イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/02/19


131. 可視化

イエス・キリストの到来によって、神であり、命である「言」の姿が可視化された(ヨハネ1:1~12参照)。しかし当時、可視化された神という現実を受け取る人々と、かえってそれにつまずく人々がいた。 

ヨハネ福音書が、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(ヨハネ1:10~12)と証ししたとおりである。 

そして、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)。それゆえ、「神の置いた敵意」はイエスによって御言葉になった。この敵意は、イエスと、「人の偶発的情報」を自分の知識として取り込んでいた人々との間に置かれた。イエスが「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」(ヨハネ8:44)と言ったとおりである。「人の偶発的情報」は、「悪魔でありサタンである竜、すなわち、いにしえの蛇」(黙示録20:2)だからだ。 

彼らは、「人の偶発的情報」を知らず、これを自分と区別しないために、「神の置いた敵意」を現す人を自分の敵とみなし、やがて憎むようになる。そしてしまいには殺人をも目論む(ヨハネ8:31~59参照)。「殺すこと」は「悪を行うこと」である(マルコ3:4参照)。それは、神の創造した命を「滅ぼすこと」である(ルカ6:9参照)。 

イエスを受け入れた人、その名を信じる人々には、「人の偶発的情報」を自分と区別することが必須である。そうして初めて彼らは、可視化された神であるイエスに、聞き従うことができるのである。そこで、新約聖書には、イエスが荒れ野で試された場面や(マタイ4:1~17参照)、イエスが弟子たちの前でペトロを叱った場面(マタイ16:21~23参照)が挿入され、「人の偶発的情報」と対峙するイエスの姿が描かれている。 

情報が可視化された現代を生きる私たちは、その体験から、人が複数になったことで発現する「人の偶発的情報」を意識し、それに取り囲まれていることを鮮明に受け取ることができる。「人の偶発的情報」は、人々に知識として取り込まれ、エピソード記憶や意味記憶としてシェアされ、人の認知機能とその発展において、また、人間性や文化、知識の蓄積において、不可欠で重要な役割を果たしてきた。 

その一方で、「人の偶発的情報」は、善の知識とも悪の知識とも成り得る要素が、恒常的に絡み合って成り立っている。それは、人に取り込まれて、まさに善悪の知識となるのである。私たちはこれを知って、この情報を自分と区別しなければならない。それが、ヨハネの黙示の第一の復活と第二の死に関わる第5の「幸い」を理解する第一歩である(本ブログ№121参照)。

Maria K. M.


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