イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/05/04

246. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

主の祈りの第4の祈願、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りは、前回考察したように、「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が実現することを、信者が願う祈りでもある。これらの祈りが叶うのを見るのは、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いに与っている時である。この黙示録の第4の幸いの直前には、「私たちは喜び、大いに喜び神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て花嫁は支度を整え輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである」(19:7~8)という句が置かれている。 

この句の、支度を整えた「花嫁」とは、司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている新約の司祭職である。新約の司祭職が身にまとった「聖なる者たちの正しい行い」とは、花婿であるイエスの名によって遣わされた聖霊の「介添え人」として、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。ここにご聖体が誕生する。居合わせた司祭と会衆は、すべてを目撃する。彼らは、新約の司祭職を受け取った民だからである。そこで、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いを悟った筆者は、感動のあまり、天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。しかし天使は、次のように言った。「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」(黙19:10)。 

天使が言う「あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたち」とは、イエスの聖体制定の言葉と、それとともに授けた新約の司祭職を記憶に保持し、イエスが委ねた王職によってそれらの権威を継承した使徒とその後継者たちである。イエスが新約の司祭職と共に使徒たちに授けたこれらの言葉は、聖霊が預言の霊となって彼らの記憶から引き出し、彼らと共に働き現実にする。その時、彼らは、天使と同じく、神である聖霊に仕える者となっているのである。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現に、重厚で根源的な構造が織り込まれていることを示している。続く第4の幸いの、「これらは、神の真実の言葉である」という句に、それが暗示されている。天使の言葉が終わると筆者は、次の描写を続けた。 

「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『忠実』および『真実』と呼ばれ、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた。この方は血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている。この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙19:11~16)。 

この描写は、聖霊と、ご聖体に関するものである。白い馬が現れ、それに乗っている方が「忠実」および「真実」と呼ばれるのは、イエスが聖霊について、「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(ヨハ16:13)と言われたからである。正義をもって裁き、また戦われるのは、「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:8)ためであり、「この世の支配者が断罪される」(16:11)ためである。その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠を戴き、この方には、自分のほかは誰も知らない名が記されていた、とあるのは、この世の人に聖霊の姿が見えないからである。 

とはいえ、この方は血染めの衣を身にまとい、その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるので、信者は、受難の場面で、イエスが深紅の外套を着せられたことを想起し(マタ27:28~29参照)、イエスが、「その方は私に栄光を与える。私のものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハ16:14)と言われたことを思い出す。その名は「神の言葉」と呼ばれたとあるのは、聖霊がイエスの名によって遣わされ、御言葉を生きるものし、イエスの証ししたことを実現するためである。そこで、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、聖霊に従っていた。聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭たちである。聖霊によって生きるものとなった御言葉は、鋭い剣である。それで打ち倒す「諸国の民」とは、人々の内奥に入り込んだ「人間の情報」である。 

次に、自ら鉄の杖で彼らを治めるとあるのは、キリストの御体を示唆している。この言葉が、黙示録12章の「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖であらゆる国の民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」(黙12:5)から取られているからである。この描写は、「天に大きなしるしが現れた。一人の女が太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(12:1)という場面の後に書かれており、本ブログでこれまで考察したように、この「一人の女」は、イエスの母のイメージをもって描写された新約の司祭職である。ここから、「男の子を産んだ」女は、それを記憶に保持する使徒(司祭)であり、「神のもとへ、その玉座へと引き上げられた」とある男の子は、キリストの御体である。 

「そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」とあるのは、イエスが、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)と言われたからである。「そのぶどう酒」とは、イエスの御血である。続く、「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」とは、ご聖体の名である。「王の王」は油注がれた者、メシアを、「主の主」は、神の子イエスの名を示唆している。ご聖体には名があり、それは、「メシア、神の子イエス」である。 

これらの事は、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いの中で、私たち信者が、拝領するご聖体の名を、「メシア、神の子イエス」と呼ぶことができるということを示唆している。実際に「私たちと共におられる」(マタ1:23)神に向かってその名を呼ぶことは、キリスト者の悲願である。そして、信者がご聖体を前にして、「メシア、神の子イエス」と呼び、その声を聞くことは、その名を自身の記憶に書き記すということになる。そこで天使は筆者に、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」と言ったのである。 

Maria K. M.

