イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/02/09


234. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音記者の気付きⅢ

ヨハネ福音書4章のテーマを続ける。サマリアの女が、人気のない真昼時に井戸に水を汲みに来た事情を、当時の人であれば見当がつくとしても、イエスは初対面の彼女に、「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(ヨハ4:18)と言われた。それはイエスが神であり、「すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2:24~25)と書かれたとおりだったからだ。 

彼女は、イエスとの対話を通じて、自分の内奥にあった切実な神への渇きに気付き、自分からイエスに生きた水を求めた。イエスはそれを、すなわち生きたみ言葉を与えられた。たとえ短時間であっても彼女を導かれたのは、神であるイエスだった。何の情報もない状況で、このような内発的アプローチができるのは、神のみである。ここは第1のポイントである。 

しかし、対話の終わりに、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(ヨハ4:25)という彼女の言葉に、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」(4:26)とイエスがはっきりと答えられたにもかかわらず、そのイエスの言葉を、彼女は完全に受け取ることはできなかった。その準備がなかったからである。その後、町に行き、人々に、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29) と言った彼女の言葉に、それが現れている。これが第2のポイントになる。 

福音書は、この箇所で、サマリアの女が不在となった間にイエスが弟子たちに話された「刈り入れ」のたとえを挿入した。前回までに考察したように、このたとえの中にも、「飲食のテーマ」から、「命のテーマ」、「礼拝のテーマ」へとつながる流れがある。それはイエスが、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と言われ、また次に、「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」(4:36)と言われたように、「まことの礼拝をする者たち」(4:23)について、弟子たちに教えるためであった。「刈り入れる人」は弟子たちであり、「刈り入れる人」が受ける「報酬」とは、永遠の命に至る実、すなわち、イエスのもとに集まる人々を指している。 

そしてイエスは、「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる」(ヨハ4:37)と続けられた。マルコ福音書でイエスは、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(マコ4:14)と言われている。サマリアの女は確かに種を蒔いたのである。「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というイエスの言葉は神の言葉である。さらに、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハ4:38)と言われたイエスの言葉は、「礼拝のテーマ」の予告である。新約の司祭職は、他の人々が労苦したその実りに与ることである。第3のポイントである。 

サマリア人の町に食べ物を買いに行ったユダヤ人の弟子たちは、町の人々の目に留まったことだろう。そこにサマリアの女の衝撃的な体験が伝えられたのである。彼女の体験には御言葉が共にあった。こうして、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」(ヨハ4:30)。町の人々は、日ごろ彼女を見下していたとしても、ユダヤ人の弟子たちを見た後、すぐ伝えられた彼女の体験に興味を引かれ、イエスのもとに来たのである。これは第4のポイントである。 

そして、彼らの頼みに応じたイエスが、二日間そこに滞在されたことによって、彼らは神の養成を受け、一方弟子たちは事の次第を知った。町の人々は彼女に、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(ヨハ4:42)と告げた。人々は、自発的にイエスを受け入れ、その名を信じたことを宣言している。ここまでの流れの中心には、常にイエスがおられた。これが第5のポイントになる。 

ここで浮かび上がった5つのポイントは、まとめると次のようになる。第1のポイントは、何の情報もない状況で内発的アプローチができるのは、神のみであること。第2のポイントは、その準備がなければイエスの言葉を完全に受け取ることができないこと。第3のポイントは、新約の司祭職は、他の人々が労苦したその実りに与ること。第4のポイントは、イエスを伝える人には御言葉が共にあること。第5のポイントは、人が自発的にイエスを受け入れ信じるようになる流れには、常にイエスが共におられるということである。 

弟子たちが不在であったときのイエスとサマリアの女とのやり取りも、サマリアの女が不在となった間にイエスが弟子たちに話されたことも、今、新約聖書を持つ私たちは知ることができる。ここには、新約の司祭職を授かる者と、同時に彼らを授かる教会が、新約の司祭職を守り保つために認識しておくべき基本が示されている。現代の私たち信者のところまでそれらが伝わったのは、使徒たちの次の決定による。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使6:4)。 

Maria K. M.


