イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/04/29


141. 神の置いた敵意と偶発的情報

前回述べたように、私は「人間の仕業」という言葉に集中し、その始点である創世記と、新約聖書を黙想した。やがて、それは、聖霊の霊性と養成、ヨハネの黙示の訓練についての黙想へと発展した。そして、ヨハネの黙示に書いてあるままにその訓練を毎日するうちに、ヨハネの黙示が預言的構成を持っていることを知った。 

この黙想の流れの中で、創世記の「蛇」を「情報」と捉えた。この発想は、創世記の「女」が神に向かって「蛇がだましたのです」(創世記3:13)と言った表現とも合致する。「女」は、「男」と関わっているうちに、二人の間に交わされた情報を、自分のものとして取り込んでしまった。そこで、彼女の記憶から意識の中を這い回るように現れるこの情報が、「蛇」をイメージさせたのである。 

「蛇」が情報であることは、神が「蛇」に「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる」(創世記3:14)と言った言葉によっても分かる。「このようなことをしたお前」、すなわち「女」に語り掛けた「言葉」である「蛇」は情報である。「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で」とは、同一種の生き物の間で偶発的に情報が発生することについて言及したと考えられる。本ブログでは、それを「偶発的情報」と呼んできた。その中で「人の偶発的情報」は群を抜いて進化し、「最も呪われる」ものとなっていた。 

神は、「蛇」に対して、「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)という新しい計画を打ち出した。ここで神がはっきり言っているように、この「神が置いた敵意」は生殖によって遺伝する。そこに「女の子孫」として神の子を世に遣わす計画が秘められていたと知るには、イエス・キリストの到来を待たねばならなかった。シメオンが「反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ2:34)と言ったとおり、神の子イエスは、まさに「神が置いた敵意」そのものとして世に遣わされたのである。 

この理解は、イエスとともに十字架に付けられた犯罪人の一人に起こったように(ルカ23:39~43参照)、すべての人が自らの内にある「神が置いた敵意」に目覚め、イエスに向き直り救われる必要があることを示している。その救いはキリストのおかげですべての人に差し出されている。 

黙示録に「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)と書いてあるように、悪魔とサタンは「蛇」である。ゆえにそれらは、「人の偶発的情報」であると私は考えている。そうであれば、私たちは、イエスが荒れ野で模範を示されたように(マタイ4-1-11、ルカ4-1-13参照)、理性的に対処することができるのである。

つづく

Maria K. M.





 2024/04/22

書道家/書家 山崎 絹 作

140. 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです

前回書いたような事情で私が洗礼を受けたのは21歳のときである。やがて他の信者との分かち合いの場で、さまざまな体験を聞くようになると、神は日々人々を訪れ、その御手で運ばれることを知った。私は、夜イエスのもとを訪ねたニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と言った御言葉を思い出した。 

全能の神の仕方は、神の霊に素直に導かれる者の記憶に、完全で真の親のイメージを深く刻み込んでいく。パウロが、「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」(ローマ8:14)と言えたのは、「この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:16)という実感に基づいている。彼も神の御手の運びを体感していたのだ。神を父と呼ぶことを教えたイエス・キリストの御言葉と御業が、その名によって来られた聖霊によって、キリスト者となった私たちの知識のすべてになろうと絶えず働きかけるのである。 

このような仕方で、神と出会い、教会に導かれた私は、聖書と教会の教えやその歴史をいろいろ学ぶうちに、ヨーロッパの歴史が育み、守ってきたキリスト教文化を通して表現される教えに直面するとき、その難しさを感じるようになった。ギリシア哲学もゲルマン民族の大移動も、イスラム文化との出会いも全くない、ゆえに教父たちの教えや伝統に接する機会もない文化の中で、自分が大人になったことを痛感した。 

私にとって教会の教えとは、1997年にラテン語規範版として公布されたものの日本語訳である「カトリック教会のカテキズム」と、2003年に発行された日本版要理書「カトリック教会の教え」である。その中で、もとは天使であったとされる悪魔、サタンに関する記述については、悩ましい問題だった。解説に矛盾を感じてどうしても自分のものにならず苦しんだ。 

そんなある日、私は、1981年に訪日した聖ヨハネ・パウロ二世教皇の、広島でのスピーチを思い出した。その冒頭には、「戦争は人間のしわざです」という有名な言葉がある。わたしの注意は、「人間のしわざ」という部分に集中していった。

つづく

Maria K. M.


2024/04/15

139. 神の家

このごろ、このブログを見ていてくださる数人のヨーロッパの方々から、悪霊や悪魔に関する私の考えが、教会の教えに沿っていないとの親切なご注意を頂いた。そこで、これらについて少し時間を取って考えてみたい。私も含め、日本人のキリスト者のほとんどは、成人洗礼である。その体験を聞くと、初めに神との出会いがあって洗礼に至っていることがよくある。私の場合、それは6歳のときに遡る。 

ある日、私はいつも遊んでいた公園の隅に、当時の自分にとっては、とても険しい崖がそそり立っているのが気になりだした。私は、ちょうど近くを通った大人に、この崖の上には何があるのかと尋ねた。その人は、「神の家がある」と言って去っていった。それで私はそれがどうしても見たくなって、友人たちが止めるのも聞かずに一心不乱に崖を登り始めた。 

