2022/09/26
58. エルサレム
「天使は、霊に満たされた私を荒れ野に連れて行った。すると私は、深紅の獣の上に座っている一人の女を見た。この獣は、神を冒瀆する数々の名で覆われ、七つの頭と十本の角を持っていた」(黙示録17:3)。黙示録の中で、著者ヨハネは4回霊に満たされたことを記載した。上記はその3回目になる。第1の箇所で、著者は霊に満たされて「ラッパのような大きな声」を聞いた(黙示録1:10参照)。第2は、その同じ声を聞いた直後に著者は霊に満たされた(黙示録4:1~2参照)。しかし、今回、霊に満たされた著者に関わったのは、「声」ではなく天使だった。それは、公生活に入るイエスが、荒れ野でサタンの試みを受けたとき、天使たちがイエスに仕え、また、野獣と共におられたと福音書に書かれたように(マルコ1:13参照)、「荒れ野」は、人にも獣にも共に備わっている無意識の領域であり、天使の同伴が必要だったからだ。著者は「私は、この女が聖なる者の血と、イエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見て、私は非常に驚いた」(黙示録17:6)と書いている。聖なる者の血とイエスの証人の血を流した女は、エルサレムの都を象徴している。また、「あの大きな都は三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた」(黙示録16:19)とあったように、実際エルサレムは、未来にアブラハム由来の3つの宗教全ての聖地として三つに引き裂かれ、それが21世紀の今も続いている。黙示録には、次のようにエルサレムを都に定めたダビデ王に関わる記述が、暗示的に置かれている。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方」(黙示録3:7)、「ユダ族の獅子、ダビデのひこばえが勝利を得た」(黙示録5:5)、そして、「私イエスが天使を送り、諸教会についてこれらのことをあなたがたに証しした。私は、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である」(黙示録22,16)。ここでイエスがご自身をダビデのひこばえと言っているのは、ソロモンが実現できなかったことを、イエスが実現したからだ。神はダビデに、その子ソロモンについて、「私は彼の父となり、彼は私の子となる」(サムエル記下7:14)と告げた。しかしソロモンが神から離れたために実現しなかった。神を父と呼ぶイエスに、ユダヤ人たちが強い妬みを持っていたことから、彼らの中に神への迷いと矛盾があったことが伺える(ヨハネ8:31~42参照)。やがて、ソロモンの著といわれる「雅歌」が聖書として後世に残され、この書に代表される婚姻のイメージが、神と民の関係に重ねられるようになった。神と親子の絆を結べなかった民は、神を花婿に、民を花嫁にたとえ、夫婦の契りを神との絆にイメージしたのだ。人の真の親である神を前にして、神と人の婚姻をイメージすることは、「深紅の獣の上に座っている一人の女」そのものだ。その額には、秘められた意味の名が記されている、それは、「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母という名である」(黙示録17:5)。
Maria K. M.