 2026/02/02


233. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音記者の気付き

前回に続いて、福音記者ヨハネの視点に可能な限り近づき、新約の司祭職の物語を見極めていきたい。イエスは、サマリアの女との対話を通じて、彼女の内奥にあった、神への彼女の信仰が生かされていないという現実への切実な思いを引き出した。イエスはこの女性を、「飲食のテーマ」から「命のテーマ」、そして「礼拝のテーマ」へと移る流れを作って、答えに導いていった。イエスが意図的にこれらのテーマで人々を導くのは、彼が三位一体の神だからだ。彼は、御父のみ旨を任された御子であり、人となっても聖霊がとどまっている御言葉である。ヨハネ福音書の冒頭が創世記の初めの文章と重なるように書かれているのも、ここに理由がある。 

神は初めに天地を創造した。1章には「命のテーマ」と「飲食のテーマ」があった。そして2章に入ると、「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創2:1~3)とあって、「礼拝のテーマ」に移っている。このことと、イエスがサマリアの女に、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言われた言葉とを考え合わせると、神はご自身が「祝福し、聖別された」日を、人と共に祝おうと望まれたことが分かる。 

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創1:26)と言われた神は、人を、地上を支配させるためだけに創ったのではなかったのだ。そこで、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2:7)とあるように、神は、人の肉の体に、土の「塵」で「霊」を形づくり、人相応の霊の自発性を吹き入れられた。それは土の塵ほどであっても、集まって神を礼拝する者になる。そして、「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」(2:8)。そこは、すべての生き物と同じように肉の体を持つ人が、神が吹き入れた霊と調和しながら生き、神と共にいることのできる空間であったに違いない。このように準備された初めの計画を、神はあきらめることはなかった。ここに福音史家ヨハネの視点がある。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われたイエスの言葉を現実にするのは、新約の司祭職である。イエスが御父のもとから携えて来た計画を、イエスの弟子たちが受け取るのである。4章の初めに、「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」(ヨハ4:2)と書かれているように、新約の司祭職をもたらした神であるイエスご自身は、司祭職を担うことはない。イエスは、最期の食卓で、弟子たちに聖体制定と共に新約の司祭職を示すことで、それを弟子たちに授けた。 

聖霊が降臨すれば、彼らこそが新約の司祭となる。彼らが、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」(創14:18)のように、パンとぶどう酒を持って来て主の食卓を準備する。だからイエスは、最期の除酵祭の日、弟子たちに過ぎ越しの準備をさせた(ルカ22:7~13参照)。そして、聖体制定によって弟子たちに新約の司祭職を授け(22:14~20参照)、さらに、「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(22:29~30)と言って、王職も授けたのである。使徒継承によってこれらを代々受け継いでいく新約の司祭は、まさにサレムの王メルキゼデクのような永遠の祭司となる。 

イエスは、弟子が帰ってきて、入れ替わりにサマリアの女が町へ行ってしまうと、その留守に、弟子たちに、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4:34)と告げた。イエスは、御自分を受け入れ、その名を信じて神の子となる資格を与えられた人々に、永遠の命を得させなければならない。その人を終わりの日に復活させるためである。それは、霊と真理をもって父を礼拝する者に養成するということである。イエスと弟子たちの前には、水がめが置いてあった。それは、イエスとのやり取りが終わると町に行ったサマリアの女のものであった。それは、彼女がイエスから水を飲ませていただいたしるしであった。彼女はイエスの養成を受けたのである。 

「イエスは、二日間そこに滞在された」(ヨハ4:40)とあるのを見ると、弟子たちは、彼らが不在であったときにイエスがサマリアの女に話されたことの全貌を聞いたことだろう。一方、サマリアの女が不在となった間にイエスが弟子たちに話されたことは、彼ら以外は知らない。このコントラストは、彼らが担うことになる新約の司祭職を守り保つためのものである。次回は、この筋を検討したい。 

Maria K. M.

