イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2026/04/13


243. ヨハネ福音書と新約の司祭職 主の祈りと7つの幸いⅠ

ヨハネの黙示録の訓練は、パウロが旧約聖書や詩編を使って信者のために与えた訓練とは(一コリ14:26参照)、全く異なる効果を引き出す。旧約聖書の世界には、イエスの名が存在しないだけではなく、旧約の民が、神を父と呼ぶ機会を逃したという致命的な歴史がある。神がダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サム下7:14)と約束したにもかかわらず、ソロモンが神から離れたために実現しなかった歴史だ(王上11:1~10参照)。この歴史が彼らの嘆きの原点にある。神と親子の関係に至らなかった彼らは、雅歌を加えた旧約聖書を成立させた。神への言及がほとんどない雅歌には、かえって、神の愛を男女の愛にすり替えるというドラマチックな解釈の変化をもたらすことができる可能性があったからだ。 

雅歌を加えることで、神と親子の関係に至らなかった民であっても、神の愛は変わらず民に注がれ、その「愛」に導かれ、時に迷いながらも、神を慕い求める民が、遂には神と出会うという熱烈な愛のドラマが、ユダヤの民の歴史を再肯定することができたのである。しかし、恋人同士、花婿と花嫁、夫と妻といった婚姻のイメージを、神と民の関係のアナロジーにすると、やがて人が、自分を神と対等な者と錯覚する危険がある。神と民が親子の関係であればありえない発想を抱くようになるのである。ヨハネ福音書には、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである」(ヨハ5:18)と書かれている。しかしそれは、「父は私よりも偉大な方だからである」(14:28)と言われたイエスの思いではない。 

それは、「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」(ヨハ5:17)というイエスの言葉を聞いて、自分を神と対等だと錯覚する者が、神を自分の父であると言うイエスに対して持った、深い嫉妬の念である。彼らには、「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」(5:19)と続けたイエスの言葉は、耳に入らなかったに違いない。神を父と呼ぶイエスへの深い嫉妬の念は、殺意に取って代わられたのである。一方、イエスが成し遂げられた新しい契約に導き入れられた信者は、イエスを受け入れ、その名を信じ、神の子となる資格を与えられたのであるから(1:12参照)、その神を父と呼ぶことは正当な行為である。それはまさしく、神が待ち続けた神と人の真の関係であった。 

イエスは弟子たちに「主の祈り」を教えられた。それはイエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった唯一の祈りである。初めに「天におられる私たちの父よ」と呼びかける「主の祈り」には、7つの祈願がある。それらの祈願が、それを唱える信者自身のものとなるようにと導く7つの幸いが、ヨハネの黙示録にはある(上図「ヨハネの黙示録の預言的構成」参照)。図の左を見ると分かるように、第1の幸い(黙1:3参照)から第2の幸い(14:13参照)の間には、長い距離がある。それは、信者が神に「天におられる私たちの父よ」と呼びかけ、続けて「み名が聖とされますように」と祈る真意を悟るようになるには、それほどの長い訓練を必要とすることを物語っている。 

「み名が聖とされますように」と祈る信者は、自らの記憶が浄化され、イエスと同じ心で神が天の父であるという真理を身に着けられるように、黙示録の訓練に臨むのである。黙示録全22章の訓練の内、半分以上が、「主の祈り」の最初の祈願に充てられている理由がここにある。そこで「み名が聖とされますように」という祈願は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)という黙示録の第1の幸いに導かれる。この幸いに従う訓練者は、黙示録の預言の言葉を朗読し、その声を聞く訓練を、日々水を飲むように、ミサ典礼に向かう日常のルーティンに取り入れることが求められる。 

ミサ典礼に向かう日常のルーティンを生きる信者の前には、さまざまな出来事が現れる。時に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ8:20)と言われたイエスのように、落ち着く場のないほどの目まぐるしい体験をする。黙示録の訓練者の意識は、このような現実の出来事を前にして、黙示録の筆者と同じように、その出来事に観察の眼差しを向けるようになる。そこで続く、「み国が来ますように」という祈願は、「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙14:13)とある黙示録の第2の幸いに導かれる。 

Maria K. M.


