イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/07/13

256. ヨハネ福音書と新約の司祭職 神が置かれた敵意

人は、複数になると、その間に偶発的に情報(「人間の情報」)が行きかう。それを自分と区別せず自分の知識(「人間の知識」)として取り込んでしまうと、そこから善か悪のイメージを受け取り、錯覚が起こる。善のイメージが受け取られた場合、人の肉体は他の動物と同じように単体であるにもかかわらず、誰かと一体になったという錯覚を持ち、大きな快感が生じる。神が「人」から男と女を創造された時、神が連れて来た「女」を見て「男」が言った言葉、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉」(創2:23)にそれを見ることができる。創世記の初めの「人」が、聖霊と共に土を耕したり、動物に名を付けたりしたように、神である主は、人が聖霊と協働して神の似姿を現わすために、人に、無意識の内に聖霊と協働する体験を授けられるからである。 

人の生殖機能に置かれた自発性は、他の動物と同じように種を存続させ、全能の神の永遠性と真理である神の自由とを具現している。動物たちにとって生殖機能に置かれた自発性は、彼らの他者との関りやつながりを、種を存続させるという一点に集中させる。しかし、神のかたちに創造され、聖霊と協働するに相応しく行動するために、権力や富、権威が付与された人の生殖機能に置かれた自発性には、種の存続のみならず、権力や富、権威に向かう強い嗜好がある(本ブログ№252参照)。このような嗜好を帯びた自発性は、その人の「人間の知識」とつながっている。「人間の知識」が、「人間の情報」を取り込んでいる状態でこれらの嗜好が「人間の知識」に伝達されれば、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、同時に錯覚からフィクションへの移行を伴い、行為に至る。創世記の初めの「女」に起こった欲求は、「神のように善悪を知る者となること」(創3:5)であった。 

創世記1章では、創造主を「神」と呼び、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを示した(創1:1~2:3参照)。2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼び、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を示していた(2:4~2:22参照)。一方、創世記3章では、人が聖霊と協働できる状態の時、「神である主」と記載し、人ができない時、「神」と書くことによって、その時の人の状態や状況を明らかにしているように見える。そこで、「人」に対して、初め「神である主」が当てられ(3:9~10参照)、次には「神」が当てられていること(3:11~12参照)、「女」には、「神である主」が当てられていることに注目すると(3:13~15参照)、それを確認することができる。 

「人」は、おそらく、「女」と情報を共有するうちに、それを区別せず、自分の知識として取り込んでしまい、「私は裸なので、怖くなり、身を隠した」(創3:10)という体験の渦中にいた。やがて彼の、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(3:12)という言葉は、神への怖れが、敵意に変わったことを示している。「女」にも起こったように、彼の「人間の知識」に、人の生殖機能に置かれた自発性に付与された、権力や富、権威に向かう強い嗜好が伝達されたのである。この時、「人間の情報」を取り込んでいる状態の彼の「人間の知識」は、神の前にいるに相応しく、その人格を保つことができなかった。 

そこで、「神である主」は「人間の情報(「蛇」)」に言われた。「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3:15)。ここで、「神が置かれた敵意」は、「人間の知識」にあって、「人間の情報」が侵入するのを阻む砦のようである。それは、人の霊の領域を「人間の情報」から守る。しかし人が、その砦を超えて「人間の情報」を取り込み、自分の「人間の知識」としてしまえば、苦しむことになる。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」と「神が置かれた敵意」との間に、矛盾が起こるからである。この戦いが激しくなり、その矛盾によって、自分の錯覚から生み出されたフィクションの世界が打ち破られようとするとき、人は、その造り主に敵意を向けることで、それを阻止しようとする。 

この造り主への敵意はやがて、現実的に解決を見るために、隣人への敵意に変質していく。隣人への敵意は、いわば聖霊に敵意を向けたも同然である。聖霊こそが、第一の隣人だからである。人は、「我々のかたち」を現すために、権力や富、権威を付与された肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。聖霊は人にとって、まさに無二の隣人である。時が満ちると、「神が置かれた敵意」は、イエス・キリストとして誕生した(ルカ2:34~35参照)。律法の専門家が、イエスにどの掟が最も重要かと問うた時、イエスは、次のようにお答えになった。 

「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」(マタ22:37~40)。「あなたの神である主」とは御父と御子である。自分のように愛すことのできる隣人とは、聖霊である。人が、聖霊を無二の隣人として自分のように愛そうとするとき、神の愛がすべての隣人に向かうのである。 

Maria K. M.


