イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/07/18

48. ヨハネの黙示14章

「また、私が見ていると、小羊がシオンの山に立ち、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」(黙示録14:1)。ここで言われた小羊の名は、彼らの無意識の領域に注入されたイエス・キリストの世界観であり、小羊の父の名は、意識の領域に刻まれた主の祈りであった。次いで、大水のとどろきのような、また激しい雷鳴のような音が天から響き、天上のミサの始まりを伝える(本ブログ№18参照)。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていた。イエス・キリストの世界観を歌う彼らの新しい歌は、小羊と小羊の父の名が記されているもの以外、誰も覚えることができなかった。彼らは、女、すなわち「情欲を招く彼女の淫行のぶどう酒を、あらゆる国々の民に飲ませたこの都」(黙示録14:8)との関りによって汚されたことがない。天の父の名によって守られたその記憶が純潔だったからだ。彼らは小羊といつも共にいる自由を聖霊によって得たのだ。地上に住むヨハネの黙示の訓練者に、イエス・キリストの世界観が注入され始めると、訓練者は、無意識のうちに、自分の内に「獣とその像を拝み、額か手にその獣の刻印を受ける者」(黙示録14:9)がいることを感じ取るようになる。この情報は、意識の領域に伝わり、おぼろげに神の知識と人の知識の区別が始まる(本ブログ№46参照)。そして自発的にみ言葉による「神の裁きの時」(黙示録14:7)へと出向くようになる。ミサに与かり、ご聖体を訪ね、聖霊の養成に与かるのだ(本ブログ№37~40参照)。ご聖体に現存する神は無情報だ。この無情報が訓練者の意識の領域とつながると、聖霊は、訓練者が持った錯覚やフィクションの記憶を、み言葉の諸刃の剣で貫く。そこで訓練者は、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。「ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある」(黙示録14:12)。そして、さらなる訓練に向けて第2の幸いが現れ、訓練者を励ます。「書き記せ。『今から後、主にあって死ぬ人は幸いである。』霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」(黙示録14:13)。やがて訓練者は、神が意識の領域に置いた敵意に目覚める(本ブログ№23,24参照)。天使が地に鎌を投げ入れたのだ。それは容赦なく訓練者の持つ矛盾を明らかに示し、訓練者は自身が抱える矛盾を認める。神の怒りの杯に注がれた、混ぜものなしの怒りのぶどう酒を飲むのだ。搾り桶は「都」の外、すなわち意識の領域の外、実際の生活の場で踏まれる。訓練者の意識の領域は、具体的な場面で浄化される。矛盾を正し、それを人々の前で言葉や行為に移していく訓練者は、「主にあって死ぬ人」の幸いを得る。

Maria K. M.


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