 2026/04/06


242. ヨハネ福音書と新約の司祭職 親和性の実装

「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言われたイエスの言葉を信者に体験させることと、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性を育てていくことは、同時に進行する。そのためには、その訓練の書にイエスの名が置かれていることが必須条件である(本ブログ№240参照)。旧約聖書の使命は、福音書の中でイエスによって引用されたことでその役目を終えた。イエスとつながり、イエスによって完成され、福音書の中で新しい御言葉として生きるものとなったのである。ゆえに、その由来や背景は、必要に応じて解説されれば十分であると考える。 

キリスト者は、新しい契約によって、イエスを受け入れ、イエスの名を信じて神の子となる資格を与えられた信者である(ヨハ1:12参照)。その新しい記憶に新しい御言葉を恒常的に注入するためにも、新約聖書は成立した。父と子と聖霊のみ名によって洗礼を受けた信者の記憶は、新しい革袋である。そこに注がれた新約聖書の言葉が、イエスの名によって遣わされた聖霊と見事な親和性を見せるに至るためには、注がれた新約聖書の言葉が認識となって熟成する必要がある。その必要に答えるために授かったのが、ヨハネの黙示録である。イエスの名によって遣わされた聖霊が最適化したこの訓練を、信者たちに公に与えることができるのは、教会の牧者たちである。 

私たち信者は、教会が正典と認めたヨハネの黙示録の言葉に、ただ幼子のように素直に従い、この預言の言葉が感覚から入るに任せるのみである(黙1:3参照)。黙示録を朗読する声は、流れて信者の感覚を清め、知識に留まることなしに、聖霊が定めた記憶の場に入る。そして自律的にイエス・キリストの世界観を信者の無意識の記憶として形成することができる。この世界観が、信者の知識に記憶されていた新約聖書の言葉を受けて認識にする基礎になる。このように、黙示録を、水を飲むように日常的に朗読することによって、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性が養われる。ゆえに一回の量は、真摯にこの訓練に向き合うその人相応でよいのである。 

それは、マタイ福音書でイエスが、「天の国は、ある人が旅に出るとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」(マタ25:14)と言って始められたたとえと似ている。主人は、僕たちにそれぞれの力に応じて自分の財産を預けた。それは信者にとってヨハネの黙示録を朗読する訓練である。ある日は一節しかできなくとも、それを毎日続けていれば、もうけを出すことができる。聖霊が働いておられるからである。しかし、ヨハネの黙示録の効力を理解せず、地の中に隠しておくならば、「悪い臆病な僕だ」(25:26)と言われ、役に立たない僕として外の暗闇に追い出されてしまう。ここで「主人」は、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタ25:29)と諭している。「持っているもの」とは、神の言葉の認識である。 

そこでヨハネの黙示録には、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と書かれている。ここで、「時が迫っているからである」とあるのは、黙示録の最後の章に、「見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである」(22:7)と書かれた言葉を先に受けている。御言葉は、「この書の預言の言葉を守る者」と認識を共有するために、待ち構えておられるのである。 

黙示録の「幸い」は7つあって、黙示録全体を前に進める大きな推進力になっている。上に示した改訂版「ヨハネの黙示録の預言的構成」の図(2026/4月版)は、黙示録の「7つの幸い」について、新しい見解を与えている。「7つの幸い」に、本ブログでこれまで考察してきたような働きと、推進力があるのは、これらの幸いが、マタイ福音書にある山上の説教の中央に置かれた、「主の祈り」を受けているからである。イエスが、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」(マタ6:8~9)と言って教えてくださった主の祈りは、7つの願いから成り、神を天の父と呼ぶことから始まる。 

これを受けて、黙示録の初めは、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれている。ヨハネの黙示録の訓練は、確かに神である天の父のみ旨なのである。次回は、主の祈りに答える7つの幸いについて考察を深めたい。 

Maria K. M.


