イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/08/08


51. 神の怒りの頂点(黙示録15~16章)

前回考察したように、ヨハネ福音書において、5章の初めに「羊の門」(ヨハネ5:2)という言葉が出るのは偶然ではない。10章で、「よくよく言っておく。私は羊の門である」(ヨハネ10:7)とイエスが言った羊のテーマに向けての話が、5章からすでに始まっているのだ。また、イエスとファリサイ派やユダヤ人たちとの論争も、5章でイエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者としたことから始まっている(ヨハネ5:18参照)。さらにこの羊のテーマは、21章の復活したイエスがペトロに3回「私を愛しているか」と問う場面にまで及ぶ。ヨハネ福音記者が、これほどまでにこのテーマに固執したおかげで、キリスト者は、イエスの「私の教会」(マタイ16:18)の表象とその構造を、イエスのみ言葉から直接導き出すことができる。イエスは、羊の門のほか、羊の囲いや、羊飼い、(羊の)群れなどの言葉を用いて説明した。さらに、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)というイエスの言葉は、神が父性と母性を併せ持つ親であることを示している(本ブログ№2943参照)。神こそが人の真の親である。この神の特徴は、黙示録153節で、「彼らは神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌った」と表現されているところにも映し出されている。この描写は、イエスがその死をもって贖った人々と、その未来に、降臨した聖霊がご聖体の死をもって贖った人々が(本ブログ4950参照)、共に、全能者である神と小羊の道が、正しくかつ真実であることを讃え、歌っているところだ(黙示録15:3参照)。ここに、「羊のために命を捨てる」神の姿がある。ヨハネ福音書では、10章への導入となる9章の出来事の中で、ユダヤ人たちが、「イエスをメシアであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)、そして、イエスについて、「私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ」(ヨハネ9:24)と公言していたと書かれている。彼らは、創世記4章で神が初めて罪と呼んだ、殺人に至る危険を、胸の内に秘めていた。殺人は、人を創造した神の御業へのはっきりとした否定だ。殺人に向かう人の思惑には人を悪魔化(サタン化)する、人の偶発的情報が密着している。ここに最後の七つの災いが注がれると、神の怒りが頂点に達する(黙示録15:1参照)。彼らが悔い改めないなら、死んだ後、彼らは悪霊になるより他ないからだ(本ブログ49参照)。(つづく)

Maria K. M.


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