2022/12/12
69. 神学
アヤソフィア(イスタンブール) |
これまで見てきたように、婚姻のイメージを使った表現は、司祭の対人関係において、性愛的なバイアスがかかる危険をはらんでいる(本ブログ№64参照)。アラス神父のように、初めから問題を抱えた司祭にとっては、火に油を注ぐような表現だと言える。これらの表現が司祭養成の根幹にあることによって、司祭たちは、信徒たちを、司祭から愛されることを望んでいる教会そのものだと見るようになる。だからアラス神父は、たった今素晴らしい説教をしたばかりなのに、そのすぐ後、香部屋でダニエルを虐待することができた。同時に、ミサにおいて信徒たちが司祭とともに唱える、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」という言葉と(本ブログ№68参照)、彼の前で唇を開き、舌の上にご聖体を乗せてもらう信徒の姿は(本ブログ№67参照)、いやがうえにも彼の支配欲を満足させ、彼を「司祭からも愛されることを望んで」いる教会に、すなわち少年信徒たちに向かって駆り立てる要素になり得た。アラス神父が叙階式の後、学ぶことで立ち直ることができたという神学は、彼の猥褻な行為を、このように正当化していったと考えられる。
彼は、76歳になって、「どうして神は私を止めてくれなかったのか」という疑問を発したが、彼を止めてくれなかったのは、神ではなく神学だったのだ。だから彼は、「これだけの罪を犯した原因が、自分には決して分からないという事実を、受け入れなければならないのだと思います」と無責任に言うことができた。神を天の父と呼ぶ教会が、21世紀になっても、上記のように婚姻のイメージで表現する神学を改めないなら、司祭に誠実であってほしいと望むあらゆる立場に置かれた多くの犠牲者たちに、真実を示すことはないだろう。
Maria K.
M.