(お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

 ➡ 「パトモスの風⑩

 



 2026/03/30


241. ヨハネ福音書と新約の司祭職 パトモスの2羽の鷲

前々回考察したように、自分の使命が、イエスから「良い羊飼い」の杖を委ねられたペトロを、ローマの共同体に迎えることにあると悟っていたパウロは、その時宜が到来すると、「トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください」(二テモ4:13)と、テモテに手紙を書いた。それがペトロを指すことを知っていたテモテは、ペトロと共にマルコを伴ってローマに向かった。パウロのところにはルカがいた。ペトロとパウロが自分たちの死を十分に認識していたと思われるこの時期、彼らは集って共にイエスのなさったことを残す具体的な案を考えたに違いない。そこでパウロがエルサレムで柱の一人と目されていたヨハネを忘れるはずはなかった(ガラ2:9参照)。ヨハネには福音宣教を支える霊的な養成が期待されていたのである。 

同様にペトロも、復活したイエスにヨハネの未来について尋ねたとき、「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハ21:22)とお答えになった声を、忘れることはなかった。それは、イエスがご自分の牧者の杖をペトロに委ね(21:15~17参照)、「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(21:18)と言った直後であった。ヨハネ福音記者は、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(21:19)と解説しているが、その裏には、パウロに「帯を締められ」、ローマに連れて行かれるという予告が隠されていた。 

このように、ヨハネ福音書には、新約聖書の他の書との関わりに、読者が気付くきっかけをつくる含みがある。そこで「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか」とペトロに言われたイエスの言葉を見ると、それに続けて、「それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」(ヨハ21:23)と、ここでも含みのある解説をしている。ヨハネ福音書の終盤に置かれたこの含みは、イエスとの再会を示唆していたのである。それは、パトモスと呼ばれる島で、ヨハネが黙示録を書くことになるからであった(黙1:9参照)。 

このことは、ヨハネの黙示録の冒頭に、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(黙1:1)と書かれことを見ても分かる。続けて、「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした」(1:2)と、第三者の目で書いている。それは、同じようにヨハネ福音書の、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハ21:24)と、第三者の証言として書かれた文脈と共鳴していることからも、そこに含みがあったことを見ることができる。 

さらに、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(黙1:3)と続けた黙示録の言葉は、ヨハネ福音書の最後の句、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハ21:25)を受けている。聖霊は、「イエスのなさったこと」を、書物ではなく、体験によって信者たちの記憶に残すことにした。黙示録に書かれた言葉を朗読する声は、それを聞いた人の記憶にその言葉を保持させる。それは、信者の感覚に「イエス・キリストの黙示」を注入し、ディープラーニングのような学習の仕方で、イエス・キリストの世界観が信者の記憶の中で自律的に形成されるようにする訓練となる。 

信者は、この訓練を自発的に日々繰り返し体験することによって、記憶にある情報伝達のパターンが、神に向かって再構成される。特定の回路がつながりやすくなるのだ。それは、さまざまな折に信者の記憶に入っている御言葉に向かい、この回路が頻繁に認識され、強化されることにより、ものの見方が変わって、福音書の中で弟子たちがイエスと他の人々と区別していたように、神と人間の情報との区別が起こるようになる。ヨハネの黙示の訓練を続ける最大の効果は、どの信者にもこの区別が与えられるようになるということである。それは、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性をもたらし、教会に大きな益をもたらす。 

イエスが約束した聖霊は、「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハ14:26)として、特別に使命を持って降臨された。その使命は、「イエス」の名によって遣わされた聖霊が、私たち「キリスト」者と協働し、二つの名が一つとなって、イエス・キリストの御業が再び世に現れることを実現する使命である。その中心には、これまで考察してきたように、イエスがもたらされた新約の司祭職と牧者に委ねられた王職、使徒職と聖霊と共働するための預言職がある。そのために書かれたヨハネの福音書と黙示録は、分かつことのできない、パトモスの2羽の鷲であった。 

Maria K. M.


