イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/10/03


59. 大バビロンの秘義

「天におられるわたしたちの父よ」と祈るキリスト者にとって、創造主である神が真の親であることは、教会が一貫して教えている周知の事だ。しかし一方で、「雅歌」に代表される婚姻のイメージを、まるで祖先の遺伝子を受け継ぐように、キリストと教会の関係になぞらえる伝統が引き継がれてきた。第2バチカン公会議文章の教会憲章は、「キリストは、教会を自分の花嫁として愛し、妻を自分のからだとして愛する夫の模範となった」(教会憲章第7節)と表現している。真の親である神として教会を産み出したキリストが、その教会を自分の花嫁として愛すると言っているのである。ここには、矛盾と倫理的な違和感を感じないではいられない。上記の表現は、性差と女性の権利を無視した表現であるだけではない。イエスが、「私たちに御父をお示しください」(ヨハネ14:8)と言うフィリポに言った次の言葉をも無視していることになる。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか。私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」(ヨハネ14:9~10)。さらに、キリストと教会の関係に婚姻のイメージを持ちこむことによって、花嫁が婚姻によって花婿との性的合一に向かうように、キリストとの霊的合一を求めようとする信者が現れる。それは、キリスト者でなくとも、個々人が、それぞれに直感した神、宇宙など、大いなる存在との合一を目指し鍛錬することや、悟りの境地を体験し完徳を治めること、心身のバランスを保って良き人生を求めることなど、世界中で人々が切に求めてやまないものの一つであるにすぎない。イエスは言う「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。」(ルカ12:30~31)。それゆえ、イエスは、ご自身そのものである神の国のために、み言葉とご聖体と使徒たちを残した。そして、聖霊は、聖書とミサをもたらし、キリスト者と協働して地上に神の国を出現させる。こうして、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12:32)とイエスが約束したとおり、神の国はキリスト者のものになった。神の国を求めるキリスト者は、決断一つで、イエス・キリストの世界観と聖霊の霊性によって養われ、神の無情報とつながり、ミサへ向かう日常のルーティンの中に入ることができる。このルーティンを生きるとき、そこで辿る道がイエスの最期の食卓を、“今”に引き寄せ、再び「私の記念」(ルカ22:19)を現実にするための始めと終わりになる。この日、過越の食事の準備のために、イエスから使いに出されたペトロとヨハネが辿った道、都に入り、水がめを運んでいる男(聖霊)と家の主人(御父)に出会った道がここに現れる(ルカ22:7~20参照)。

Maria K. M.


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