イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/11/21


66. 真の謙遜

これまで考察してきたように、第2バチカン公会議文書中に見出す教会理解における「キリストの花嫁」の表現は、人の真の親であろうとする神の望みからそれている。教会を「キリストの花嫁」にたとえれば、私たちの天の父は、教会にとってまるで義理の父であるかのようだ。この影響は、典礼憲章にも入り込んだ(典礼憲章7節、84節、85節参照)。そして、ローマ典礼様式のミサで、聖体拝領直前に、司祭が会衆とともに唱える言葉に現れた。

この言葉は、イエスが子(僕)の病を気遣う百人隊長に、ご自身から、「私が行って癒やしてあげよう」と申し出たにもかかわらず、その申し出を謙遜に断った百人隊長の言葉から取ったものである(マタイ8:5~13参照)。百人隊長のこの謙遜な態度から、彼が、人の真の親である神を知らなかったことが分かる。人の思いのすべてを知っていたイエスは、謙遜であるがゆえにイエスの申し出を断わる彼のたとえ話を聞いて、彼にはこの場面に相応しい信仰があるとみなした。しかしこの百人隊長の言葉は、神を天の父と呼ぶ信者には相応しくない。イエスが、最期の夕食の席で、跪いて弟子たちの足を洗い、神の謙遜の極みを見せて教えたからである。

ここでペトロが、「私の足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもなくなる」(ヨハネ13:8)と答えた。神の謙遜を前にして、人の謙遜は、むしろ神との関わりを断つことになる。実際に百人隊長の謙遜は、彼の子(僕)や家族がイエスに出会う機会を奪うことになった。さらに、信者が、ご聖体を拝領することを望んでいるにもかかわらず、百人隊長の謙遜に倣って、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます」と唱えるなら、そこには自ずと矛盾が生じる。

ある時イエスは、弟子たちに尋ねた。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)。これに続けたイエスの言葉は、御父を敬う御子の喜びで満ちている。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」(マタイ16:17)。天の父が現し、イエスによって幸いとされたペトロのこの言葉は、神の小羊の食卓に招かれた幸いな人が唱える真実の言葉になる(黙示録19:9参照)。これこそが、ご聖体を前にして信者が唱える言葉だ。

ご聖体のイエスは、今も信者に問うている。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」信者が答えて「あなたはメシア、生ける神の子です」と言うとき、天の父が現したこの言葉を受け取って、イエスは彼ら一人一人に言う。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。

Maria K. M.


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