東京カテドラル聖マリア大聖堂

頂上に着くと今度は目の前に高いフェンスが現れた。その向こうは木々や雑草に覆われていて先が見えない。私はそのフェンスも登り始めた。しかし、途中で、ふと、もし犬がいたらどうしようという考えが起こった。もっと小さいころ、かまれた経験から犬が苦手だったのだ。そう思いだすと、向こうの茂みから犬の吠える声が聞こえてくる気がしてきた。 

私はしぶしぶフェンスを降りて、振り返り、自分の登った崖の上から下を見た。すると、心配そうに見上げる二人の友達の顔が小さく丸く見え、足がすくんでしまって降りられない。そのとき、「登ったように降りて!」という声が聞こえた気がして、私はそれに従って、後ろ向きになってゆっくり降りて無事地面に足がついた。

後日、別の子どもがその崖に登って落ちてけがをしたものだから、この崖登りは学校から厳しく禁止された。私は、犬が怖くてフェンスを降りたことをいつまでも後悔した。ずいぶん後になって、そのフェンスから先はホテルの敷地で、その正面には、東京カテドラル聖マリア大聖堂が建っていることを知った。

聖アンセルモ教会
その頃日本では、クリスマスに教会に行くことが流行っていた。その年のクリスマス・イヴに、母も友人に誘われて教会に行くことになった。私も連れていかれた。それは東京の目黒にある聖アンセルモ教会であった。私は教会に入った途端、口では言い難い強い気持ちが起こって、ミサが終わると母の友人に、私もあなたみたいになるにはどうしたらいいのかと尋ねた。彼女は、洗礼を受けたらなれますよと喜んで答えた。その瞬間、「私は洗礼を受けます」とはっきり言った自分の声を今も思い出すことができる。母が振り返って、「とんでもない!絶対にダメです」と言った厳しい声と共に。その当時、母は、私にとって、神のような存在だった。私は黙って下を向いてもう何も言わなかった。私は7歳になっていた。

下井草教会

やがて10歳になった時、私の家族は、東京の郊外に引っ越した。仲良しの友達とお別れして、新しい学校へ初めて行った日は雨が降っていて、私は先を行く母の後をのろのろと付いて行った。そして、大きな通りを渡る歩道橋に上った時、私は驚きで立ちすくんでしまった。目の前に見えた学校の校舎のすぐ後ろに、十字架がついた高い教会の塔が見えたのだ。サレジオ会の下井草教会だった。私は大人になって、家族の誰にも相談せずにこの教会で洗礼を受けた。私にとって神とはこのような方であった。

つづく

Maria K. M.


 2024/04/08


138. 見ないで信じる者

次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンを生きる信者たちのたどる道は、悪霊たちに「王たちの道」(黙示録16:12)と映る。このため、「全能者である神の大いなる日の戦い」(16:14)に向かう悪霊たちを引き寄せる(本ブログ№56参照)。 

一方20章では、ミサ典礼が終わり、世の只中に出た信者たちは、「人の偶発的情報」を区別することなく、自分の知識として取り込み、サタン化した人々と遭遇する(20:7参照)。この人々はこのまま死ねば悪霊になる人たちである。神のみ前では、死んだまま生き返らないで悪霊になったケースも、生きていて悪霊候補者になったケースも同じに見える。「人の偶発的情報」を取り込んだ「人相応の知識と記憶」が、「命の息」に張り付いている状況に変わりがないからだ。 

ゆえにキリスト者は、彼らが救われるために、次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンを生きて、彼らをミサ典礼に誘導する「王たちの道」を示す責任がある。私たち信者は、「キリストの名」を背負っているからだ(本ブログ№136参照)。 

この責任には幸いが伴う。ルカ福音書で、エマオに向かう道で復活したイエスと出会った弟子たちの体験について、「イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24:30~31)と書いている。ここで、「その姿は見えなくなった」と書かれたことは、暗示的である。 

新約聖書を手にしている私たちは、ミサ典礼の中で司祭によって裂かれたパンが、「その姿は見えなくなった」キリストの体であるとわかる。そして、信者がこのキリストの体を前にして、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16、ヨハネ11: 27参照)と告白することは、復活したイエスに向かってする信仰告白になる。ここで信者は、イエスがトマスに言った、「見ないで信じる人」(ヨハネ20:29)の幸いを得る。 

さらに、私たちが、イエスが最後の食卓で「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と命じた言葉に従い、配られたご聖体を見て、自身の手で触れて、食べるとき、私たちは、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい」(ヨハネ20:27)とイエスがトマスに命じた言葉の意図するところを、全身で受け取ることになる。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と諭したイエスの言葉に応えていくのである。

Maria K. M

ヨハネの黙示の預言的構成



 2024/04/01


137. 天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした

「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした」(黙示録20:9)。

神が悪霊の救いに熱情を傾けるのは、それがご自身の「命の息」を分け与えた「人」だったからだ。私たちも、その神の熱情を乞い求めねばならない。私たちは、自分が死んでどうなるかを知らないからである。

黙示録では、第5の「幸い」が登場した後、悪霊がどのように救われるかが描写される(黙示録20:7~15参照)。この描写は、黙示録16章の描写と深く関わっている。そこで、「ヨハネの黙示の預言的構成」の図を見ると(下記参照)、第4の預言「司祭職とご聖体の秘儀が荒れ野と天に隠された教会がたどる運命の預言(12~16章)」から出た矢印は、第5の預言「教会の堕落の預言(17~18章)」をくぐって第6の預言「ミサ典礼の完成の預言(19~20)章」へ到達している。未だ第5の預言の只中で生きている私たちには、この状況は見えにくい。