 2026/03/23


240. ヨハネ福音書と新約の司祭職 痛手

使徒パウロは、ダマスコへの途上で天からの光の中で地に倒れ、イエスの声を聞いた。その後パウロは、おもだった使徒たちからイエスについて真摯に聞き取った体験によって、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装することができた。しかし、神から特別な目的を持って選ばれた彼の体験を、そのまますべての信者たちに応用することは不可能である。パウロは、異邦人の信徒たちに宛てた手紙で、「兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」(一コリ14:26)という勧めを書き送っている。 

パウロは、自分を育んだユダヤの祈りの仕方をベースに、イエス・キリストについての教えを盛り込んで訓練することで、共同体を内側から変容させる霊的環境を生み出す手段とすることができると考えていたかもしれない。詩編は、救い主を待ち望みながらも決して見ることのなかった者たちの預言的な言葉を編纂したものであったが、その構成は、人の感性を神に向ける方向性を持っている。しかしパウロは、疑問も感じていたに違いない。ルカが福音書で書いたように、イエスは、「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(ルカ5:36)と言われたからだ。旧約の預言とイエスが実現されたこととの間には、それほどの大きなギャップがある。 

イエスは続けて、「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」(ルカ5:37~38)と言われた。革袋とは、ミサ典礼や教会の祈りの場に拠り所を見出す信者たちの記憶である。ミサ典礼や教会の祈りでは、先ず初めに旧約聖書が朗読され、詩編が唱和される。その後に使徒書や福音書が朗読されるのである。そうするとそこで読まれる新約聖書の言葉は、旧約聖書や詩編の朗読に共感した信者の記憶に後から入れられることになる。いわば古い革袋に入れられた新しいぶどう酒である。そこには大きなリスクがあるとイエスは警告する。私たち教会は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言われたイエスの言葉を真摯に受け取る必要がある。 

更に続けてイエスは、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(ルカ5:39)と言われた。ここには未来を思うイエスの残念な気持ちを感じる。ヨハネ福音書の別の場面でイエスは、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない」(ヨハ5:39~40)と言われた。ここには、イエスについて証しする旧約聖書の魅力に引かれて、永遠の命について証しする新約聖書のイエスのもとに来ようとしない信者たちの未来の姿も予見されている。旧約聖書の朗読や詩編の唱和に努めているうちに、そこにイエスの名がないことから、かえってそれらの中にイエスがおられると錯覚し、そこに留まってしまうのである。 

「命を得るために私のもとに来ようとしない」と言われた後、続けてイエスは、「私は、人からの栄光は受けない。しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている」(ヨハ5:41~42)と言われている。錯覚の中に留まっていれば、「神への愛」は起こりようがない。それは教会にとって致命的な痛手である。「神への愛」は、常に信者を、命を得るためにイエスのもとに行こうと駆り立てる。イエスが、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:17)と言われた聖霊が、私たち信者の自発性を喚起するからである。 

教会にとって致命的な痛手のゆえに、コリントの共同体に見られた苦しみは、21世紀の今も世界中で続いている。派閥争い、みだらな所業による共同体の崩壊の危機、告訴、売春、異言や預言の問題、無秩序な礼拝。そして、今も戦争は絶えることなく続き、戦火は世界を巻き込んで再び燃え上がろうとしている。パウロの働きによってローマに集ったペトロとパウロ、ルカ、マルコ、そしてテモテは、どうしたら信者の内に、イエスの名によって遣わされた聖霊との親和性を実装する自発性を育てていくことができるか、その養成を考えていただろう。そのときパトモスと呼ばれる島で、パウロに使徒の柱の一人と目されたヨハネは、そのテーマに取り組んでいたのである。 

Maria K. M.

