2022/06/27
45. 神の知識と人の知識 その2
「エバは、さらに弟アベルを産んだ」(創世記4:2)。アダムとエバは2人の子の父母となった。父母は、子どもたちにとっては神のような存在だ。実際、アダムとエバは、神になったかのようだった。これまで考察したように、アダムは、自分が権力をもったと錯覚し、他の生き物と同じように妻に名を付け支配することで、「すべての生ける者の母」としての権威も自分のものにしたというフィクションを持った。一方、カインを産み、「私は主によって男の子を得た」(創世記4:1)と言ったエバの言葉には、神を人の助け手、すなわち従属者にする意味が見える。体の中に命の城ともいえる子宮を抱えたエバは、神秘的な享楽につながるフィクションを持ったのだ。彼女は、男子という権力の象徴を手にし、しかもそれを神の権威によって得たと受け取った。この両親のもとで、殺人が起きた。カインが妬みのためにアベルを殺したのだ。これを神が初めて罪と呼んだのは、殺人が、人を創造した神の御業へのはっきりとした否定だったからだ。こうして、初めから困難を抱えた男と女の関係から成り立つ血縁の共同体は、家族と呼ばれ、婚姻という社会制度によって固められた。婚姻の制度は、常に権力と権威を追い求め、罪というリスクを内蔵する社会の土台となった。やがて社会は、権力と権威を持つ王や皇帝を求めた(サムエル記上8:1~22参照)。神はこれを受け入れつつも、時を見計らって神と人の上に親子の関係を定めようと計画した(サムエル記下7:14参照)。しかし人々は、神との関係に親子の関係よりも婚姻のイメージを求めた。これが「人の知識」であった。そこで、み言葉が人となって誕生し、神を父と呼ぶことによって、神は、神と人の関係を親子の関係として世にはっきりと表した。み言葉イエスを自分たちの子として受け入れることによって、ヨセフとマリアも、神を父と仰ぐイエスの側に置かれた。さらにマリアは神の独り子を宿し、神との完全な合一体験をもった。この体験は、イエスの弟子たちがご聖体を拝領する前触れであった。あるとき、少年イエスを見失った父母が、神殿の境内で彼を見つけたとき、彼が、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」(ルカ2:49)と答えた言葉がこれを示唆している。父母がイエスを神殿の境内で見出したように、イエスの弟子たちもイエスの「私の教会」(マタイ16:18)でご聖体を見出す。そして、ミサの中でご聖体を拝領する時、神との合一体験をもつのだ。イエスの弟子たちはミサから出れば、再びミサへ帰る日常がある。この日常の道のりはけして平坦ではない。そこでイエスは次のように諭す。「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない」(ルカ14:26~27)。ここに「神の知識」がある。
Maria K. M.