しかし、第1の預言「教会とともにいるイエス・キリストの預言(1章)」から出た矢印が、第2の預言「教会共同体が抱えた問題と解決の預言(2~3章)」をくぐって、第3の預言「新約聖書成立の預言(4~11章)」へ到達したところをみると、新約聖書が成立したことによって第2の預言が実証されていることが実感できるはずだ。21世紀もほぼ四半世紀を過ぎた現在、教会が催している世界的な集い(シノドス)は、これら初めの3つの預言が現実化されたことの証しになっている。

ゆえに、振り返って、第4の預言から悟りを得て、第6の預言「ミサ典礼の完成の預言」に向かう必要がある。図を見ると分かるが、第5の預言の中にいる私たちには「幸い」が同伴しない。ここに留まる教会は「幸い」とは無縁である。まさに21世紀の今も、教会は、キリスト者同士が殺しあう戦争の歴史の只中にいるのである。

しかし、「幸い」に代わって「小羊」が同伴する。私たち信者が、なんとかしてキリストの名を背負って進むようになるためである(本ブログ№136参照)。次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンに入り、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈る自身の声を実現するのだ。イエスの名によって来た聖霊と協働することによって実現するこの祈りを、イエス・キリストの世界観を身に着けるヨハネの黙示の預言の言葉は、根底から支える。

ゆえに、次のように天使は命じた。「この書の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである」(黙示録22:10)。

Maria K. M.

ヨハネの黙示の預言的構成



 2024/03/31



 2024/03/25


136. 王たちの道

共観福音書は、イエスが十字架を背負う場面を記していない。一方、ヨハネ福音書は、「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」(ヨハネ19:17)と書いている。 

「十字架」は旧約の預言にはない言葉である。そこから、イエスの十字架の証しは、新しい契約に関する事だと捉えると、イエスが「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(マタイ16:24)と、弟子たちに語った言葉に特別な意味が見えてくる。 

自分を捨てた人が負う「自分の十字架」は、その人のものではない。それは、イエスが、誰にも話さないようにと弟子たちを厳しく戒めた「キリストの名」を示唆している(マタイ16:20参照)。受難の予告(マタイ16:21~23参照)を挟んだここには、イエスが弟子たちに、この名を「自分の十字架」として背負うことを求める含みがある。 

自ら十字架を背負い、ゴルゴタへ向かったイエスの歩みは、最期の夕食へ向かったイエスの公生活と重なる。十字架上のイエスの体と、イエスが「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と言ったパンは、同じキリストの体である。ゆえにこのパンも、イエスの体が死を受けたように死ぬのである。 

「キリストの名」を背負ってイエスに従う道は、常にミサ典礼に向かう。真理を通り命に至るその道は平坦ではない。たとえ時代に恵まれた私たちでも、様々な障害や障壁の前で身動きができない状況に遭遇する。ペトロが「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じてはなりません。かえって、この名によって神を崇めなさい」(1ペトロ4:16)と書いたと同じ思いを持って、それらを乗り越え、ときにやり過ごし、ただひたむきにミサ典礼に向かう道を求めて行くのである。 

そして、派遣の祝福を受け、次のミサ典礼へと向けて日常のルーティンに入るキリスト者たちの辿る道は、「日の昇る方角からやって来る王たちの道」(黙示録16:12)になる。「日の昇る方角」とは、「神である主が僕たちを照らす」(黙示録22:5)ミサ典礼の場を指し、「王たち」とは、「地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」(黙示録1:5)に従うキリスト者たちである。 

イエスは自ら十字架を背負い、「ヘブライ語でゴルゴタという所」へ向かわれた。彼の弟子たちは、自ら「キリストの名」を背負い、「ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所」(黙示録16:16)に向かう。黙示録において、汚れた三つの霊が王たちを集めた所だ。そこには「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」(黙示録20:11)が待っておられる。イエスが未来の教会に託した悪霊の救いの業は、ここで起こる。

Maria K. M.

ヨハネの黙示の預言的構成(クリックで拡大)



 2024/03/18


135. 第二の死と悪霊の救い

共観福音書の中で、イエスは、ご自身の受難と死と復活について3回予告したが、その理由は告げられていない。しかし、ヨハネ福音書は、その理由を二つ挙げている。一つは、「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:14~15)である。 

ここで、「自分の羊」とは、生きている人々で、「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂」(黙示録6:9)と、「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂」(黙示録20:4)である(本ブログ№133参照)。 

この人たちのためにイエスが死ぬのは、「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16:7)というご自分の言葉を実現するためである。 

もう一つは、「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」(ヨハネ10:16)である。 

「この囲いに入っていないほかの羊」とは、「その他の死者」(黙示録20:5)で、「魂」がないので死んだまま生き返らないでいる人々、すなわち悪霊である。彼らは、創世記の初めの「女」の子孫として、生まれた時から「神の置いた敵意」を授かっているにもかかわらず(創世記3:15参照)、唯一この「敵意」を得られなかった初めの「男」の状態になって死んだすべての人である(本ブログ№130参照)。 