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 2026/01/26

232. ヨハネ福音書と新約の司祭職 ヨハネ福音記者の気付き 

ヤコブの井戸でのイエスとサマリアの女の対話が一区切りつくと、町に食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻って来た。その後の進展を見ると、弟子たちは、彼らが不在の間に起こった出来事を知ることになったと思われる。彼らの体験をもとに、ヨハネ福音記者は自身の気付きを4章に織り込み、新約の司祭職を守り生かすための伏線を張ったとみられる。それを見えるようにするために、この場面のストーリーの展開と同じ特徴を持つ2つの場面を聖書の中から取り上げ、その共通点を比べ、それらがどのような目的に向かっているかを考察する。これら2つは、イエスとサマリアの女の場面と同じく対話形式を取っており、「飲食のテーマ」から入り、「命のテーマ」を通って、「礼拝のテーマ」に至る共通の特徴を持っている。 

初めにイエスとサマリアの女の対話の場面を復習する(ヨハ4:7~24参照)。イエスが「水を飲ませてください」(4:7)と語り掛け、「飲食のテーマ」から入った。次に、サマリアの女の問いに、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13~14)という諭しを与えた。ここには「永遠の命に至る」という言葉から「命のテーマ」がある。最後にイエスは、「あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(4:20)という女の問いに、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)と答えられ、「礼拝のテーマ」に至っている。 

今回取り上げる2つの場面のうち最初の場面は、共感福音書の、イエスが荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑を受けた場面である(マタ4:1~11参照)。断食の後に空腹を覚えていたイエスに、悪魔は、「石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3)と語りかけ、「飲食のテーマ」から入った。イエスが答えると、次に悪魔は、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(4:6)と問いかける。ここには、「命のテーマ」がある。最後に悪魔はイエスに、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(4:9)と言って、「礼拝のテーマ」に至っている。 

2つ目の場面は、創世記で、初めの女と「蛇」の対話である(創3:1~9参照)。「蛇」が女に、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(3:1)と語りかけ、「飲食のテーマ」から入った。続く女とのやり取りから、「蛇」は「決して死ぬことはない」(3:4)と主張する。「命のテーマ」である。こうして女は、神が食べることを禁じた木から取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。やがて、二人は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた。彼らはこれまでのようには、神と出会うことができなくなっていた。「礼拝のテーマ」に至ったのである。 

このように、これら3つの場面は、「飲食のテーマ」から入り、「命のテーマ」を通って、「礼拝のテーマ」に至る共通の特徴を持っている。そして、創世記の場面は、前回考察したように、神がアダムに司祭職を示唆する場面につながっていく。また、マタイ福音書の荒れ野の場面は、すぐに初めの弟子たちをイエスが召し出す場面に続く。やがて彼らに新約の司祭職を授けることになる。 

イエスとサマリアの女のやり取りが終わると、弟子たちが戻ってきてイエスと弟子たちとの間の対話が始まる。ここにはどのような構造があるだろうか。弟子たちがイエスに、「『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた」(ヨハ4:31~32)とある。ここでも「飲食のテーマ」から入っている。そして、互いに、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」(4:33)と言い合う弟子たちに、イエスは、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(4:34)と告げた。

 「わたしをお遣わしになった方の御心」とは、イエスが後に、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハ6:40)と言われたとおりである。イエスが言われた「わたしの食べ物」には「命のテーマ」があったのだ。それは、サマリアの女に、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と答えられた「礼拝のテーマ」と直接つながる。 

なぜなら、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」と言われた「父の御心」は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23~24)と言われたイエスの言葉が現実になった時、はじめて可能になるからだ。「霊と真理をもって」とは、聖霊と新約の司祭職が結ばれることを意味している。次回もこのテーマを続けて、ヨハネ福音記者の気付きに迫っていきたい。 

Maria K. M.