 

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 ➡ 「パトモスの風⑪

 


 2024/04/27


245. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い

イエスはカファルナウムで、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)と、ご自身に従ってきた群衆に言われた。この言葉は、この時の群衆には理解できなかった。しかし今、私たちは、イエスが、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。・・私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:33~35)と言われたことを実現されたことを知っている。ゆえに私たち教会は、ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きようと努力する。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練は、信者がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっている。イエスがもたらした神の国の中核をなすミサ典礼に与り、神に向かって「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるすべての信者の内奥で、天の父の名が聖とされるために、ヨハネの黙示録の第1の幸いは、黙示録の訓練を続けることが必須であることを告げた。そこに「時が迫っているからである」(黙1:3)とあるように、わたしたち信者が、イエスの名によって遣わされた聖霊と共にいて、共に働く時は、なのである。「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくるのは、このためである。そして、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道を聖霊と共に歩む自分を確認しつつ、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と祈るのである。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンの道筋で立ちのぼるこれらの祈願は、信者たちの口に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という確信的な祈りをもたらす。主の祈りの第4の祈願であるこの人間的で素朴な祈りには、黙示録の、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれた第4の幸いが向かい合う。この幸いは、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願の持つ人間的で素朴な表現の裏に、重厚で根源的な構造があることを示している。それは、この祈りが、創世記の「土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る」(創3:19)と、アダムに予告した神の言葉が、実現することを願う祈りだからである。 

創世記には、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(創2:7)とある。ヨハネ福音書に、復活したイエスが使徒たちに、「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハ20:22)と書かれているところからも、「神の息」は、人を霊的存在とするものであると分かる。人は神のイメージで、また、「神は霊である」(4:24)とイエスが言われた神との類似性を持って創造された。人は初めから霊的存在となるものとして創造されたのである。神はアダムに、自分の肉体の死に至るまで「額に汗して糧を得る」ために働くこと、そして霊的存在に戻ることを予告した。この予告が、女性から生まれるすべての人のものになるように、イエスは女性から生まれ、アダムに告げた言葉を実現するために、男性としてお生まれになった。 

イエスが、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」と言われた「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」とは、まさに、その働きを授けられた男性が、額に汗して得る「糧」なのである。「父なる神が、人の子を認証されたからである」とは、このように働く男性に、天の父がしるしを付けられたということである。それは、イエスが以前、「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と言われた言葉を受け取った男性のしるしである。 

イエスのこれらの言葉を最終的に受け取ることができたのは、その当時、使徒たちだけであった(ヨハ6:66~69参照)。「人の子があなたがたに与える食べ物」は、天の父の「御心を行い、その業を成し遂げること」であり、それは、「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」を生じさせ、それを特別な仕方で人々に分け与えることである。彼らは、イエスの名によって遣わされた聖霊と共に働き、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と言われたイエスの言葉を現実のものにする。この神の現実は、ミサ典礼の中で繰り返される。イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって、連綿と受け継がれるものとなったからである。 

イエスの名によって遣わされた聖霊は、福音として地上に残されたイエスの御言葉に命を与え、生きるものとされる。ミサ典礼の中で新約の司祭職は、聖霊の「介添え人」(ヨハ3:29)である司祭の記憶に、特別な仕方で隠されている。彼らは、聖霊の口、手足となって聖霊に付き従い、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という彼らの祈りは、御父に聞き入れられ(16:23~24参照)、ご聖体が生まれる。これらの只中で、すべてを目撃する司祭自身と会衆は、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈願が叶うのを見る。彼らは、第4の幸いである「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いに与っているのである。 

Maria K. M.


