したのは、複数になった人の間に発現した「人間の情報」からであった。 

しかし、「人間の情報」が発現したこと、それ自体は問題ではなかった。問題は、「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって、錯覚とフィクションが起こることだ。これらは仮想現実を造り、その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そして遂には、この危険を回避するために、神である主が「命の木」と共に人の記憶の中央に生えさせた「善悪の知識の木」にすがり、拠り所としてしまうのである。イエスは、新約の司祭職を授かった弟子たちに、次のように厳しく諭している。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)。 

Maria K. M.


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