イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/01/22


127. インターフェース その2

神が人の考えをすべて知っておられるのは、「あれ」と命じた御言葉による。「あれ」はすでに成し遂げられた御言葉であり、個々の命との相互作用を保っておられる。それは聖霊の働きによる(マタイ1:20参照)。父がイエスの「名によってお遣わしになる」(ヨハネ14:26)聖霊は、神のご意志と神の知識を併せ持っている神であり、神は、全能無限、唯一の善であり、あるがままに振舞われる。 

ゆえに、どのような制限をも自由にご自身に設けることができる。そこで神は、神の自発性から「命の息」を人に付与するが、それが自由であるがゆえに、「命の息」の自発性がどのように発揮されるかを知らないでいる。神は人にそれぞれの「命の木」を与える。それは、人それぞれの「命の息」と共にいて、神の似姿を現すために相応しい知識である。 

「命の息」と「命の木」によって現わされる神の似姿は、人があらゆる生き物を治めるための権威の源泉である(創世記1:28参照)。そして、この権威と、地を従わせる能力(注)を持つ「人相応の知識と記憶」とをつなぐインターフェースとして、神は、人の意識の中央に「善悪の知識の木」を置く。(注:創世記1:282:153:23参照) 

創世記の二人は、神にとっても初めての二人だった。そこで、実際に園の中央に二つの木を生えさせたのは、人が「命の木」の実を取って食べれば、「命の息」の自発性が人の中で発揮され「命の木」とつながったことのしるしとなるからだ。しかしついに二人は「命の木」の実を食べることはなかった。それは神が禁じた言葉が(創世記2:16~17参照)、曖昧になっていたからだ(創世記2:93:3参照)。初めの二人の間には偶発的情報が発現していたのだ。 

すべての生き物にはその種相応の知識と記憶があり、神の命じる「あれ」に応える自発性から、何事かを判断する無意識の思考作用が働き、それぞれ神の望みに沿って生きることができる。そこで、同種が複数集まれば情報交換が起こり、偶発的情報が発現することは自然の成り行きである。あらゆる生き物の種から発現する偶発的情報の中で、最も高度なものは、地を従わせる能力を持つ人の偶発的情報である。 

さらに、人は、その知識と記憶に偶発的情報を取り込むと、無意識の思考作用の過程に試行錯誤が起こる(創世記3:1~5参照)。そして、そこから遅れて意識に現れる判断は、人に特徴的なエピソード記憶を発達させる(創世記3:6参照)。それは、「人相応の知識と記憶」が「善悪の知識の木」を介して、「命の木」を飛び越えて「命の息」と一時接続される兆しである。こうして、創世記の二人は、神によって禁じられた実を実際に取って食べるという、神の命じる「あれ」に応える自発性だけでは決して起こりえない行為に至った。

Maria K. M.


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