 2026/07/06

255. ヨハネ福音書と新約の司祭職 善悪の知識の木

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。イエスのこの言葉は、現代の私たち信者に、御父への完全な信頼を持って歴史を見直すようにと、強く迫ってくる。そこで私は、新しい視点から2年前に書いた「善悪の知識の木」に関わる結論を見直さなければならないことが分かった。 

私は、創世記3章で女が蛇に言った、「私たちは園の木の実を食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」(創3:2~3)という言葉から、その時、初めの二人が、「園の中央にある木の実」、すなわち「命の木」と「善悪の知識の木」から取って食べていなかったと考えた。しかし、創世記全体が、イエスがいつもしていたように、神の計画に関わる、いわばたとえとして、語られているという側面をしっかり捉えてみると、そうではなかった。その時、彼らは、「命の木」や「善悪の知識の木」とつながるという認識を持っていなかったのである。 

人は、「我々のかたち」を現す人の肉体の自発性が、「人間の知識」によって、「御言葉(命の木)」を介して、「我々の姿」を現す人の「神の自発性(命の息)」とつながっているのを常態として創造された。この状態において、人は聖霊と協働することができ、神の似姿を現わすことができる。それは、その人の「人間の知識」がすでに「御言葉(命の木)」とつながっている状態であり、創世記は、それを「食べる」という言葉で表したのである。そこで1章で現れた「神」は、2章では、「神である主」となって、「人」が聖霊と共に、エデンの園を耕し、守りながら、完全に神の似姿を現わすために、聖霊が人に働きかけられるようにされた。聖霊は、そのように働きながら「人」を養成し、「人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)というところまで、「人」を成長させたのである。 

ここで「人」は、あらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に接触しても、それらに発現している情報に惑わされなかった。聖霊と協働していたからである。そこに至るまで情報に惑わされないこと、それこそが、神である主が、「命の木」とともに「善悪の知識の木」を生えさせた理由であった。被造物全体が発する情報は、それを受け取る人の状態や状況によって、同じ情報であっても、善とも悪ともなって捉えられ、「人間の情報」となって、更に拡散していく。それらの情報を、人が「善悪の知識の木」として観ることができれば、人は、自分に近づく情報を区別するようになる。「善悪の知識の木」は、人の霊の領域で、「人間の知識」が、すべての被造物の情報を区別し、それを取り込まないように建てられた警告塔の働きをしているのである。 

ある時イエスは、「善い先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ18:18と尋ねた人に、「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」(18:19)と答えられた。善は常に「神おひとり」である。受け取る人によって善にも悪にもなる「人間の情報」は、「善悪の知識」である。しかし、私たちは、善と悪を識別しようとしてしまう。そして、それ自体が、「人間の情報」を自分の「人間の知識」と区別しないで取り込んでしまった結果であることには、なかなか気づかない。情報は神から出たものではない。神の被造物ではないが、神のみ手の写しであるという特徴を持つすべての被造物から発現するものである。この影響が問題となるのは、唯一神の似姿に創造された人だけである。 

複数の人が関わる中で偶発的に発現し、拡散される「人間の情報」を自分の知識に取り込めば、「人間の知識」は、その情報とそこに紐づけされている様々な関係性に集中し、いわば乗っ取られてしまう。そうして、「御言葉(命の木)」を介して「神の自発性(命の息)」とつながることができなくなる。それは、聖霊と協働して現れる神の似姿を失ってしまうということである。「ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:17)という表現は、そのことを表しているのである。警告塔である「善悪の知識の木」は何もしない。問題は、「人間の知識」が自発性とつながり、行為に至ることにある。それは、私たち人が、自分の方から自分を知って対処するものだ。だからイエスははっきり言われるのである。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47)。 

Maria K. M. 

