イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/05/23


40. 聖霊の養成と第3の受肉の神秘

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」(ヨハネ15:1)という、御父への愛に満ちた言葉で始まるイエスのたとえ話は、いわば、第3の受肉の神秘ともいえる出来事のすべてを物語る。信徒は、聖霊の養成を受け続けるうちに(本ブログ№39参照)、御父が報いてくださるという体験を積むようになる(本ブログ№38参照)。すると、日々の具体的な場面でも、信徒たちを訪れる神に気付くようになる。一瞬触れる神の無情報の感覚を受け取るようになるのだ。ここで、自発的にこの神の無情報に注目し、つながろうとすれば、この場面では、御父が、聖霊と協働する体験を通して報いてくださる。そこで、イエスは、「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除き、実を結ぶものはみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ15:2)と告げる。御父は、「実を結ばないもの」、すなわち、人の偶発的情報とつながった記憶を取り除き、実を結ぶもの、すなわち、聖霊の養成を受けた記憶がもっと豊かに実を結ぶように手入れする。そこでイエスは、次に「私が語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:3~4)と言って励ましている。しかし、信徒たちは、もし、彼らを清くした「私が語った言葉」、すなわち、イエス・キリストの世界観を保持していなければ、イエスにつながっていないも同然の感覚にさらされてしまう。この状態をイエスは次のように警告する。「私につながっていない人がいれば、枝のように投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15:6)。だから、信徒は、毎日、たとえ数行でもヨハネの黙示の言葉を朗読し、この声を聞いて中に記されたことが、自身の無意識の領域に入り、絶えず上書きされるように、小さな努力を続ける必要がある(黙示録1:3参照)。イエス・キリストの世界観を失えば、人の偶発的情報と再び強く結ばれ、これを区別しなくなる危険がいつも身近に差し迫っているからだ。さらに、聖霊は、神が望む聖霊と協働する仕方を信徒がイメージしやすくするために、信徒の無意識の領域にあるイエス・キリストの世界観を、意識の領域に引き出すことをする。このとき信徒は、「私が語った言葉」が自身の内にあることを見て信じる。信徒が見て信じたことがイエスの喜びであり、この喜び以外に、信徒の喜びを満たす喜びはない。こうして、信徒たちは、聖霊と協働するために、彼らの人生の時間を神に提供することを、自ら進んで望むようになる。この望み、すなわち、友のために自分の命を捨てること、この途方もない望みを、イエスは「愛」と呼ぶ。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:13~15)。

Maria K. M.


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