2026/11/02
272. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神の子となる権能
「神の子となる権能」(ヨハ1:12)は、神を「天の父」と呼ぶことで行使できる権能である。私たち信者にとって、神を「天の父」と呼ぶことは、それ自体に計り知れない可能性が秘められている。そこには神の命じたことに背いた過ちや罪を乗り越えていく力がある。絶望を断って前へ進み、何かを失っても変化を起こし、聖霊と協働して新しい時間を作り出そうとする人がそこに現れる。なぜこのような事が起こるのか、それはイエスが、天の父から授かっていた権威を行使して神の計画全体を完成されたからである。その大前提として、イエスの「私の血による新しい契約」はあった。私たちがキリスト者と呼ばれるのは、この契約、すなわちイエスが聖体制定の場面で、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マタ26:28)と言われた契約の故なのである。
新しい契約はとてもシンプルである。しかし、その上には完成した神の計画の全体が乗っている。これまでも何度も考察してきたことではあるが、その全体像をつかんでいることが、私たちキリスト者が自分を知り、どう生きるかを決定していくために必須であるので、ここで再び確認しておきたい。創世記で、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(創1:26)と言われた神は、「第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された」(2:2~3)とあるその日を、人と共に祝い、人が神を礼拝するために設けられた。それはイエスが、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る」(ヨハ4:23)と言われ、「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(同)と言われたとおりである。
イエスは続けて、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)と言われた。この言葉に、私たちキリスト者は、創世記で神が人に、土の塵で霊の領域を創造し、神が吹き入れた「命の息」と、人の知識が、「命の木」を通してつながり、聖霊と協働した人の体験の記憶を、呼び起こすことができるだろうか。創世記のそこには、「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった」(創2:19)と書かれている。神は、人が聖霊と協働するかどうか見ておられたのである。そのとき神は、創造主として「父と子と聖霊」が三位一体となっている「神」の在り方から(1;1~2:3参照)、父と子から発出する「聖霊」が、人と協働することができるように、「父と子」と「聖霊」という形で一体となっている「神である主」の在り方を取られていた(2:4~25参照)。
創世記の内容をこのように理解すれば、人は、「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型にセットアップされ、神が人の創造の初めに、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(創1:26)と言われたことが実現することが分かる。次に聖霊がこの人と協働することによって、神が「海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(同)と続けた言葉が実現する。イエスを迎えることによって「命の木」を得たイエスの両親は、上記の型が実現して聖霊と協働することが可能となった。しかし聖霊と協働する彼らを前にしたイエスが、「神である主」の在り方を取られていたことには気付かなかった。そこで12歳のイエスをエルサレムの神殿に見つけた時、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と言われたイエスの言葉の意味が分からなかったのである。
イエスは公生活に入り、水で洗礼を受けられたとき聖霊が降り、「父と子と聖霊」が三位一体となっている創造主としての「神」の在り方を公に現された。教会を産みだす準備を始められたのである。それは同時に、聖霊が人に降るということを証しされたことでもあった。後日イエスが、「私と父とは一つである」(ヨハ10:30)と言われたとき、イエスが「神である主」の在り方を取られ、弟子たちが「命の木」を得て聖霊と協働するようになったことが分かる。このように人の感覚では捉えがたい、「神」と「神である主」の在り方を持つイエスは、ご自身の真の姿を観る機会を、ペトロとヤコブとヨハネに与えられた。3人はそこに現れた二人の人をモーセとエリヤだと捉えたが、実は、彼らはイエスに、「父と子と聖霊」の姿を観たのである(マタ17:1~8参照)。後でイエスは、エリヤが既に来ていて、それが洗礼者ヨハネの事だと教えられた(17:10~13参照)。
イエスは、神であり人でもあるご自身の在り方を介して、弟子たちに「神の子」の姿を悟らせようとされたのである。人は、「命の息」+「命の木」+「人間の知識」+「『我々のかたち』に創造された肉体」の型がセットアップされ、聖霊と協働することによって「聖霊と人」の在り方を取るようになった時、それは鏡におぼろに映ったもののようであるが、確かに「神である主」を顔と顔を合わせて見ているのである。信仰と、希望と、愛の源である三位一体の神の内に招き入れられているのである。この世に生き、「聖霊と人」の在り方を取ることで精いっぱいの今は、一部分しか知らなかったとしても、天でミサ典礼に与るその時には、その人が神にはっきり知られているように、神をはっきり知ることになる。
使徒パウロは、これらのことを手紙に書いて、「神の子となる権能」を与えられた人の姿を現した。パウロは自分の弟子たちに、「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう」(一コリ12:31)と書いて、「愛」についての体験を分かち合った(13:1~12参照)。彼は、この世で「聖霊と人」の在り方を取る自分の姿を認識したのである。そして最後に、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(13:13)と書いて結び、続けて「愛を追い求めなさい」(14:1)と励ましている。パウロがこれほどまでに言って伝えた「愛」は、信仰と希望から、すなわち父と子から発出する聖霊である。
Maria K. M.
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