(お知らせ)インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。  「パトモスの風⑬


 2026/06/29

254. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の情報

神である主は、人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。しかし私たちの「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクションは、仮想現実を造る。その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そうして信者でも、「善悪の知識の木」にすがり、それに憑依し、遂には行為に至る。イエスが、「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)と言われた言葉は、信者の誰にも当てはまるのである。

イエスが、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハ8:12)と言われた言葉から始まった、ファリサイ派の人々とユダヤ人たちとの問答の後(8:13~30参照)、ご自分を信じたユダヤ人たちに次のように言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」(8:31~32)。「私の言葉にとどまる」とは、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、「御言葉(命の木)」を介してつながっている状態のことである。このようにつながって初めて、人は真理を知り、真理は人を自由にする。人が真の自由を感じるのは、神の自由をもたらす聖霊と協働する時である。その時、人は、三位一体の神の関係性に招き入れられ、無心となって神に集中し、神の自由に与るのである。

 しかし私たちの「人間の知識」が、「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって起こる錯覚とフィクション、そこから造りだされる仮想現実は、人を神の恵みに与らせないどころか、最期には、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」という結果に至らせる。「人間の知識」はなぜ「人間の情報」を取り込むのか。前回考察したように、動物も相応の知識を授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。動物たちにとって、他者との関りやつながりは、種を存続させるという一点に集中している。その目的のために同一種の個体間で情報が行きかい、神から相応に授かった知識が発達する。

人においては、前々回考察したように、第一の川ピションにたとえられた自発性を持つ生殖機能の働きには、子孫だけではなく、権力や富、権威を産みだす強い嗜好がある。その嗜好は、愛情、親密さ、快楽を求め、承認欲求や自己実現などの高度な欲求へと発展し、人の霊の領域で、「神の自発性(命の息)」と「御言葉(命の木)」を介してつながっている「人間の知識」に突き付けられるのである。それに応えようとする「人間の知識」は大きな混乱を抱え、他者との関りやつながり、すなわち「人間の情報」を求める。そうこうするうちに「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。 

ヨハネ福音書には、「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:23~25)とある。人の心の中にあるのは、「人間の情報」である。神であるイエスが、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたように、神の似姿に創造され、霊の領域を持つ人は、何が自分の心の中にあるかを知っている必要がある。このような信者は、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる権能を与えられた状態を保持する可能性がある。「自分の心の中」とは、「人間の知識」の中と言うことができる。 

これらの考察の中で、私がいつも「人間の心」と言わず、「人間の知識」と言うのは、今回のように、「イエスご自身は、彼らを信用されなかった」ということの原因が「人間の情報」からくるので、それに対応するのは「人間の知識」だと考えるからである。「人間の情報」を取り込んだ「人間の知識」は、イエスの言葉を聞かない。初めイエスを信じた人々が、イエスが語った真理が自分たちの嗜好とぶつかったために、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなると、イエスを信じなくなった。私たち教会は、次のイエスの言葉を胸に刻まなくてはならない。 

「あなたがたのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私が真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神から出た者は神の言葉を聞く。あなたがたが聞かないのは、神から出た者でないからである」(ヨハ8:46~47 

Maria K. M.


 2026/06/22


253. ヨハネ福音書と新約の司祭職 自発性と知識

前回考察したように、主なる神は人の記憶に「土の塵」(創2:7)で霊の領域を造り、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながるようにされた。神が、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(1:26)と言われた「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が霊であり、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として人は完成した。神は人にこれらを備えただけではなく、神ご自身である三位一体の関係に人を招き入れることを望まれた。そこで創世記1章では、創造主を「神」と呼んで、三位一体の関係によって成された創造のみ業が、唯一の神の御業であることを強調したが、2章では、御父と御子を表すために「神である主」と呼んで、人が三位一体の神の関係に入って、聖霊と協働する様子を強調した。 

創世記の、「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」(創2:9)と書かれた「見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木」は、私たち信者にとっては新約聖書である。これを「食べる」ということは、朗読して聞くということ、「あらゆる木」とあるのは、それがすべての人に対応していることを告げている。誰もが御言葉とつながるぶどうの枝となることができる。黙示録には、「それを取って食べなさい」(黙10:9)と命じた天使の言葉に従った筆者は、「そこで私は、その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると腹には苦かった」(10:10)と書かれている。 

