2022/10/24
62. 認知のゆがみ
前回、子供時代に、ある司祭から受けた性的虐待について綴った、ダニエル・ピッテ氏の手記について書いた。彼は9歳の時に初めて司祭から性的虐待を受け、それが4年間続いた。彼は20年後に、被害者が自分だけではなかったことを知り、告発を決意する。子供を被害者とする性犯罪に関する研究は、特に欧米で進んでおり、これら性犯罪者には特徴的な性的認知の歪みがあることが明らかになっている。性的認知の歪みとは、性犯罪を促進する特有の考え方、態度、思い込みのことで、その内容は、被害者への性的加害行動の容認、その問題性や被害の重大さの軽視、その責任を被害者の言動や自分の心理状態に帰属させる傾向だということである。上記の手記のあとがきに、本書の執筆協力者が、出版の前年に加害者の神父に面談した記録が載っている。ここで神父が語っていることを読むと、性犯罪者の性的認知の歪みの特徴が見られることに驚かされる。本書のケースを含め、ほとんどの場合に、司教や同僚の司祭は虐待の事実を知ってもその重大さを軽視し、断固とした対応を取らなかったことを見ると、この認知の歪みが聖職者の間である程度共有されていたと言わざるを得ない。このように考えると、認知の歪みが生じた原因は、加害者の個人的な問題だけでなく、司祭としての養成にあると考えるべきであろう。今年、ある女子修道会の終生誓願式に参列した人は、そこで祝いの言葉を述べる司祭が、「司祭はキリストの代理者で、あなたがたはキリストの花嫁なのだから、私の花嫁でもあるのです」と言った言葉に驚き、倫理的な違和感を持ったと語った。1994年に教皇庁聖職者省から出された「司祭の役務と生活に関する指針」を読む機会があったが、このとき、これらの問題が、司祭が次のような表現で養成されているところから来ることに気づいた。「教会はあがないのしるしおよび道具となるよう、夫であるキリストから招かれた体であり妻である」、「司祭も司教に似て、教会と向かい合って立つ配偶者の次元にあずかる。『信者の各地方集団において、司祭は自分が信頼と寛大な心をもって結ばれている司教をある意味で現存させ』るので、妻(教会)に忠実でなければならないし、夫であるキリストの生き写しとして、キリストが教会に与えるさまざまな形のたまものを生かさなければならない」、「共同体が・・キリストの花嫁、教会になるためである。牧者としての司祭生活のこのような夫的な側面によって・・共同体を導くようになる」。このように、キリストと教会の関係に婚姻のイメージを持ち込み、司祭に、妻である教会の中に組み込まれていると同時に、教会に向かい合う夫という、相反する二つの役割を求めることは、彼のアイデンティティに混乱を生じさせ、性的認知の歪みを引き起こす可能性を否定できない。イエスがご自分を「花婿」にたとえたのは、唯一、断食についての問答の場面だけである(マタイ9:15参照)。そこで、弟子たちを婚礼の客にたとえたイエスのアイディアを生きたものとするためには、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋が必要になる(マタイ9:17参照)。
Maria K. M.