イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/04/18


35. 愛する弟子とイエスの名を受け取る者

神が初めから人を男と女に造ったのは、人が父母となって、神と人の関係を共有するためだった。神と人の関係は、初めから親子であり、神とイエスの「私の教会」の関係も親子である。イエスが、「天の国のために自ら進んで宦官となった者」の存在を伝えたのは、このときすでに、創世記で神が人に命じたとおり人が地に満ちていたからだ。イエスと同じく初めから子を持たない若者であった使徒ヨハネは、特別にイエスの愛する弟子と呼ばれた。ヨハネとヤコブが、イエスの国でイエスの右と左に就くことを願ったのは、イエスが3回目の受難の予告をした直後だった。他の弟子たちはこのことで腹を立てたが、イエスは二人の気持ちを正面から受け止めた。イエスが若い彼らに注目したのは、イエスに向いた彼らの自発性を見たからであった。人の意志は自発的に神に向くとき初めて真の自由を得る。聖霊が降臨し、ヨハネは、自分がイエスの母の名を受け取ったことを悟った。イエスに似るためには、男性である彼がイエスの名を受け取ることはないのだ。彼は、イエスの十字架のそばにともに呼ばれたマグダラのマリアが、復活したイエスと出会った話を聞いたとき、彼女に注目した。自身の経験から、イエスに向いた彼女の自発性に気づいたからであった。ヨハネはイエスが彼女にイエスの名を与えていたことを理解し、その出来事を福音書に記載した。復活したイエスは、墓の前でマグダラのマリアに言われた。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」(ヨハネ20:15)。マリアは、園の番人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私が、あの方を引き取ります」。「私が、あの方を引き取ります」と言った彼女の自発性を見て、イエスは「マリア」と呼んで言われた。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハネ20 :17)。ヨハネは、このイエスの言葉から、イエスが父のもとへ上ったら、彼女はその名に触れることが許されると察したのだ。マグダラのマリアは、マグダラという地名で呼ばれていたことから、イエスのように独り身の女性であったに違いない。自分の持ち物を出し合って、イエスの一行に仕えていた女性たちの一人であった彼女は、いつも近くからイエスを見て、その教えを自分のものにしていたのだ。マグダラのマリアは、「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(マタイ19:29)というイエスの言葉を、自発的に生きる新しい女性たちに、イエスの名を受け取る道を切り開いた。

【参考】1. 創世記2:242. 本ブログ№313. マタイ20:20~234. 本ブログ№345. ルカ8:3

Maria K. M.


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