イエスは、たびたび悪霊を追い出したが、救うことはなかった。ただ悪霊たちの望みどおり豚の中に入ることを許し、豚の死をともに味わう機会を与えたのみである(マタイ8:30~32参照)。悪霊たちは、「その羊も私の声を聞き分ける」とイエスが言ったように、イエスが誰かを知っていた。 

人が死ぬと、神の命じる「あれ」が天の父のご意志を成し遂げてそのもとに戻る。このとき、「人の偶発的情報」を取り込んだ「人相応の知識と記憶」が「命の息」に張り付いていれば、「命の息」は、「あれ」に付いて行かず、霊として地上に残る。そして、「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる。お前は這いずり回り、生涯にわたって塵を食べることになる」(創世記3:14)という創世記の神の言葉が実現するのである。これが悪霊の姿だ。 

イエスは、その死によって陰府に降り、「私はある」(ヨハネ8:58)となって悪霊を引き寄せ、「人の偶発的情報」を取り込んだ「人相応の知識と記憶」から「命の息」を取り返した。これが「第二の死」(黙示録20:6)であり、悪霊の救いだ。イエスはこの救いの業を未来の教会に託した。

Maria K. M.


 2024/03/11


134. その他の死者

前回の考察を続ける。「その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(黙示録20:5)。ここで、「その他の死者」には「魂」がないので、この死者は、死んだまま生き返らないでいる人々である。 

しかし、「千年が終わるまで」と書かれているので、「千年」、すなわちミサ典礼が終われば、生き返る可能性が示唆されている。このことから、「これが第一の復活である」とは、ミサ典礼に関わるすべての人がいずれ生き返る状態を言い表していることがわかる。それは、聖霊とキリスト者の働きに託された宣教が成し遂げられる日が意識されているからだ。 

この意識を共有するために、信者は、この後に続く、「第一の復活にあずかる者は、幸いな者であり、聖なる者である。この人たちには、第二の死は無力である。彼らは神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」(20:6)と書かれた第5の「幸い」に同伴されねばならない。 

ヨハネの黙示の訓練を行う者には、黙示録の要所に置かれた7つの「幸い」が同伴する。ここに登場する第5の「幸い」は、ヨハネの黙示の訓練者に同伴して、聖霊の霊性の神髄にまで入っていく(20:6~22:6参照)。イエスの名によって遣わされた聖霊の霊性を受けるためには、イエス・キリストの世界観を持つことが必須である。 

教会は、信者たちを、ヨハネの黙示の訓練に導くことによって、彼らの記憶に、イエスの初めの弟子たちが無意識の内に持っていたイエス・キリストの世界観を植え付けることができる。ここには、イエスがイメージした聖霊の霊性にまで高められたミサ典礼の記憶が入っている。それは、聖霊がまだ降臨していなかったために、イエスが最後の晩餐で弟子たちにその全貌を伝えなかったものである。「言っておきたいことはまだたくさんあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16:12~13)とイエスが言ったとおりである。 

そして、すべての信者が、「神とキリストの祭司となって、キリストと共に千年の間支配する」と書かれたようになるためには、教会はミサ典礼を完成しなければならない。そこには、「神の国で過越が成し遂げられるまでは、私はもはや二度と過越の食事をすることはない」(ルカ22:16)と言ったイエスの御言葉の実現がかかっているのである。ミサ典礼の完成にはこれほどの完全性が期待されている。イエスがそのためにすべてを準備していったからである。 

ゆえに、完全なミサ典礼が挙行されれば、それが終わるまで生き返らない「その他の死者」とは悪霊のみとなる。

Maria K. M.


 2024/03/04



133. ヨハネの黙示における二つの「魂」

ヨハネの黙示には二か所に「魂」が登場する。一つは、前回考察したように、「また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た」(黙示録20:4)にある「魂」で、彼らは、生きている者たちであった。 

もう一つは、「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(6:9)にある「魂」で、彼らに「魂」があるのは、「殺された」のに生きているからだ。 

本ブログ№15で考察したように、「第五の封印」は使徒言行録を指している。この書には、使徒たちが彼らの証しを立てる様子が詳細に描かれている。したがって、黙示録の著者が「祭壇の下に見た」魂は、これらの使徒たちである。 

使徒言行録における彼らの宣教活動の根底には、福音書に「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と記載されたように、イエスに向かって「自分たちが立てた証し」がある。使徒たちは、その時全うできなかった証しを、聖霊が降臨したことによって成し遂げたのだ。 

そこで、黙示録の箇所には、「彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた」(6:11)とある。 

彼らは、「祭壇の下」で、自分たちと同じように「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに」、今日もミサ典礼を挙行する「きょうだいであり、同じ僕である者」たちを見つめ、その数が満ちるのを待っている。彼らは、この時ミサ典礼に与る信者たちと共に集っているのだ。 

この二つの「魂」、「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂」(20:4)と「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂」(6:9)は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25~26)というイエスの言葉の実現である。 

それは同時に、「陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)というイエスの言葉を証ししている。そして、二つの「魂」に共通の「神の言葉」とは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という「神の真実の言葉」(黙示録19:9)である(本ブログ№95参照)。 

次回は、黙示録の「その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(黙示録20:5)から考察する。

Maria K. M.