 2026/04/20


244. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸い  

前回の考察を続ける。神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかける信者が、それをイエスと同じ心で呼びかけ、「み名が聖とされますように」という祈願を自分のものにするために、ヨハネの黙示録は、全22章の訓練の内、半分以上をそのための訓練に充てている。「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という第1の幸いが示すように、その訓練を素早く始めることによって、天の父の名が、訓練者の内で聖とされていく。黙示録の言葉を朗読し聞く訓練をすぐにも始めれば、そこから訓練者の内奥に浄めの水が入るからだ。やがて訓練者は、「天におられる私たちの父よ」と呼びかける自身の声が、真理を帯びたものとなっていくのを見るようになる。 

日々水を飲むように黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練者は、この訓練がミサ典礼に向かう日常のルーティンと重なっていくことに気付く。このルーティンを生きる自分の前に現れる出来事に、だんだんと観察の眼差しを向けるようになるからだ。黙示録の筆者に影響された訓練者は、その内奥で、自分の記憶に入った「情報」を、自分と区別して見るという姿勢を取るようになっていく。そこで、「み国が来ますように」という祈りが真剣みを帯びてくる。この祈願には、黙示録の第2の幸いの訓練が対応する。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とあるこの訓練によって、「み国が来ますように」という祈願の神髄を信者自身が体験し、答えを得るのである。 

「情報」を、自分と区別して見るようになると、訓練者は次第に、「情報」から取り込んで自分の知識とした記憶と、自分の知識として記憶されている御言葉との間の矛盾に気付き、それを解決しようとする。それは内面的な苦痛を引き起こすのみならず、御言葉に従おうとするその姿勢が、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの中で出会う人々の前で、言葉や行為に映し出されて現れる時、外的な労苦と困難ももたらされることがある。世がイエスを扱ったと同じく、神を天の父と呼ぶその人をも排斥しようとするからである。これが訓練者にとっての「主にあって死ぬ人」の体験である。それは、遂にミサ典礼に与るまで続く。ミサ典礼の中で、訓練者は、御言葉とご聖体に再会する。「彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」とはこの事である。 

「言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言われたイエスは、十字架上で酸いぶどう酒を受け取られたことで、神の国の到来を告げられた(ヨハ19:30参照)。御父と共にご聖体に現存されるイエスは、ご自身の血と水を受けた教会が、神の国をミサ典礼として完成する時を見ておられる。21世紀の今でもミサ典礼は完成の途上にある。しかし、ご自分の名によって遣わされる聖霊のために、イエスが聖体制定とともに使徒たちに授けた新約の司祭職は、併せて使徒たちに委ねられた王職によって継承され、常に「主の食卓」に仕えている(ルカ22:30/本ブログ№237参照)。ゆえに、信者の日常のルーティンは、イエスが十字架上で獲得してくださった神の国を現すミサ典礼を目指すことができるのである。 

「主の祈り」の3つ目の祈願、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」には、「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(黙16:15)という黙示録の第3の幸いが答えている。「見よ、私は盗人のように来る」と言われるように、洗礼を受けた信者でも、身近な実生活の中で、イエスの名によって遣わされた聖霊と触れ合う機会に気づかないことがある。その機会に気付き、自覚して聖霊と共に行動するのでなければ、その信者の行いは、神の御前で、裸で歩くのを見られて恥をかく人のようである。そこで御父は、黙示録を示した。これを朗読し、その声を聞く訓練を続けて、聖霊との親和性を身に着けるのである。この預言の書の冒頭に書かれた言葉を忘れてはならない。 

それは、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)という言葉である。黙示録の訓練では、「目を覚まし、衣を身に着けている人」の幸いが得られるだけではない。この黙示録の訓練が、いつも真実に目覚め、聖霊と一つになって働こうとする人を支えるのである。その人は、イエスの名によって遣わされた聖霊の衣を身に着けているキリスト者であり、聖霊によってイエス・キリストを世に現わす信者である。このように働くことを知って、体験する者は、「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」と真摯に願い、次のイエスの言葉を実践するために、ミサ典礼に向かう日常のルーティンの中で、聖霊と共にいて、真実をもって生きようと努力するのである。 

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父なる神が、人の子を認証されたからである」(ヨハ6:27)。 

Maria K. M.