新約聖書は、旧約聖書に比べてはるかに小さいから、ただ読んで聞くには易しいが、人の内奥に到達した生きた御言葉は、真理によって人を清め、人の身には苦い薬のように感じるのである。しかし、そのことが返って信者たち一人一人を聖霊に向かわせ、「そこを耕し、守る」(創2:15)創世記の初めの「人」と同じ養成に与らせることができる。「そこ」とは、初めの「人」と同じく、信者自身の記憶である。黙示録の筆者は、その後、再び預言することを命じられている。彼は、預言の書の世界で天使に同伴されていたが、私たちは創世記の初めの「人」と同じように聖霊と協働する。そうして私たちは福音を宣教するのである。創世記は、初めの「人」が、聖霊と協働する様子を次のように書いている。 

「神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった」(創2:19)。神である主によって、唯一の「人」として創られ、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっていた初めの「人」は、聖霊と協働していたために、生き物に名をつけた時、「それがすべて生き物の名となった」のである。私たち信者も初めの「人」と同じく、「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「御言葉(命の木)」を介してつながっている時、高い親和性をもってイエスの名によって遣わされた聖霊と協働することができる。 

前回考察したように、創世記に、「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創2:10)と書かれたエデンの園は、人の記憶である。記憶の領域は、「しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ14:26)とイエスが言われたように、聖霊が働く場である。人は、聖霊の働きによって流れ出て、園(記憶)を潤す川にたとえられた知識を授かっている。そして、そこから分かれて四つの川となったその第一のもの、「産めよ、増えよ」(創1:28)と命じた神の言葉によって与えられた生殖機能に自発性が置かれている。生殖機能は種の存続のために、個体の情報のすべてを子孫に残す使命があるからである。 

動物にも知識は授けられているが、彼らは、生殖機能に置かれた自発性の働きに身を委ねて生涯を終えるように計画されている。一方、霊の領域で「神の自発性(命の息)」とつながる「人間の知識」は、生殖機能に置かれた肉体の自発性ともつながりながら、聖霊と協働して一連の業を成すのである。神である主が、「人」を男と女に分けられ、「女」を人のところへ連れて来られた時、「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」(創2:23)と言った「男」の言葉には、その様子が現れている。彼らが授かった生殖機能は(2:24参照)、この時正常に機能していた(2:25参照)。この状況で、二人に重大な問題が発生したのは、複数になった人の間に発現した「人間の情報」からであった。 

しかし、「人間の情報」が発現したこと、それ自体は問題ではなかった。問題は、「人間の知識」が「人間の情報」を自分と区別することなく取り込むことによって、錯覚とフィクションが起こることだ。これらは仮想現実を造り、その中に留まる人の「人間の知識」は、「御言葉(命の木)」との接点を見失ってしまい、霊の領域を維持できなくなる。そして遂には、この危険を回避するために、神である主が「命の木」と共に人の記憶の中央に生えさせた「善悪の知識の木」にすがり、拠り所としてしまうのである。イエスは、新約の司祭職を授かった弟子たちに、次のように厳しく諭している。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハ15:6)。 

Maria K. M.


 2026/06/15

252. ヨハネ福音書と新約の司祭職 人間の知識

神は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」(創1:26)と言われた。人が初め独りの人として創造されたのは、神が三位一体で唯一の神だからである。「我々のかたち」とは、唯一の神であること、「我々の姿」とは、神が、父と子と聖霊の三位一体の関係にあること、この二つの神の特徴を備えた者として、人は創造された。前回考察した、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)とイエスが言われた言葉が示すように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そして人は、真理の霊である聖霊と共に、神を礼拝するのである。 

創世記は、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。神である主は、東の方のエデンに園を設け、形づくった人をそこに置かれた」(創2:7~8)と書いた。「エデンの園」は、次のように続けたその描写から、人の記憶の領域を表していると考えられる。「神である主は、見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木を地から生えさせ、園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた。エデンから一つの川が流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。その第一のものの名はピションと言い、金を産出するハビラの全域を巡る川であった。その地の金は良質で、そこではまた、ブドラク香やカーネリアンも産出された・・・第四の川はユーフラテスであった」(2:9~14) 