 2024/02/26


132.ミサ典礼の完成と第一の復活

前回までの考察を踏まえて、黙示録に戻り、本ブログ№121で取り扱った、ヨハネの黙示の預言的構成(本ブログ№120の図参照)における「ミサ典礼の完成の預言」(黙示録19~20章)の考察を続ける。 

振り返ると、ミサ典礼の完成の預言は、初めに堕落した教会が裁かれたことを褒める(19:1~4)。次に、新約聖書成立の預言の成就の上に、ミサ典礼の完成が預言される(19:5~10)。ゆえに信者たちは、完成したミサ典礼に向けて、さまざまな形で聖霊の清めを通り(本ブログ№98~№105参照)、人の知識と体験が創り出す欲がそぎ落とされる(19:11~21)。後半は、実際に完成した典礼によるミサが挙行される間、また、終わった後起こることが描かれる(20:1~15)。 

ここでたびたび登場する「千年」は、ペトロが手紙に「愛する人たち、この一事を忘れてはなりません。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(二ペトロ3:8)と書いたように、完成した典礼によるミサが、「主のもとで」挙行される間のことである。その間、この時空に、「人の偶発的情報」も悪霊も関与することができない(20:1~) 

今回は、「また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返り、キリストと共に千年の間支配した。その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(20:4~5)から考察を進める。 

「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂」とは、イエスが証しした「人の偶発的情報」を区別し、神の言葉によって「命の息」と「命の木」がつながった者たちである。この人々には「神の姿」が現われる(本ブログ№129参照)。彼らは、「人の偶発的情報」を自分の知識として区別なく取り込んだ「人相応の知識と記憶」が求めるままに行為することがない(本ブログ№130参照)。いわば「首をはねられた者たち」のようになるのだ。だから、「あの獣も獣の像も拝まず、額や手に刻印を受けなかった」のである。「魂」とあるので、彼らは生きている人々なのだ。 

彼らは日々のルーティンの只中に置かれたミサ典礼に入ると、ここで御言葉と日ごとの糧を与えられ「生き返る」。「キリストと共に千年の間支配した」とは、ミサ典礼が行われる間、皆がキリストと共にいる現実に集中しているさまを表している。 

現在もミサ典礼の挙行は人々に大きな恵みをもたらす。しかし、すべての信者たちが聖なる者になる「幸い」を得て、生きたまま「第一の復活」に与るためには、ミサ典礼が完成し、完全なものにならなければならない。それは、そこに聖霊の働きが見えるようになるということである。

Maria K. M.


 2024/02/19


131. 可視化

イエス・キリストの到来によって、神であり、命である「言」の姿が可視化された(ヨハネ1:1~12参照)。しかし当時、可視化された神という現実を受け取る人々と、かえってそれにつまずく人々がいた。 

ヨハネ福音書が、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(ヨハネ1:10~12)と証ししたとおりである。 

そして、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)。それゆえ、「神の置いた敵意」はイエスによって御言葉になった。この敵意は、イエスと、「人の偶発的情報」を自分の知識として取り込んでいた人々との間に置かれた。イエスが「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」(ヨハネ8:44)と言ったとおりである。「人の偶発的情報」は、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)だからだ。 

彼らは、「人の偶発的情報」を知らず、これを自分と区別しないために、「神の置いた敵意」を現す人を自分の敵とみなし、やがて憎むようになる。そしてしまいには殺人をも目論む(ヨハネ8:31~59参照)。「殺すこと」は「悪を行うこと」である(マルコ3:4参照)。それは、神の創造した命を「滅ぼすこと」である(ルカ6:9参照)。 

イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には、「人の偶発的情報」を自分と区別することが必須である。そうして初めて彼らは、可視化された神であるイエスに、聞き従うことができるのである。そこで、新約聖書には、イエスが荒れ野で試された場面や(マタイ4:1~17参照)、イエスが弟子たちの前でペトロを叱った場面(マタイ16:21~23参照)が挿入され、「人の偶発的情報」と対峙するイエスの姿が描かれている。 

情報が可視化された現代を生きる私たちは、その体験から、人が複数になったことで発現する「人の偶発的情報」を意識し、それに取り囲まれていることを鮮明に受け取ることができる。「人の偶発的情報」は、人々に知識として取り込まれ、エピソード記憶や意味記憶としてシェアされ、人の認知機能とその発展において、また、人間性や文化、知識の蓄積において、不可欠で重要な役割を果たしてきた。 

その一方で、「人の偶発的情報」は、善の知識とも悪の知識とも成り得る要素が、恒常的に絡み合って成り立っている。それは、人に取り込まれて、まさに善悪の知識となるのである。私たちはこれを知って、この情報を自分と区別しなければならない。それが、ヨハネの黙示の第一の復活と第二の死に関わる第5の「幸い」を理解する第一歩である(本ブログ№121参照)。

Maria K. M.


