2023/05/09
90. 霊に満たされ その1
前回、「教会の歩みは、黙示録に照らせば、17章~18章の只中にある」と書いた。そこで、これまで私の注意を引いて来た「霊に満たされ」という言葉をキーにして、これを読み解いていきたい。黙示録において4回出てくるこの状態は、著者が見聞きしたことを預言するための「場」で起こっている。()内の数字は黙示録の章と節を示す。
第1の場は、パトモスと呼ばれる島で、七つの教会に送る巻物について預言するため(1:11~3:24)。第2は、開かれた扉がある天で、次の複数の預言をするため。①聖霊の登場と新約聖書の成立(4:1~11:19)、②司祭職と聖体に関する「神の知識」とその記憶を阻もうとする「人の知識」の登場と両者の戦い(12:1~13:18)、③小羊の仲間たち、すなわち教会の登場(14:1~5)、④福音の伝播によって、大バビロンが3つに引き裂かれ、倒れるまでの戦い(14:6~16:21)。第3は、荒れ野で、天使に同伴され、大水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見て預言するため(17:1~18:24)。第4は、高い山で、再び天使に同伴され、小羊の妻である花嫁、すなわち新約聖書を見て預言するため(21:9~27)。
今回考察しようとしている17章~18章は、第3の場で起こっている。天使が見せようと言った「大水の上に座っている大淫婦」(17:1)は、著者が霊に満たされて見ると、深紅の獣の上に座っている一人の女であった。特徴的なのは、「その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母』という名である」(17:5)と書かれ、第2の場で、「倒れた」と書かれた「大バビロン」(14:8)の名が、この場に継承されていることだ。
著者は、「私は、この女が聖なる者の血と、イエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見て、私は非常に驚いた」(17:6)と書いている。「聖なる者の血とイエスの証人の血」という表現は、エルサレムの都を示唆し、黙示録には、エルサレムを都に定めたダビデ王に関わる記述が、暗示的に置かれている(3:7, 5:5,22:16)。ここでイエスがご自身を「ダビデのひこばえ」と言っているのは、ダビデの子ソロモンが実現できなかったこと、神を父と呼ぶことを、イエスが実現したからだ。
一方で、神と親子の絆を結べなかった旧約の民は、神を花婿に、民を花嫁にたとえ、夫婦の契りを神との絆にイメージした。神を天の父と呼んでいるにもかかわらず、教会はこれを継承した。そして、洗練された語彙や論理を巧みに使って、婚姻神秘主義として、神学に大きな影響を与えるまでに肥大させたのだ。「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」という秘められた名を額に記された女は、教会であった。そこで著者は、教会が、「太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた」(12:1)一人の女のイメージと似ても似つかないものになっていたことに非常に驚いたのだ。続く18章の預言は、15世紀から17世紀にかけて起こった大航海時代を彷彿させる。教会は大きな転換を迫られ、窮地に立たされる。
Maria K. M.