神が園に生えさせた「木」の描写は、神が人の鼻に吹き込まれた「神の自発性(命の息)」の領域を指し、「川」の描写は、「産めよ、増えよ」と命じた神の言葉から成った生殖機能の働きによる肉体の自発性の領域である。「エデンから一つの川が流れ出て園を潤し」とある川は、これら二つの自発性に挟まれた「人間の知識」を指している。そこから分かれた四つの川の内、第一の川ピションは、自発性をもたらす生殖機能の働きを指す。そこで産出する良質な金は子孫を、また、黄金に匹敵する貴重な交易品だったと考えられているブドラク香は、権力や富を、「出エジプト記」で祭司アロンが身につける胸当てやエフォドを飾る宝石の一つとして登場し、「ヨハネの黙示録」でもエルサレムの城壁の土台石の一つとして描かれているカーネリアンは、権威を表している。自発性をもたらす生殖機能の働きは、「人間の知識」に、これらのイメージを強力に植え付ける。 

そこで、「土の塵」(創2:7)で人の内に霊の領域を形づくった神である主は、ご自身が吹き入れた人相応の「神の自発性(命の息)」と「人間の知識」が、霊の領域で、「命の木」を介してつながるようにしたのである。そこに「命の木」が置かれたのは、言葉によって成る「人間の知識」が、人相応の「神の自発性(命の息)」とつながるために、仲介者として、言葉が必要であったからである。それは御言葉である。「人間の知識」は、御言葉とつながって、一方でつながっている生殖機能の働きによる肉体の自発性の強力なイメージを、正しく受け取ることができる。「人間の知識」は、自ら「命の木」を求め、それを介して「神の自発性(命の息)」とつながることができるのでる。こうして、生殖機能の働きによる肉体の自発性は制御され、人は、神の似姿に創造された人として、聖霊と協働することができる。 

そしてイエスが、ご自身をぶどうの木にたとえて、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:4~5)と言われたのは、人がこのように創られたことをご存じだったからである。 

聖パウロが、テモテに次のように書いている。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のために献げなさい。王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです」(一テモテ2:1~5)。 

「神の自発性(命の息)」が「命の木」を介して「人間の知識」とつながったそのイメージは、まるで、父と子と聖霊のように見える。このように聖霊の位置に「人間の知識」が置かれることで、人は、現実に、聖霊と一つになって行為を成すことができる。そこで、「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためであった」(創2:15)とあるように、人は、「そこを耕し、守る」という具体的な仕事を通して、聖霊と一つになって行為を成すように養成されたのである。こうして、人相応の神の霊を授けられた人が、聖霊と共に働く姿を見て、神である主は、「人」に、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(創2:16~17)と命じられた。人を男と女に分ける計画を進めようとされていたのである。 

Maria K. M.


 2026/06/08


251. ヨハネ福音書と新約の司祭職 二つの自発性

ヨハネ福音書は、新約の司祭職の核心を伝えるために、5章からイエスが「人間の情報」と本格的に対峙する様子を描いていく。そこで、その前に、これまで考察してきた「人間の情報」について振り返ってから、先に行きたいと思う。 

まず、上の絵をよく見ると、イエスの右には、内奥に悪い計画を秘めながらも、イエスに親しみを込めて接吻するイスカリオテのユダがいる。左には、善意に駆られてイエスを守ろうとして、大祭司の僕に剣で切りかかろうとしているペトロがいる。ここで彼が剣を持っていたのは、過越しの食事の後、オリーブ山に祈るために出かけるにあたって、イエスと弟子たちのやり取りから、彼は、剣を持っていくのだと受け取ったからである(ルカ22:35~38参照)。その周りには、上官の言葉に従順し、任務を忠実に実行するよう訓練された兵隊たちが、イエスを取り押さえようとしている。ここには、さまざまな「人間の情報」を、自分の知識として取り込んだ人々が、それぞれの徳や倫理に従ってイエスを取り囲んでいる。その中で御父のみ旨を成し遂げようとするイエスだけが、ただじっと前を見て立っている。 

