2023/03/27
84. 私は道であり真理であり命である
聖霊とキリスト者のためにすべてを完全に準備していったイエスが、最期の食卓で告げたように、聖霊は降って、キリスト者がイエスを見なくなることは義であること、つまり正しいことだということを明らかにした(本ブログ№83参照)。これは神の現実であり、キリストが「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」(マタイ6:33)と言った言葉が、それを保証している。
神の国はミサの中に出現している。イエス・キリストを見なくなるという神の義は、ご聖体に向かって信者を転回させ、いやがうえにもご聖体に注目させる。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言ったイエスの道が、イエスの最期の食卓を、“今”に引き寄せ、再び「私の記念」(ルカ22:19)を現実にするからだ。この道を初めて通ったのは、過越の食事の準備のために、イエスから使いに出されたペトロとヨハネであった。彼らが都に入り、水がめを運んでいる男(聖霊)と家の主人(御父)に出会った道が、信者の前に現れるのである(ルカ22:7~20参照)。信者は彼らと同じこの道を通って、ミサに与かり、真理であるみ言葉を聞く。そして、命であるご聖体を見て「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と宣言する。この声を聞き、司祭から自身の手でご聖体を受け取って触れ、匂いを嗅ぎ、拝領する。こうして人間の六感のすべてを使ってはじめて、復活した人であるキリストの「姿」、キリストの聖なる人性を、全身全霊で受け取ることになる。これが神と合一したという体験である。この神の現実の記憶は、聖霊が、望む時宜において自由に信者から引き出し、信者は、自身の中にある神の恩寵を認識にする。そして再びミサに向かう具体的なイエスの道の上に、日常のルーティンを形づくるうちに、日常で出会うすべてをミサへの途上に起こる出来事として受け取るようになっていく。それは、信者の生涯の上に具現化した、天の父のもとに行くイエス・キリストの道を世に示すものとなる。
さらに、ご聖体が信者に食べられ、死んで消化されてしまう現実は、キリストの体が墓から消えていた事実と符合する。十字架上でイエスは、すべての人をご自分に引き寄せた(ヨハネ12:32参照)。ことにイエスが現れる時代までこの世に残った悪霊やさ迷う霊たちを引き寄せ、ご自分の死とともに連れて行った(本ブログ№49参照)。そして、復活したのだ。この出来事が今も信者がご聖体を拝領するたびに引き起こされている。ゆえにこれらの霊たちにとって、信者のミサへ向かう道が「王たちの道」となる(本ブログ№55,№56参照)。
教会は、その長い歴史を通じて、この明確な神の現実と交わってきた。しかし同時に、その歴史の初めから神秘主義に身を任せ、その享楽に耽ってきたのである。
Maria K. M.