 2026/04/13


243. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸いⅠ

ヨハネの黙示録の訓練は、パウロが旧約聖書や詩編を使って信者のために与えた訓練とは(一コリ14:26参照)、全く異なる効果を引き出す。旧約聖書の世界には、イエスの名が存在しないだけではなく、旧約の民が、神を父と呼ぶ機会を逃したという致命的な歴史がある。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史だ(王上11:1~10参照)。この歴史が彼らの嘆きの原点にある。神と親子の関係に至らなかった彼らは、雅歌を加えた旧約聖書を成立させた。神への言及がほとんどない雅歌には、かえって、神の愛を男女の愛にすり替えるというドラマチックな解釈の変化をもたらすことができる可能性があったからだ。 

雅歌を加えることで、神と親子の関係に至らなかった民であっても、神の愛は変わらず民に注がれ、その「愛」に導かれ、時に迷いながらも、神を慕い求める民が、遂には神と出会うという熱烈な愛のドラマが、ユダヤの民の歴史を再肯定することができたのである。しかし、恋人同士、花婿と花嫁、夫と妻といった婚姻のイメージを、神と民の関係のアナロジーにすると、やがて人が、自分を神と対等な者と錯覚する危険がある。神と民が親子の関係であればありえない発想を抱くようになるのである。ヨハネ福音書には、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハ5:18)と書かれている。しかしそれは、「父は私よりも偉大な方だからである」(14:28)と言われたイエスの思いではない。 

それは、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハ5:17)というイエスの言葉を聞いて、自分を神と対等だと錯覚する者が、神を自分の父であると言うイエスに対して持った、深い嫉妬の念である。彼らには、「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」(5:19)と続けたイエスの言葉は、耳に入らなかったに違いない。神を父と呼ぶイエスへの深い嫉妬の念は、殺意に取って代わられたのである。一方、イエスが成し遂げられた新しい契約に導き入れられた信者は、イエスを受け入れ、その名を信じ、神の子となる資格を与えられたのであるから(1:12参照)、その神を父と呼ぶことは正当な行為である。それはまさしく、神が待ち続けた神と人の真の関係であった。 

イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えられた。それはイエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった唯一の祈りである。初めに「天におられる私たちの父よ」と呼びかける「主の祈り」には、7つの祈願がある。それらの祈願が、それを唱える信者自身のものとなるようにと導く7つの幸いが、ヨハネの黙示録にはある(上図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。図の左を見ると分かるように、第1の幸い(黙1:3参照)から第2の幸い(14:13参照)の間には、長い距離がある。それは、信者が神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかけ、続けて「み名が聖とされますように」と祈る真意を悟るようになるには、それほどの長い訓練を必要とすることを物語っている。 

「み名が聖とされますように」と祈る信者は、自らの記憶が浄化され、イエスと同じ心で神が天の父であるという真理を身に着けられるように、黙示録の訓練に臨むのである。黙示録全22章の訓練の内、半分以上が、「主の祈り」の最初の祈願に充てられている理由がここにある。そこで「み名が聖とされますように」という祈願は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という黙示録の第1の幸いに導かれる。この幸いに従う訓練者は、黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練を、日々水を飲むように、ミサ典礼に向かう日常のルーティンに取り入れることが求められる。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きる信者の前には、さまざまな出来事が現れる。時に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ8:20)と言われたイエスのように、落ち着く場のないほどの目まぐるしい体験をする。黙示録の訓練者の意識は、このような現実の出来事を前にして、黙示録の筆者と同じように、その出来事に観察の眼差しを向けるようになる。そこで続く、「み国が来ますように」という祈願は、「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とある黙示録の第2の幸いに導かれる。 

Maria K. M.