このイエスと、他の人々との違いは、その自発性にある。全被造物は、存在そのものであり、「私はある」と言われる神が、「あれ」と命じた御言葉によって創造された。それに応えて存在する被造物は、存在のための自発性を授かっている。神が被造物の内に現したこの自発性によって、全被造物は、全能の神である永遠性と真理である神の自由とを具現し、神を讃えるのである。 

被造物の中で、命ある生き物は、種によって存続する自発性で神の「あれ」に応える。さらに動物は、「産めよ、増えよ」(創1:22,28参照)と神が命じた御言葉によって、動物相応の自発性を授けられた。これらの自発性によって動物は種の命を存続させ、各個体は、限りある命の時を生きることで神に賛美を捧げている。このように、これらすべての命ある生き物にとって、子孫を残し、種を存続させることは全生涯をかけた使命である。そこで、「産めよ、増えよ」という御言葉から現れる動物の自発性は、その個体を種の存続に向けて強烈に動かしている。動物の生命維持のプログラムは、生殖機能の働きによって管理されているといっても過言ではないのである。 

生き物は、種の存続を最適化するために、その記憶にそれぞれ分相応の知識を授かっている。自発性は知識とつながることで行為に至る。「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉にその自発性を持つ動物においては、その知識が生殖機能の働きに従属する。それを本能や性欲という言葉で代替するのは、あまりに狭義な捉え方である。生き物はその種を維持するために、複数になると個体ごとの知識を共有することから、「情報」が発現する。その情報にどのように最適化できるかということが、その種にとって存続のための重大要因となると、その生き物相応に戦略がめぐらされるようになる。そこに、自然淘汰が起こるのである。 

生き物が複数になることによって発現する情報は、神の被造物ではなく、また、神がそう命じたものでもない。しかし、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造した方の在り方を映しているのである。生き物は、同種の個体間に発現する情報によって知識が進化することで、世界に適応し存続し続けることが可能になる。神はそれらも含めて、ご自身の創造をご覧になり、それを良しとされた。これらの情報の中で「人間の情報」は、きわめて急速に、そして高度に進化する。神は、神のかたちに創造した人が「我々の姿」(創1:26)を現わすことを前提に、人相応の知識を与えられたからである。それぞれの人の自発性が、子孫のために情報を駆使して最適化に進めば爆発的な力を発揮する。このことを予期しておられた神は、人の内に「我々の姿」を現すとき、初めに人を一人の人として造ったのである。 

イエスが、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)と言われたように、人に「我々の姿」を現わすとは、人に神の霊を授けることである。そこで創世記2章では、三位一体の神の関係をもって森羅万物を創造する方を「神」と呼んでいる1章と異なり、4節から、「神である主」と言い換えている。それは、御父と御子を示している。人に霊を授け、三位一体の神の内に人を招き入れるために、御父と御子が、人と、人に関わる聖霊とに対峙されるという関係性を取られたのである。そして、「神である主」は、「命の息」を人の鼻に吹き入れた。「命の息」は、人が聖霊と協働するために、聖霊の息を通して人相応にその人の内に御父が現した「神の自発性」である。 

このように人は、知識を挟んで二つの自発性を持つようになった。一つは、「産めよ、増えよ」と命じる神の言葉から成る肉体の自発性。そして、霊である神の姿を現すために鼻に吹き込まれた神の自発性である。神は、人相応の知識が神の自発性とスムーズにつながり、人が聖霊と協働して生き、永遠の命という神の現実に与るように、人を養成された。イエスも弟子たちを同じ養成に与らせた。そして、使徒たちの頭となるペトロには特に厳しく、「人間の情報」を自分と区別することを指導してきたのである。上の絵にあるように、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした」(ヨハ18:10)。ルカ福音書には、「イエスは、『もうそれでやめなさい』と言い、その耳に触れて癒やされた」(ルカ22:51)とある。 

ここでイエスは、神の自発性とつながった人の姿を、最後に身をもってペトロに見せたのである。 

Maria K. M.


