2023/04/17
87. 新約聖書の内にある新約聖書 その1
ヨハネの黙示の難しさは、この黙示が、イエス・キリストの啓示の書であると同時に預言の書であり(黙示録1:1参照)、また、弟子たちの訓練の書でもあるということを(黙示録1:3参照)、自ら明言しているところにある。さらに、イエスを直接知らない次世代に、イエス・キリストの世界観を共にした弟子たちの感覚を共有させたいという神の熱情が難解さを増しているように思う(本ブログ№76参照)。そこで、これらのことを念頭に、これまで考察してきたヨハネの黙示の流れを、数回に分けて整理しておきたい。
著者は、再び霊に満たされ、天で玉座とそこに座っている方と長老たちを見た。そこで、すでに聖霊が降臨していることが暗示される初めのイベントが起こる(黙示録4:5参照)。次に、七つの封印がしてある巻物とこれらの封印を解く「小羊」が登場する。第1と第2の封印はそれぞれマタイ福音書とマルコ福音書(本ブログ№13参照)、第3と第4の封印はルカ福音書とヨハネ福音書(本ブログ№14参照)、第5と第6の封印は使徒言行録とパウロの書簡を指していた(本ブログ№15参照)。第7の封印はヨハネの黙示である。それが解かれると、七人の天使に七つのラッパが与えられ、彼らがそれを吹くたびに「災い」が起こった。これらは新約聖書の7つの書がもたらす効果の現れだった(本ブログ№16参照)。この記述は、ヨハネの黙示の書の内に、新約聖書の7つの書があることを示す。加えて7つの公同書簡にも言及したことで(本ブログ№12参照)、この書の内では、すでに新約聖書が確定していたのだ。
このように、この黙示は「ヨハネの黙示が新約聖書の内にあり、新約聖書がヨハネの黙示の内にある」というスタイルをとった。それは、ヨハネ福音書の「私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(ヨハネ14:11)というイエスの言葉を黙示録の構造に映すことによって、神の「業そのもの」のイメージを訓練者の記憶に注入するためである。
新約聖書は、ヘブライの聖書と比べれば「小さな巻物」である。天使はヨハネに言った。「それを取って食べなさい。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」(黙示録10:9)。この言葉は、ヨハネの黙示を訓練の書として受け取り、これを朗読し聞いて記憶に保持しようとする幸いな者たちのものでもある(黙示録1:3参照)。イエス・キリストの啓示の書であると同時に預言の書であるこの黙示を、ここまで朗読し聞いたということは、新約聖書のイメージを食べて感覚の記憶に入れたということだ。それは記憶にするには難しい(苦い)が、自分の声で聞くのは易しい(甘い)。だから毎日少しでも続けることができる。繰り返し続けることで、誰でも新約聖書のイメージを記憶にする機会を得る。そこでヨハネは、「その小さな巻物を天使の手から受け取り、すべて食べた」(黙示録10:10)。
Maria K. M.