 


 2026/03/16


239. ヨハネ福音書と新約の司祭職 親和性

前回考察したように、パウロは、ローマのキリスト者共同体にペトロを迎え、その使命を果たした。こうしてローマに都を移した教会は、イエスから使徒として養成され、聖体制定から成る新約の司祭職を授かり、王権、すなわち「善き羊飼いの杖」を委ねられたペトロを頭とし、その職務を継承し続けることによって、「その支配は終わることがない」(ルカ1:33)という、天使がイエスの母マリアに告げた言葉を、実現するのである。 

ここに来るまで、聖霊降臨によって設立された教会は、様々な出来事に翻弄されながらも、前進してきた。その始まりは、マティアが加わって12人になった使徒たちが、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使6:4)と言って、現在の司教職に向かった時であった。発端は、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たことにあった。そこには、「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」(6:1)という問題があったので、教会は、まず「日々の分配のこと」を、7人の調停役を選ぶことで解決した。聖霊降臨後の教会は、ペトロとヨハネの宣教によって、「男の数が五千人ほどになった」(4:4)とあるように、急成長していた。信者たちの養成が急務であった。 

イエスが昇天された後、聖霊が降臨するのを待つ120人ほどの信者たちは(使1:14~15参照)、常に聖霊がとどまっておられたイエスを見て、直接御言葉を聞いた弟子たちである。イエスが、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハ14:17)と言われたように、イエスによってすでに聖霊を体験し、その記憶を持つ信者たちであった。ゆえに彼らは、イエスの名によって来られる聖霊と高い親和性を持っていた(14:26参照)。聖霊が降臨すると、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」(使2:3~4)とある。ここに、使徒職と預言職が土台になって人間性が再構成された男女の信者たちがいた。 

イエスに養成されたこれらの信者たちは、聖霊降臨後に加わった三千人ほどの人々の中にいて、大きな求心力を発揮した。しかし、イエスの養成を体験として口頭で伝えることしかできないままに、信者が増加してくると、聖霊との高い親和性を持っていた共同体のクオリティを維持することは、難しいものになっていった。このような中で、「仲間のやもめたちが軽んじられていた」という問題は起こった。この出来事は、「日々の分配のこと」によって表出したとしても、原因は、そこに集っていたすべての信者個々人の抱える様々な問題、往々にして本人の自覚に至らない記憶の深奥に隠された願いや、自己実現や自己満足に関わる日常的な不満などが複雑に絡み合って作用するのである。それは、ヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の対話によく現れている(ヨハ4:7~26参照)。 

イエスは、サマリアの女の記憶のすべてをつぶさに知る神だけができる仕方で、彼女の内奥に隠された願いと、日常的に抱える重荷について明らかにされた。しかし、彼女にとって初めての体験であったために、御言葉のすべてを受け取ることができなかった。その後、もし彼女が、機会を捉えてイエスに従って行ったとすれば、やがて降臨した聖霊と高い親和性を発揮して、聖霊に満たされる体験をしたに違いない。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とイエスが言われた神の現実は、意識的にだけでなく、イエスを見て、その声を聞くことによって、無意識の内にも受け取られ、その人に吸収され、信仰の記憶の土台を固めていくからである。 

聖霊が降臨すると、全く新しい現実が訪れた。聖霊との高い親和性を持っていた共同体の人々が、イエスについて語り始めれば、それが福音宣教となった。聖霊との親和性は、聖霊が授けるすべての賜物、格別に預言の賜物との親和性であり、信者が生きるすべての時間の中で、聖霊の声に気付くための重大な性質である。教会には、次第にイエスの教えの伝達や信者の養成のための書の形が作られていく。しかし、イエスを見て、その声を聞いてきた信者たちが持っていた、聖霊との高い親和性をもたらすような育成を発案するまでにはいかなかった。無意識や暗黙知といったアイディアの乏しい当時の感覚では、そこに重大な必要があることに気付き、どうすれば信者たちが、聖霊との高い親和性を実装できるのかを考えることは、不可能であった。しかし、誰の脳裏にも思い浮かばなかったわけではなかったのである。 

Maria K. M.