 2026/04/06


242. ヨハネ福音書と新約の司祭職 親和性の実装

「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言われたイエスの言葉を信者に体験させることと、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性を育てていくことは、同時に進行する。そのためには、その訓練の書にイエスの名が置かれていることが必須条件である(本ブログ№240参照)。旧約聖書の使命は、福音書の中でイエスによって引用されたことでその役目を終えた。イエスとつながり、イエスによって完成され、福音書の中で新しい御言葉として生きるものとなったのである。ゆえに、その由来や背景は、必要に応じて解説されれば十分であると考える。 

キリスト者は、新しい契約によって、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる資格を与えられた信者である(ヨハ1:12参照)。その新しい記憶に新しい御言葉を恒常的に注入するためにも、新約聖書は成立した。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた信者の記憶は、新しい革袋である。そこに注がれた新約聖書の言葉が、イエスの名によって遣わされた聖霊と見事な親和性を見せるに至るためには、注がれた新約聖書の言葉が認識となって熟成する必要がある。その必要に答えるために授かったのが、ヨハネの黙示録である。イエスの名によって遣わされた聖霊が最適化したこの訓練を、信者たちに公に与えることができるのは、教会の牧者たちである。 

私たち信者は、教会が正典と認めたヨハネの黙示録の言葉に、ただ幼子のように素直に従い、この預言の言葉が感覚から入るに任せるのみである(黙1:3参照)。黙示録を朗読する声は、流れて信者の感覚を清め、知識に留まることなしに、聖霊が定めた記憶の場に入る。そして自律的にイエス・キリストの世界観を信者の無意識の記憶として形成することができる。この世界観が、信者の知識に記憶されていた新約聖書の言葉を受けて認識にする基礎になる。このように、黙示録を、水を飲むように日常的に朗読することによって、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性が養われる。ゆえに一回の量は、真摯にこの訓練に向き合うその人相応でよいのである。 

それは、マタイ福音書でイエスが、「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」(マタ25:14)と言って始められたたとえと似ている。主人は、僕たちにそれぞれの力に応じて自分の財産を預けた。それは信者にとってヨハネの黙示録を朗読する訓練である。ある日は一節しかできなくとも、それを毎日続けていれば、もうけを出すことができる。聖霊が働いておられるからである。しかし、ヨハネの黙示録の効力を理解せず、地の中に隠しておくならば、「悪い臆病な僕だ」(25:26)と言われ、役に立たない僕として外の暗闇に追い出されてしまう。ここで「主人」は、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタ25:29)と諭している。「持っているもの」とは、神の言葉の認識である。 

そこでヨハネの黙示録には、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれている。ここで、「時が迫っているからである」とあるのは、黙示録の最後の章に、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(22:7)と書かれた言葉を先に受けている。御言葉は、「この書の預言の言葉を守る者」と認識を共有するために、待ち構えておられるのである。 

黙示録の「幸い」は7つあって、黙示録全体を前に進める大きな推進力になっている。上に示した改訂版「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図(2026/4月版)は、黙示録の「7つの幸い」について、新しい見解を与えている。「7つの幸い」に、本ブログでこれまで考察してきたような働きと、推進力があるのは、これらの幸いが、マタイ福音書にある山上の説教の中央に置かれた、「主の祈り」を受けているからである。イエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった主の祈りは、7つの願いから成り、神を天の父と呼ぶことから始まる。 

これを受けて、黙示録の初めは、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれている。ヨハネの黙示録の訓練は、確かに神である天の父のみ旨なのである。次回は、主の祈りに答える7つの幸いについて考察を深めたい。 

Maria K. M.