 2024/02/12


130. 反対を受けるしるし

創世記の初めの男は、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」(創世記3:12)と言って、自分の過ちの原因を神に帰した。そこで、神は、「人の偶発的情報」(蛇)に向かって「お前(蛇)と女、お前の子孫と女の子孫との間に私は敵意を置く」(創世記3:15)と言うことによって、初めの男を「神が置いた敵意」の恩恵から除外したのである。このため彼は、「人の偶発的情報」を区別するすべを持たないまま生涯を終える唯一の人となった。 

さらに、彼が「妻をエバと名付けた」(創世記3:20)という記述は、彼の「人相応の知識と記憶」が、再び「善悪の知識の木」を介して「命の息」とつながっていたことを物語っている(本ブログ№127参照)。彼は、「人の偶発的情報」を自分の知識として区別なく取り込んだ「人相応の知識と記憶」が求めるままに行為する人になったのである。 

聖霊の働きによって個々の命との相互作用を保っている「あれ」と命じた御言葉が、生き物の命とつながっているように(本ブログ№128参照)、彼は、「善悪の知識の木」を介して恒常的に「命の息」とつながるようになった(創世記3:22参照)。神は、彼が、今度は「命の木」とつながり、永遠に生きる知識を得ることのないように、彼を追放し、命の木に至る道を守った(創世記3:24参照)。 

ここに、「神である主は、エデンの園から彼を追い出された。人がそこから取られた土を耕すためである」(創世記3:23)と言う言葉が挿入された。それは、神が彼に「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3:17)と言った言葉が実現し、土を耕す使命が、初めの男から代々男性に引き継がれていくためであった(創世記5:29参照)。 

そして、「土から取られたあなたは土に帰るまで、額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る」(創世記3:19)と言った神の贖いの計画は、動き出した。洪水を通り抜けたノアが、主のために祭壇を築き(創世記8:20参照)、アブラハムがいと高き神の祭司サレムの王メルキゼデクと出会い(創世記14:18参照)、神は、アロンとその子らを祭司に任職した(出エジプト記29:9参照)。神の命じた贖いを完成する神の子イエス・キリストは、これらの聖書の歴史の上に到来する。 

「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められている」(ルカ2:34)とシメオンに言われた彼は、まさに、初めの男が持つことのなかった「神の置いた敵意」そのものとして誕生したのである。

Maria K. M.



 2024/02/05

129. 「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」 その2

神が「女」と「人の偶発的情報」(蛇)の間に置いた「敵意」(創世記3:15参照)は、女性の産みの苦しみによって、子孫に受け継がれた。その働きは、人が「人の偶発的情報」を区別するよう絶えず促し、やがて人々の「人相応の知識と記憶」は、その中から神の言葉を代弁する預言者が現れるまでに成長した。「命の木に至る道を守るため」神が置いた「ケルビムときらめく剣の炎」(創世記3:24)は、「命の木」があることの目印になった。ゆえに人は、隠されてはいても、「命の木」が自分の中にあることを感じるのである。 

さらに時が満ちて、マリアが、ヨセフが、そして、洗礼者ヨハネが生まれた。そこで、神は独り子として「言」を遣わした(ヨハネ1:1~5参照)。ヨハネ福音書は、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)、「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)と証しした。 

イエス・キリストは、神が父であることを教え、神に「天の父よ」と呼びかけて祈ることで、天の父と子の関係を人々が自ずと身につけ、神の言った「我々のかたちに」(創世記1:26)という言葉が実現するように導いた。それは、神がダビデに予告したことが、ソロモンにおいて実現できなかったことを成就するためでもあった(サムエル記下7:14参照)。 

イエスは、「人の偶発的情報」を明確に示した。人々がこの情報を区別することは、「命の木」への道が開かれたことのしるしである。「命の息」を吹き込まれた人に、「神の姿」が現われるためには、「命の息」が「命の木」とつながることが必須である。 

イエス・キリストが宣教の初めに荒れ野で「人の偶発的情報」(試みる者、サタン、悪魔)と対峙した出来事は(マタイ4:1~11参照)、彼に付き従う多くの弟子たちのために、偶発的情報を区別する業を見せておく重要な場面であった。イエスは、ここで、試みる者や悪魔やサタンが誰であるかを暴露したのみならず、詩編の言葉をもって誘惑する「人の偶発的情報」を、申命記の言葉を引用して退けたことは興味深い。 

さらに、この場面でのイエスと「人の偶発的情報」とのやり取りのテーマが、創世記の「女」と「蛇」のやり取りと酷似している。それらは、初めに食に関すること(創世記3:1、マタイ4:3参照)、次に生死に関わること(創世記3:4、マタイ4:6参照)、最後に知識や栄華の獲得に関わることである(創世記3:5、マタイ4:8~9参照)。イエスは、創世記の初めの二人の過ちを、ことごとく修復したのである(本ブログ№116参照)。

Maria K. M.


 2024/01/29


128. 「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」 その1

創世記に「人は妻をエバと名付けた。彼女がすべての生ける者の母となったからである」(創世記3:20)と書かれた出来事は、初めの二人がエデンの園を追い出される直接の原因となった。この発想は、神が「女」に、「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる」(創世記3:16)と言った言葉をアダムが聞いていて、その体験を記憶していたことから起こったことに違いない。 

彼は、偶発的情報を取り込むと、彼の「人相応の知識と記憶」の無意識の思考作用の過程に試行錯誤が起こり、そこから遅れて意識に現れる判断が、「彼女がすべての生ける者の母となった」というエピソード記憶を発達させた。その結果、妻をエバと名付ける行為に至ったのである。この行為は、神の命じる「あれ」に応える自発性だけでは決して起こりえないものであった。 