 2026/01/19

231. ヨハネ福音書と新約の司祭職 まことの礼拝

ヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の対話の主題を続ける。前回は、「水を飲ませてください」(ヨハ4:7)というイエスの言葉から、新約の司祭職についての重要な事柄を考察した。今回は、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)に続くイエスの言葉から、新約の司祭職についての別の展望を見つけたいと思う。 

イエスは、サマリアの女の、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(ヨハ4:9)という問いに、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)と答えた。サマリアの女は、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(4:11)と、さらに問うた。この言葉は彼女の内奥から出たのだ。続けて父祖ヤコブを引き合いに出した彼女の憂いも井戸のように深かった(4:12参照)。 

そこでイエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ4:13~14)と言われた。それを聞いて彼女は夢中で言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(4:15)。彼女が、「また、ここにくみに来なくてもいいように」と付け加えたのは、無意識に、もう父祖ヤコブの歴史を持ち出す必要がないようにという思いが込められていた。彼女は自分の真実の思いを、自分が何を求めているのかを知る必要があった。しかしそれには、彼女が日ごろから自分にはどうしようもないとして放置していた問題に、正面から向き合わねばならない。次のイエスとの対話で彼女は、そのことを自覚し、同時に自分の真の望みに目覚めた。 

イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハ4:16)と言われた。女は答えて、「わたしには夫はいません」(4:17)と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(4:17~18)。この時、「夫」の問題とつながって、彼女の内奥にあった神への彼女の信仰が生かされていないという現実への切実な思いが引き出された。それは、当時、アブラハムにつながるすべての人々が抱えていた問題であった。男性にも女性にも問われるこの問題から目をそらせば、神と関わりのない多様で新たな問題が、そこに次々と生じるのである。 

彼女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハ4:19~20)。イエスはそれに応え、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:21)と言われて、イエスが御父のもとから担ってきた「まことの礼拝」についての教えをお与えになった。それこそがイエスが与える「生きた水」である。 

続けてイエスは、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:22~24)と言われた。この御言葉は、創世記で神がアダムに、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創3:19)と言われた御言葉が、新約の司祭職を示唆していたことを、明らかに示している。 

「お前は顔に汗を流してパンを得る」、そのパンは、イエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)と言われる「命のパン」である。「土に返るときまで。お前がそこから取られた土に」とあるように、他の生き物と同じく「土」で形づくられた人の「肉体」は土に戻る(創2:19参照)。しかし、「塵にすぎないお前は塵に返る」とあるように、神は、土の「塵」で人の「霊」を形づくられた。ゆえに神がその鼻に吹き入れられた「命の息」は、神に似た人として生きる霊の自発性である(2:7参照)。それは「神は霊である」ということからすれば、塵に過ぎないほどのものであっても、人は神に似た姿を持っているのである。「塵に返る」とは、人の霊の自発性が神のもとに「返る」ことを指している。人が「まことの礼拝」を求めるのはこのためである。 

神が、新約の司祭職を男性に授け、女性が授かった胎から生まれる霊と肉体をもった人に仕えることは、神の悲願となっていた。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」ためである。イエスは、この御言葉を実現するために、聖霊と直につながって生きる未来の信者の必要を満たし、神が男と女に造られた人々が、それぞれの召命がもたらす役割を十全に発揮できるように、すべてを備えていかれた。次回もイエスとサマリアの女の対話の主題を追っていきたい。 

Maria K. M.

 


 2026/01/12


230. ヨハネ福音書と新約の司祭職 水を飲ませてください 

ヨハネ福音書4章でイエスは、井戸に水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませてください」(ヨハ4:7)と言って声をかけ、対話が始まる。サマリアの女には、対話を続ける強い熱意と相手を知ろうとする姿勢がある。たとえ神とは気づかずとも、イエスに共感できるという大きな期待を直観的に持つことのできる感性が彼女にはあった。神があるようにと望まれた人の命を育む胎を授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を神から授かっている、という感覚が本能的にある。胎が子を宿せば、そこには命が“ある”からである。この感覚からあふれる感性が、多くの女性を神に向かわせてきた。 

