イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/01/23


75. ソロモンの覗き窓

これまで、ヨハネ福音書の中で、ベタニアのマリア(本ブログ№71,№72参照)とマルタ(本ブログ№73参照)、姦通の女(本ブログ№74参照)を見てきた。ベタニアのマリアと姦通の女は、イエスから対話が引き出されていないこと、また、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々と連ねて登場していることから(ヨハネ8:3,11:45~47参照)、イエスとは異なる古い契約の世界観の女性たちとして描かれている。

一方、イエスの前でイエスが誰であるかを告白したマルタは、イエスが水をぶどう酒に変える場面のイエスの母(ヨハネ2:1~11参照)、イエスとの問答から命の水と新しい礼拝のテーマを引き出したサマリアの女(ヨハネ4:1~30参照)、復活したイエスから女性固有の召命を受けたマグダラのマリア(本ブログ№35№70参照)とともに、イエスに導かれながら彼から具体的に対話を引き出し、自発的に神の言葉を求め、その実りを自身の言動に結び付けていく女性たちであった。彼らは、イエスとその世界観を共有した新しいタイプの人々で、ヨハネがその手紙の中で、「あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっているので、誰からも教えを受ける必要はありません」(1ヨハネ2:27)と書いた人々だ。

しかし、この勧めの後、ヨハネは、自分たちの体験がこのままでは次世代に共有されないことに気付いた。イエスを見ないで信じる弟子たちが、御子の内にとどまるためには、イエス・キリストの世界観が必須だったのだ(本ブログ№36参照)。そこで、聖霊はヨハネを促し、黙示録が完成した。この預言の言葉を朗読し、これを聞く訓練を続けることで、人の記憶の中にイエス・キリストの世界観を出現させ、これを保たせることができる。時が迫っていたのだ(黙示録1:3参照)。

しかるに教会は、信者を導くにあたって、キリストと教会の関係に伝統的な婚姻のイメージを持ちこんだ。この教えのもとはソロモンの著と言われる「雅歌」にある。婚姻のイメージを官能的に表現する「雅歌」は、まるで神と親子の絆を結べなかったソロモンの、フィクションの世界を覗き見る窓のようだ。その世界観をベースにして信者を導けば、やがて彼らは、そうとは知らずに、自身の愛の炎の中に引き寄せられ、その愛の火に心を燃やせば燃やすほど、ますます自身の愛に引き寄せられるようになる。その状態で他者に向き、利己的な行為に及んでも、自己が他者に置き換わっただけの彼らには、それに気づく術がない。彼らにとって愛する者と愛される者は一体になっているのだ。この錯覚の中で、彼らは、弱い立場の他者への強要、虐待、脅迫を容易に行うことができる。しかし、その代償はあまりに大きい。「ソロモンよ、あなたには銀一千/収穫物の番人には銀二百」(雅歌8:12)と書かれたとおりだ。

Maria K. M.


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