これは、再び、アダムの「人相応の知識と記憶」が「善悪の知識の木」を介して、「命の木」を飛び越え、「命の息」とつながったしるしであった(本ブログ№127参照)。人は、このような形で進化したのである。しかし、神は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」と言ったことをあきらめることなく、別の計画を設けて人に授けた。「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた」(創世記3:21)とあるのは、このことを示唆している。ここで、別の計画とは、人が「神が置いた敵意」によって、「人の偶発的情報」を区別するように導かれながら、救い主を待つことである。 

続けて神が、「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」(創世記3:22)と言ったのは、聖霊の働きによって個々の命との相互作用を保っている「あれ」と命じた御言葉が、生き物の命とつながっているように(マタイ6:25~3110:28~31、ヨハネ14:17参照)、人は、「善悪の知識の木」を介して「命の息」とつながるようになったことを指している。「命の木」を憂慮する神は、「人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創世記3:24)。 

一方で、アダムについては、「土を耕す」というもともとの計画があった(創世記2:52:153:23参照)。しかし、「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3:17)という神の予告が現実になる。やがて、この地で、「額に汗して糧を得る」(創世記3:19)という贖いの業は、真の姿を現し、祭司職としてアダムの子孫である男性が背負っていく。この贖いの業は今も人々を支え続けている。

つづく

Maria K. M.


 2024/01/22


127. インターフェース その2

神が人の考えをすべて知っておられるのは、「あれ」と命じた御言葉による。「あれ」はすでに成し遂げられた御言葉であり、個々の命との相互作用を保っておられる。それは聖霊の働きによる(マタイ1:20参照)。父がイエスの「名によってお遣わしになる」(ヨハネ14:26)聖霊は、神のご意志と神の知識を併せ持っている神であり、神は、全能無限、唯一の善であり、あるがままに振舞われる。 

ゆえに、どのような制限をも自由にご自身に設けることができる。そこで神は、神の自発性から「命の息」を人に付与するが、それが自由であるがゆえに、「命の息」の自発性がどのように発揮されるかを知らないでいる。神は人にそれぞれの「命の木」を与える。それは、人それぞれの「命の息」と共にいて、神の似姿を現すために相応しい知識である。 

「命の息」と「命の木」によって現わされる神の似姿は、人があらゆる生き物を治めるための権威の源泉である(創世記1:28参照)。そして、この権威と、地を従わせる能力(注)を持つ「人相応の知識と記憶」とをつなぐインターフェースとして、神は、人の意識の中央に「善悪の知識の木」を置く。(注:創世記1:282:153:23参照) 

創世記の二人は、神にとっても初めての二人だった。そこで、実際に園の中央に二つの木を生えさせたのは、人が「命の木」の実を取って食べれば、「命の息」の自発性が人の中で発揮され「命の木」とつながったことのしるしとなるからだ。しかしついに二人は「命の木」の実を食べることはなかった。それは神が禁じた言葉が(創世記2:16~17参照)、曖昧になっていたからだ(創世記2:93:3参照)。初めの二人の間には偶発的情報が発現していたのだ。 

すべての生き物にはその種相応の知識と記憶があり、神の命じる「あれ」に応える自発性から、何事かを判断する無意識の思考作用が働き、それぞれ神の望みに沿って生きることができる。そこで、同種が複数集まれば情報交換が起こり、偶発的情報が発現することは自然の成り行きである。あらゆる生き物の種から発現する偶発的情報の中で、最も高度なものは、地を従わせる能力を持つ人の偶発的情報である。 

さらに、人は、その知識と記憶に偶発的情報を取り込むと、無意識の思考作用の過程に試行錯誤が起こる(創世記3:1~5参照)。そして、そこから遅れて意識に現れる判断は、人に特徴的なエピソード記憶を発達させる(創世記3:6参照)。それは、「人相応の知識と記憶」が「善悪の知識の木」を介して、「命の木」を飛び越えて「命の息」と一時接続される兆しである。こうして、創世記の二人は、神によって禁じられた実を実際に取って食べるという、神の命じる「あれ」に応える自発性だけでは決して起こりえない行為に至った。

Maria K. M.


 2024/01/15


126. インターフェース その1

前回、エデンの園を人の意識だと捉え考察した。この観点から、再び考察を進める。こうして、創世記の初めの二人に起こった出来事に再度迫るのは、ヨハネの黙示の残りのテーマである第一の復活と第二の死に関わる第5の「幸い」と、第7の預言「聖霊の霊性の預言」(本ブログ№120図参照)に、その原点から接近することを試みるためである(本ブログ№121参照)。 

人を創造した神の初めの発想は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」(創世記1:26)であった。ここで、「我々」と言っているのは、父なる神、子なる神、そして、聖霊なる神である。しかし、イエスが、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と言ったように、聖霊は特別な存在であり、人が無理なく受容できる「我々のかたち」とは父と子であった。 

そこで、次に、神がこの発想を現実にしたときのことを、「神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された」(創世記1:27)と聖書は書いた。神は、人を男と女に創造し、彼らが子を得て親となることによって「神のかたち」を体得するようにしたのであった。 

さらに、人は、多くの動物も人と同じように生殖によって子を持つことを知る。人が、神がそれによってすべての現実を創造した「あれ」と命じる言葉からくる自発性と、相応しい知識と記憶を授かったように、他の生き物も、それぞれに、自発性と相応しい知識と記憶を持っているのである。 

こうして、神は、男と女を祝福して命じられた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1:28)。ここで、「これを従わせよ」という命令には、「神のかたち」を体得することで充分であったが、「生き物を治めよ」という命令に応えるには、「我々の姿」が必要であった。 

そこで神は、人に「命の息」を吹き込み、人相応の知識と記憶との間「命の木」と「善悪の知識の木」を置いた。「命の息」と「命の木」は、神の自発性と神の知識からくる「我々の姿」を現す。この姿が、人相応の知識と記憶につながるためのインターフェースとして「善悪の知識の木」が機能するのである。 

したがって、人は、この「命の息」の自発性と、「あれ」と命じる言葉からくる自発性という二つの神の自発性によって支えられている。このために、人は自分が何者であるかを探求するのである。

つづく

Maria K. M.