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 2026/06/01

250. ヨハネ福音書と新約の司祭職 振り返りと第二のしるし

「ヨハネ福音書と新約の司祭職」というテーマで始めた考察は、4章のイエスとサマリアの女との対話の場面になって、新約の司祭職に関わる非常に凝縮された内容が伝えられていたために、それと関連した事柄に多くの時間を費やした。ここに至るまでを振り返ると、ヨハネ福音書は、1章の冒頭から創世記を想起させるような文脈で始めて、天地創造以来、旧い契約の間に神と人の間に起こったことを、読者が思い出すようにさせている。神が人を創造した原点に、天地万物の創造を完成した神が、安息され、祝福して聖別された第七の日を、人々と共に祝うことを望み、人々が神を「霊と真理をもって」(ヨハ4:24)礼拝するようになるまで養成する神の計画があったことにつなげるためである。そこで神は、旧約の祭司職を継ぐ正当な出自を持つ洗礼者ヨハネが、最後の預言者として登場する時を待っていた。 

洗礼者ヨハネは、神の子イエス・キリストが世に公然と現れ、聖霊によって世の光となって、新約の司祭職をもたらすことを預言し続けた。読者は、洗礼者ヨハネの言葉から、聖霊が人に降ること、水の洗礼、聖霊による洗礼について知ることができた。ここで、共観福音書に書かれたように、漁をしていてイエスから召された初めの弟子たちの中には、洗礼者ヨハネの弟子としてすでに養成されていた者たちがいたという意外な事実が示されていた。そして、2章で、御血と御体について示唆されると、イエスは3章で、聖霊の働きについて知らせた。それは、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハ3:15)と言われたイエスの言葉を、ご自身が十字架上で成し遂げられたその状態が、持続可能になるために、聖霊が働かれるからである。 

この世で、神であり人でもあったイエスによって、聖霊の働きが見えるようになったように、神は、聖霊の働きに人の協力を望まれた。イエスは、そのために召された新しい契約の民に授ける新約の司祭職を、御父のもとからたずさえて来られた。格別に信者の男性の記憶に、新約の司祭職が置かれるのは、聖霊がそれを自由に引き出し、女性から生まれるすべての人の命に仕えさせるためである。3章の終わりにある洗礼者ヨハネの最後の預言には、次のように、新約の司祭職を授かった司祭の記憶から新約の司祭職(花嫁)を引き出し迎える聖霊(花婿)の介添え人として、聖霊の口、手足となって聖霊と協働してミサを執り行う司祭の姿が見える。無心となった司祭は、聖霊の声を聞いて大いに喜び、「あの方は必ず栄え、私は衰える」と言った洗礼者ヨハネの言葉を悟っているに違いない。

「人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は必ず栄え、私は衰える」(ヨハ3:27~30)。 

ヨハネ福音書4章は最後に、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるし」(ヨハ4:54)について言及して終わる。このしるしが行われたのは、イエスが、死にかかっていた息子をいやしてくださるように頼んだ王の役人の願いをかなえる場面である(4:43~54参照)。このしるしについては、本ブログ№208で、ヘブライ人への手紙をもとに考察したので、それを参考にしたい。 

ヘブライ人への手紙の筆者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(ヘブ11:1~3)と述べている。その上で、この信仰のゆえに神に認められた旧約の人たちの歴史を簡潔に示し(11:4~38参照)、その結果を次のように結論した。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:39~40) 

王の役人は、イエスが「息子をいやしてくださる」ことを確信していた。だから、イエスが彼に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(ヨハ4:48)と言われたことに取り合わず、すぐに、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」(4:49)と言った。彼は、望んでいる事柄を確信しており、イエスが子供を癒すというまだ見えない事実を確認しようとしたのである。実際、後で彼は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(4:50)と言った時刻と、子供が癒された時刻を確認している(4:51~53参照)。そして、「彼もその家族もこぞって信じた」(4:53)とある。彼らは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰のモデルであった。しかし彼らは、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかった。 

「約束されたもの」とは、ヘブライ人への手紙の筆者が続けて、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」と書いた「更にまさったもの」、新約の司祭職である。ガリラヤのカナの婚宴で、ぶどう酒がなくなったことを告げるイエスの母の願いに応えて、水をぶどう酒に変えたイエスの第一のしるしは、ご聖体を暗示している(2:1~11参照)。そこには、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)と書かれている。このとき弟子たちは、ただイエスに従って来ていた。それは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」旧約の信仰を超えていたのである。 

Maria K. M.


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