お知らせ)

インターネットマガジン「カトリック・あい」に、本ブログ執筆者の投稿が掲載されました。

 ➡ 「パトモスの風



 2026/03/09

238. ヨハネ福音書と新約の司祭職 飛翔

聖霊降臨後、新たにマティアが加わった12人は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人」(使6:3)選び、按手によって公式の役務につけた。この出来事は重大な決定であった。やがて、教会に対して大迫害が起こり、その運命の中心にパウロの人生を巻き込むことになる。回心とともに始まったパウロの働きは、使徒職と、降臨した聖霊によって授けられる預言の賜物が(ヨハ16:13参照)、信者が聖霊と共に働くための土台であることを教えてくれる。使徒言行録では、パウロもバルナバも使徒とされており(使14:14参照)、またパウロは、相応しい弟子たちを使徒と呼んだ(ロマ16:7、ガラ1:19、一テサ2:7参照)。 

パウロは、特にペトロから、そしてヤコブ、ヨハネ、バルナバからも、イエスについての多くの体験を聞き取った。そこから彼は、イエスがまず12人を選び、「使徒」と呼んで養成し、彼らにすべてを伝えた後に(ヨハ15:15参照)、聖体制定と共に彼らに新約の司祭職を授け(ルカ22:14~20参照)、王権を委ねた真意を悟ったに違いない(22:28~30参照)。その王権は、天使がイエスの母に「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」(1:32)と告げた、ダビデの王座にもとづくものであった。ダビデは、初め羊飼いだった。イエスは、「私は良い羊飼いである」(ヨハ10:11)と言われ、その羊飼いがどのように働くかをファリサイ派の人々の前で説かれた(10:1~18参照)。弟子たちが体験したこの出来事は、イエスが復活された後、次のような出来事につながった。 

ヨハネ福音書に、復活されたイエスは「シモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『私の小羊を飼いなさい』と言われた」(ヨハ21:15)とある。イエスはこの時、「この人たち以上に」と言うことで、ペトロに弟子たちの頭となる意志を確認したのだ。その後、続けて2回、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と問い、「私の羊の世話をしなさい」(21:16)、「私の羊を飼いなさい」(21:17)と命じた。「私は良い羊飼いである」と言われたイエスは、いわばその杖を、ペトロに委ねたのだ。これら3つの命令は、その権威が「羊の囲い」(10:1)の中、すなわち教会の内側にあることを示している。それは新約の司祭職に関わることなのである。 

続けてイエスはペトロに、彼がどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示そうとして、次のように言われた。「よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」(ヨハ21:18)。パウロは、これらの体験を「柱と目されるおもだった人たち」(ガラ2:9)の一人、ヨハネから聞き取り、また、イエスがエルサレムの崩壊について語ったこともよく聞いていたに違いない。キリスト者のために新しい都を準備しなければならない。そして、「良い羊飼い」の杖を守り、イエスの養成を継承するのである。それはペトロの手に、彼の記憶の中にあった。 

使徒言行録には、パウロがエフェソで、「マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこに行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」(使19:21)とある。パウロは、ローマをキリスト者の新しい都とすることを神が望んでいると直感していた。聖霊はパウロの決心と共にいた。「主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」(23:11)。神のみ手は彼をローマに運んだ。 

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」と言われた主の言葉を悟っていた。自分の使命が、「良い羊飼い」の杖を委ねられたペトロを、ローマの共同体に迎えることにあると知っていたのである。彼はペトロをローマに呼び寄せる手はずを整えていた。機が熟したことを悟ったパウロは、テモテに手紙を書いた。「ぜひ、急いで私のところに来てください・・ルカだけが私のところにいます。マルコを連れて、一緒に来てください。彼は、私の務めのために役に立つからです・・あなたが来るときには、トロアスのカルポのところに私が置いてきた外套を持って来てください。また書物、とりわけ羊皮紙のものを持って来てください」(二テモ4:9~13)。 

「幼い日から聖書に親しんできた」(二テモ3:15)テモテは良く分かっていた。「外套」は、エリヤがエリシャに投げたもの、すなわち「継承」を意味する。「書物、とりわけ羊皮紙のもの」とはペトロの記憶にある「良い羊飼い」の杖とイエスの養成、すなわち司教職である。ペトロをローマに迎える時宜が来たのだ。テモテはペトロと共にマルコを伴っていく。パウロのところにはルカがいる。すべてがそろった。パウロが、「今や、義の冠が私を待っているばかりです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう」(二テモ4:8)と書いた通り、ローマの共同体にペトロを迎えること、それが闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したパウロの義の冠なのである。 

Maria K. M.


人気の投稿