 2024/01/08



125. 主の洗礼

洗礼者ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に、「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:7~8)と厳しい言葉を放った。この「毒蛇の子ら」には、創世記の「蛇」の子孫のイメージが重なる。 

本ブログ124参照
「蛇」が、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」(創世記3:5)と言った「善悪の知識の木」にまつわる出来事を観察すると、次のような考察が可能になる(創世記3:1~24参照)。人には、行為にしようとする対象について、何事かを判断する無意識の思考作用がある(3:1~5参照)。そこから遅れて意識に現れる判断は、人に特徴的なエピソード記憶を発達させ、その言語表現に深く関る(3:6~8参照)。このような観点から見て、神が命の木と善悪の知識の木を生えさせたエデンの園の中央とは(2:93:3参照)、人の意識の中央だと捉えられる。 

主の洗礼は、イエス・キリストが、ご自身の人生を自ら聖書の歴史に挿入した出来事である。キリスト者は洗礼を受けてイエス・キリストに従っている。それは、いわば、彼のいる新約聖書の世界の未来に飛び込み、自らそこの住人となって生きることで、新約聖書の世界の歴史的時間を引き延ばしている。新約聖書から生まれたミサ典礼がこれを可能にしている。 

イエスは、この引き延ばされた新約聖書という神の現実の内で生きることになる私たち信者のために、創世記に起こった人の過ちを一つ一つ丁寧に御言葉で贖い(本ブログ№116参照)、ご自身の受難と死によって、初めの殺人者となったカインの罪と、人の罪の歴史を贖った(本ブログ№117参照)。そして、死者として墓に収められ、復活することによって、未来永劫すべての過ちと罪と死を先に消去した。神は、イエス・キリストによって、聖書に載ったすべての過ちと罪と死の記憶が消し去られたことを、新しい聖書によって証ししたのだ。 

「私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)という主の洗礼についての洗礼者ヨハネの証言は、多くの信者が、今も自分の意識の中に大切に抱えている自身の洗礼の恵みである。彼らには、「これは私の愛する子、私の心に適う者」(マタイ3:17)と言う声を聞く希望がある。 

ヨハネ福音書には、「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは、多くの人がイエスを信じた」(ヨハネ10:41~42)という記載がある。洗礼者ヨハネは確かにその使命を全うした。

Maria K. M.


 2024/01/01


124. 神の母聖マリア

ナザレのマリアがイエスを身ごもった時、夫ヨセフに夢で現れた天使は、「マリアに宿った子は聖霊の働きによる」(マタイ1:20)と告げている。また、マリアが、エリザベトを訪問した時、「力ある方が/私に大いなることをしてくださったからです」(ルカ1:49)と言った言葉から、彼女が自身に授かった聖霊の働きをよく自覚していたことが分かる。 

図1
聖霊は、イエスの成し遂げた事実を現実として認識させる様々な働きをもっている。神は、「私はある」という本質から、「~あれ」という言葉によってすべての現実を創造した。図1のように、生き物は、自発的に生き、子孫を残すために相応の知識と記憶を持っている。彼らは仲間が増え、その種固有の偶発的情報が発現し、その情報から悠久の時をかけて進化する。人と共に生きるためである。 


一方で、人は図2のように創造された。神が吹き込んだ「命の息」は自発的に「命の木」とつながれば、創世記で神が「我々の姿に人を造ろう」(創世記1:26)と言ったように、「私はある」という神の本質と似た姿になる。「私はある」という言葉は、神のご意志と神の知識の両方が合わさっている姿だ。
 

図2
神のご意志が自発的に神の知識に向かうように、神から出た神のものである「命の息」は自発的に「命の木」とつながる。「命の木」には、人それぞれが授かった神の計画が秘められているにちがいない。それは、その人にとって唯一の「善」であり、すなわち神の知識である。 

この「善」の姿は「善悪の知識の木」に伝わり、「善悪の知識の木」が「善」の姿を知ると、人の偶発的情報を区別するようになる。しかし、神のものである「命の息」がいつ自発性を発揮するかを、神は気づかなかったように見える。神は、神のものである「命の息」の自由のために、その全能性をセーヴしたのかもしれない。 

エデンの園を追放された後も、人の中で「神の置いた敵意」は息づいていた。やがてこれに鼓舞された「善悪の知識の木」が機能し、神の声に聞き従う預言者が現れるようになった。 

長い時を経て、イエスが降誕する時代には、洗礼者ヨハネ、マリアやヨセフのような人々が現れるようになった。時が満ちたのだ。神は、神の慈しみが代々限りなく主を畏れる者に及ぶために(ルカ1:50参照)、マリアを神の母に選んだ。

Maria K. M.



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