イエスとサマリアの女の対話を見ると、直観的でスムースな流れがあるのは、この感性を持っているサマリアの女を、「わたしはある」と言われるイエスが導いておられたからだ。弟子たちが不在の間にこれらの対話が起こったのは(ヨハ4:8参照)、水で洗礼を授けていた弟子たちの姿が新約の司祭職を予感させるとしても(4:2参照)、それを授けられていない時点での彼らの感性は、イエスとサマリアの女の対話について来ることができないからだ。しかし、彼らがこの対話から遠ざけられたのは、それだけの理由ではなかった。 

イエスは、サマリアの女との対話の最後に、新約の司祭職についての重要な事柄を証しした。彼女はそれを聞いて、イエスが、「キリストと呼ばれるメシア」(ヨハ4:25)であると悟り、イエスから「わたしである」(4:26)、すなわち「わたしはある」という御言葉を引き出した。イエスの証しは次のとおりである。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4:21~24)。 

この内容は、新約の司祭職を授けられていないこの時、しかもユダヤ人の男性である弟子たちに受け入れられるものではなかった。しかしこのイエスの御言葉は、異邦人にとっての幸いであり、サマリアの女は、イエスに導かれて、まさに御父が求めておられる礼拝者になろうとしていた。そして、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われたイエスは、この言葉を実現するために、聖霊と直につながって生きる未来の信者の必要を満たし、神が男と女に造られたそれぞれの召命がもたらす役割を、彼らが十全に発揮できるように、すべてを準備して行かれた。 

「水を飲ませてください」という御言葉は、イエスが十字架上で「渇く」(ヨハ19:28)と言われた御言葉を連想させる。その場面でイエスは、差し出された酸いぶどう酒を受け取ると、「成し遂げられた」(19:30)と言って息を引き取られた。すでに前晩に、使徒たちに聖体制定と共に新約の司祭職を授けていたからだ。こうして、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(ルカ22:18)と言われた「神の国」が到来したことが告げられた。「神の国」は、イエスが聖体制定と共に、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた言葉によって新約の司祭職を授けたその時と場をもたらす時空、すなわちミサ典礼に現れる時空を指している。新約の司祭職は、イエスの母と「愛する弟子」として十字架のイエスの傍らにあった。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)というイエスの言葉が実現するためである。 

この時十字架のイエスのそばに呼ばれた人々は、「愛する弟子」を除いて皆女性であった(ヨハ19:25参照)。そこに誕生した「わたしの教会」(マタ16:18)は、まるで女性を基にして誕生したかのようだ。ここに他の男性の弟子たちの姿がないのは、男性である彼らが十字架のそばまで行くには、当時、あまりに大きな危険があったからであるが、それだけではない。イエスは最期の過ぎ越し祭の前に、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハ13:1)。「愛する弟子」は、その一人で、いわば「愛する弟子たち」の代表としてそこにいたのである。信者の男性はすべて、イエスの母と親子の絆で結ばれた「愛する弟子」の召命、すなわち新約の司祭職に向けて呼ばれているからである。 

すべての女性が子を授かるわけではないが、女性が子を授かるように方向付けられていることに間違いはない。同じように、神の国に入るために水と霊から新たに生まれた者たちの内で、すべての男性が新約の司祭職を授かるわけではないが、信者の男性が新約の司祭職を授かるように方向付けられていることに間違いはない。全聖書がそれを裏付けている。ゆえに女性の胎が命を授かることに向けて、常に準備しているように、信者の男性の記憶も、新約の司祭職を授かることに向けて、常に準備されるべきである。その男性が、生涯司祭になることがないと確信していたとしても、必要な養成の段階を踏んでいる必要がある。弟子の一人のマティアのように、いつでも教会の必要に答えられるようになっているためである(使1:26参照)。現代では、そのための学びの機会が提供されさえすれば、受講は容易である。 

それは、女性も共に学ぶということである。女性は男性が新約の司祭職に向けてどのように養成されるかの全貌を捉えている必要がある。人の命はすべて女性から生まれるのであるから、新約の司祭職を授かった男性である司祭も女性から生まれる。この司祭がミサ典礼の中で、ご聖体が生まれるために、パンとぶどう酒がキリストの御体と御血になることを、御父に願うのである。ご聖体は、信者に食べられ、飲まれることによって、女性から生まれるすべての人の命に仕えることができる。イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハ6:35)と言ったとおりである。 

Maria K. M.