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 ➡ 「パトモスの風⑩

 



 2026/03/30


241. ヨハネ福音書と新約の司祭職 パトモスの2羽の鷲

前々回考察したように、自分の使命が、イエスから「良い羊飼い」の杖を委ねられたペトロを、ローマの共同体に迎えることにあると悟っていたパウロは、その時宜が到来すると、「トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください」(二テモ4:13)と、テモテに手紙を書いた。それがペトロを指すことを知っていたテモテは、ペトロと共にマルコを伴ってローマに向かった。パウロのところにはルカがいた。ペトロとパウロが自分たちの死を十分に認識していたと思われるこの時期、彼らは集って共にイエスのなさったことを残す具体的な案を考えたに違いない。そこでパウロがエルサレムで柱の一人と目されていたヨハネを忘れるはずはなかった(ガラ2:9参照)。ヨハネには福音宣教を支える霊的な養成が期待されていたのである。 

同様にペトロも、復活したイエスにヨハネの未来について尋ねたとき、「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハ21:22)とお答えになった声を、忘れることはなかった。それは、イエスがご自分の牧者の杖をペトロに委ね(21:15~17参照)、「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(21:18)と言った直後であった。ヨハネ福音記者は、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(21:19)と解説しているが、その裏には、パウロに「帯を締められ」、ローマに連れて行かれるという予告が隠されていた。 

このように、ヨハネ福音書には、新約聖書の他の書との関わりに、読者が気付くきっかけをつくる含みがある。そこで「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか」とペトロに言われたイエスの言葉を見ると、それに続けて、「それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)と、ここでも含みのある解説をしている。ヨハネ福音書の終盤に置かれたこの含みは、イエスとの再会を示唆していたのである。それは、パトモスと呼ばれる島で、ヨハネが黙示録を書くことになるからであった(黙1:9参照)。 

このことは、ヨハネの黙示録の冒頭に、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれことを見ても分かる。続けて、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(1:2)と、第三者の目で書いている。それは、同じようにヨハネ福音書の、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハ21:24)と、第三者の証言として書かれた文脈と共鳴していることからも、そこに含みがあったことを見ることができる。 

さらに、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と続けた黙示録の言葉は、ヨハネ福音書の最後の句、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)を受けている。聖霊は、「イエスのなさったこと」を、書物ではなく、体験によって信者たちの記憶に残すことにした。黙示録に書かれた言葉を朗読する声は、それを聞いた人の記憶にその言葉を保持させる。それは、信者の感覚に「イエス・キリストの黙示」を注入し、ディープラーニングのような学習の仕方で、イエス・キリストの世界観が信者の記憶の中で自律的に形成されるようにする訓練となる。 

信者は、この訓練を自発的に日々繰り返し体験することによって、記憶にある情報伝達のパターンが、神に向かって再構成される。特定の回路がつながりやすくなるのだ。それは、さまざまな折に信者の記憶に入っている御言葉に向かい、この回路が頻繁に認識され、強化されることにより、ものの見方が変わって、福音書の中で弟子たちがイエスと他の人々と区別していたように、神と人間の情報との区別が起こるようになる。ヨハネの黙示の訓練を続ける最大の効果は、どの信者にもこの区別が与えられるようになるということである。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性をもたらし、教会に大きな益をもたらす。 

イエスが約束した聖霊は、「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ14:26)として、特別に使命を持って降臨された。その使命は、「イエス」の名によって遣わされた聖霊が、私たち「キリスト」者と協働し、二つの名が一つとなって、イエス・キリストの御業が再び世に現れることを実現する使命である。その中心には、これまで考察してきたように、イエスがもたらされた新約の司祭職と牧者に委ねられた王職、使徒職と聖霊と共働するための預言職がある。そのために書かれたヨハネの福音書と黙示録は、分かつことのできない、パトモスの2羽の鷲であった。 

Maria K. M.


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