イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/01/01


124. 神の母聖マリア

ナザレのマリアがイエスを身ごもった時、夫ヨセフに夢で現れた天使は、「マリアに宿った子は聖霊の働きによる」(マタイ1:20)と告げている。また、マリアが、エリザベトを訪問した時、「力ある方が/私に大いなることをしてくださったからです」(ルカ1:49)と言った言葉から、彼女が自身に授かった聖霊の働きをよく自覚していたことが分かる。 

図1
聖霊は、イエスの成し遂げた事実を現実として認識させる様々な働きをもっている。神は、「私はある」という本質から、「~あれ」という言葉によってすべての現実を創造した。図1のように、生き物は、自発的に生き、子孫を残すために相応の知識と記憶を持っている。彼らは仲間が増え、その種固有の偶発的情報が発現し、その情報から悠久の時をかけて進化する。人と共に生きるためである。 


一方で、人は図2のように創造された。神が吹き込んだ「命の息」は自発的に「命の木」とつながれば、創世記で神が「我々の姿に人を造ろう」(創世記1:26)と言ったように、「私はある」という神の本質と似た姿になる。「私はある」という言葉は、神のご意志と神の知識の両方が合わさっている姿だ。
 

図2
神のご意志が自発的に神の知識に向かうように、神から出た神のものである「命の息」は自発的に「命の木」とつながる。「命の木」には、人それぞれが授かった神の計画が秘められているにちがいない。それは、その人にとって唯一の「善」であり、すなわち神の知識である。 

この「善」の姿は「善悪の知識の木」に伝わり、「善悪の知識の木」が「善」の姿を知ると、人の偶発的情報を区別するようになる。しかし、神のものである「命の息」がいつ自発性を発揮するかを、神は気づかなかったように見える。神は、神のものである「命の息」の自由のために、その全能性をセーヴしたのかもしれない。 

エデンの園を追放された後も、人の中で「神の置いた敵意」は息づいていた。やがてこれに鼓舞された「善悪の知識の木」が機能し、神の声に聞き従う預言者が現れるようになった。 

長い時を経て、イエスが降誕する時代には、洗礼者ヨハネ、マリアやヨセフのような人々が現れるようになった。時が満ちたのだ。神は、神の慈しみが代々限りなく主を畏れる者に及ぶために(ルカ1:50参照)、マリアを神の母に選んだ。

Maria K. M.



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