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 2026/01/05


229. ヨハネ福音書と新約の司祭職 風は思いのままに吹く

イエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、使徒たちの記憶に置かれた。新約の司祭職は、ミサ典礼の中で、それを継承した男性である司祭の記憶から引き出され、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになる。そして、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」という御父に願う司祭の声によって、祭壇の上にご聖体が誕生する。司祭は、無心の内に、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると喜びで満たされる。そして、司祭が言うイエスの聖体制定の言葉は、生きた御言葉となって会衆に届き、信者たちは、司祭と共に次のイエスの言葉を体感する。 

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハ3:8)。 

私たちは、ミサ典礼の中に働かれる聖霊の姿を見る。「風は思いのままに吹く」とあるように、聖霊は司祭の記憶から思いのままに新約の司祭職を引き出す。「どこから来て、どこへ行くか」という表現は、「過去と未来」を表している。新約の司祭職を引き出された司祭が、自分の内から出るその声を聖霊の声として耳を傾け、集中していると、過去も未来も思わず、ただ、祭壇の前で無心に聖霊と協働するのみである。このように聖霊と協働する司祭の姿を見、司祭の内から出るその声を聖霊の声として聞く会衆は、喜びで満たされる。「霊から生まれた者も皆そのとおりである」とは、この事である。司祭と会衆を包むこの喜びの内にご聖体が生まれる。 

ヨハネ福音書でイエスは、捕らえられる前に、御父に向かって祈った。その中でイエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)と言って、永遠の命が何かを明かした。御父と御子を「知ること」、それは御父と御子と交わることである。永遠の命とは、御父と御子が現存しておられるご聖体を拝領することを示唆しているのである。 

そしてイエスは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ17:21)と祈り、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(17:22~23)と祈られた。これらの祈りはご聖体によって実現する。ご聖体は、拝領する信者たちを完全に一つにする。ゆえに、イエスが信者たちに与えた「あなたがくださった栄光」とは、新約の司祭職である。 

聖霊はご聖体と共におられる。御父と御子は共にご聖体に現存される。そして、イエスが私たちのために、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(ヨハ17:24)と御父に祈られたのは、まさに私たちにミサ典礼を授けていただくためであった。 

ここまで見たように、ヨハネ福音書1~3章には、御父と御子と聖霊である三位一体の神、メシア、洗礼、堅信、司祭職を授ける叙階の秘跡、神の子、ご聖体の秘跡と聖霊の働きについてのイメージが現われていた。4章では、イエスが、サマリアの女との対話を用いて、ご聖体とはどのような方であるのかを現し、証ししている。この対話の間、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」(ヨハ4:8)とある。そこに弟子たちが不在だったのは、男性であった彼らが、ご聖体について語るイエスを見て直観的に理解できず、疑いを持つことを避けるためであった。 

創世記から始まる旧約聖書の長い物語は、神が目指す新約の司祭職を与えるにふさわしくアダムを、すなわち神が選んだ民の男性を養成し、成長させる歴史であった。男性に“完成されたもの”を授け、聖霊と協働させるためである。神があるようにと望まれた人の命を育む胎は、創造の時に完成していた。それを授かった女性には、自身の中に“完成されたもの”を持っているという感覚が本能的にある。実際、女性の胎は、全く他者の命のためにある。このような器官を持たない男性の弟子たちには、直観的に理解できない流れが、イエスとサマリアの女との対話に起こるのである。 

Maria K. M.


