イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/07/17


100.  「神の大宴会」 その2

「馬とそれに乗る者の肉」(黙示録19:18)とは、 十字架の場面の百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちのものである。彼らは、「地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『まことに、この人は神の子だった』と言った」(マタイ27:54)と書かれているように、恐れや畏敬の念が、彼らの信仰の源泉になっていた。 

マタイ福音書によると、ある百人隊長が、イエスに病の子の癒しを求めたが、イエスが「私が行って癒やしてあげよう」と申し出ると、その来訪を拒み(マタイ8:5~13参照)、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません」(マタイ8:8)と言ってイエスを押しとどめた。それは、イエスと関わったと知れ渡ることで、ローマ兵である自分の地位や権威が揺らぐのを恐れたからだ。 

ルカ福音書の場合、百人隊長は、直接イエスと会うことさえしなかった(ルカ7:1~10参照)。彼は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、イエスに来てくれるように頼んだ。しかし、イエスが彼らと一緒に出かけて行って、彼の家の近くまで来ると、百人隊長は友人たちに伝言を託し、今度はイエスの訪問を断っている。前回「種を蒔く人のたとえ」について考察したが、百人隊長にとって、御言葉は、「茨の上に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった」(マタイ13:7)種であった。 

イエスは、百人隊長の事情をすべて見抜いていたが、百人隊長が、「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます」(マタイ8:8)と言った言葉に驚いた。人の権威の下にいる彼が、指揮官としての日常の体験を生きて、真理を悟るまでになっていたからである(マタイ8:8~11参照)。 

そこで、イエスは、ご自分についてきた人々に対し、「よく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」(マタイ8:10)という言い方で、ご自分の民が頑なでいることを指摘した。異邦人がここまで精進してきている時代に、現状に居座っていれば、まさに、「東から西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に宴会の席に着く」(マタイ8:11)ことになる。 

とはいえ、自身も人の権威に服従し、戦争になれば殺人も厭わない立場にいる百人隊長の信仰は、御言葉が実現することを見ても、実を結ぶことのない信仰であった。このような人は、イエスの解説の中の、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を塞いで実を結ばない人」(マタイ13:22)である。 

やがて、聖霊に教えられ、信者一人一人がイエス・キリストの啓示を悟って信じる時代が来たが、教会は、百人隊長の信仰に留まり続けている。ご聖体を前にして、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉をいただくだけで救われます」と言い続けることで、それを証ししているのだ。それは、百人隊長のように人の権威の下で生きることを好んでいるからだ。そこで、今も、「小羊の婚礼の祝宴」は、「神の大宴会」(黙示録19:17)になる。 

つづく

Maria K. M.



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