 2025/12/29


228. ヨハネ福音書と新約の司祭職 聖霊の花嫁

「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(ヨハ1:33~34)と言った洗礼者ヨハネの言葉の中には、洗礼、堅信、叙階のイメージを通して、やがてイエスが使徒たちに授ける新約の司祭職が現れていた。しかし洗礼者ヨハネは、「お遣わしになった方」の言葉ではなく、「この方こそ神の子である」と証ししている。彼には、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」という言葉を捉えられなかったに違いない。彼は自分の記憶にない言葉を引き出すことができなかったが、彼の直観は、聖霊が降ってとどまったイエスが神の子だと捉えた。 

この事情を、前回考察したマタイ福音書で、イエスが、天の父が現されたことを証しした使徒ペトロの言葉と照らしてみると、もっとはっきりする。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタ16:15)と問うイエスに、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」16:16)と答えた。洗礼者ヨハネも、初めてイエスを見たとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と言って、イエスが「メシア」であることを示唆した。そして、イエスが神の子であると証しした。洗礼者ヨハネはイエスを正しく捉えていた。彼は、「聖霊によって洗礼を授ける人である」という「天から与えられた」言葉が、イエスを証ししたのではなく、イエスが御父のもとから担って来たもの、新約の司祭職であったことが、このとき分からなかったのだ。 

ヨハネ福音書4章の初めには、「――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――」(ヨハ4:2)という但し書きが添えられている。それは、新約の司祭職をもたらした神であるイエスが、人に洗礼を授けることはないということを、明確に告げている。洗礼を授けていたのは、イエスの弟子たちであった。直観がきく漁師であった彼らは、イエスのなさったしるしを間近に見てイエスを信じ、共にいることでイエスを受け入れていたのである。やがてイエスの最期の食卓で、イエスの聖体制定の御言葉と行った動作、そして、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と命じた御言葉とが一つになって、新約の司祭職として、彼らの記憶に置かれることになる。 

こうして、イエスによって使徒たちの記憶の中に置かれた新約の司祭職は、聖霊降臨後、イエスの名によって遣わされた聖霊と一つになって、ミサ典礼の祭壇の上にご聖体を生む。その祭壇は、聖霊と新約の司祭職において婚姻的意味を持つ。そこで使徒たちは、洗礼者ヨハネが、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3:29~30)と言った預言を、祭壇の前で自分のものとして味わうことになる。彼らの記憶から新約の司祭職が引き出され、彼らの記憶は衰え、彼らは無心となって聖霊と協働する人になる。彼らは、無心の内に、自分の内から出るその声を、御言葉に命を吹き入れる聖霊の声として耳を傾け、その声が聞こえると大いに喜び、その喜びで満たされる。 

黙示録に登場する「花嫁」は、まさにこのことを示唆している。「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた」(黙19:7)とある「花嫁」は、イエスが地上にもたらし、ミサ典礼の祭壇上で聖霊と結ばれる新約の司祭職である。なぜなら、黙示録の小羊は、「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である」(5:6)と描写されているように、イエスの名によって遣わされた聖霊だからである。 

続けて、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:8)とあるのは、新約の司祭職の言葉と業に命を吹き入れる聖霊の声に耳を傾け、無心となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の行いを表している。そこで、黙示録には、「それから、天使は私に、『書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ』と言い、また、『これらは、神の真実の言葉である』とも言った」(黙19:9)と書かれている。 

新約聖書の中で、「これらは、神の真実の言葉である」という言葉が該当するのは、イエスがもたらした新約の司祭職を現すために、神が洗礼者ヨハネに授けた、「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と、天の父が、イエスを証しするために、使徒ペトロに現わされた、「あなたはメシア、生ける神の子です」である。これらの言葉は、常にご聖体に向かっている。ご聖体は、まず、神の子の資格を与えられた信者が、神との真の合一体験を持って、神の子となる道を準備するためにおられる。そして、イエスが死んで陰府に降って死者を救ったように、また、イエスが人として生きておられる間は、追い出す以外に何もなされなかった悪霊を救うために、ご聖体は信者に食べられて、再び死ぬことを繰り返されるのである。 

新約の司祭職を授かった男性が御父に願い、「私はある」と言われる神がご聖体としてお生まれになり、信者たちに食べられて死なれる。それは、ただ神があるようにと望み、女性から生まれる人の命に仕えるためである。イエスが、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)と言われたとおりである。

Maria K. M.


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