イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/01/29


128. 「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」 その1

創世記に「人は妻をエバと名付けた。彼女がすべての生ける者の母となったからである」(創世記3:20)と書かれた出来事は、初めの二人がエデンの園を追い出される直接の原因となった。この発想は、神が「女」に、「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産むことになる」(創世記3:16)と言った言葉をアダムが聞いていて、その体験を記憶していたことから起こったことに違いない。 

彼は、偶発的情報を取り込むと、彼の「人相応の知識と記憶」の無意識の思考作用の過程に試行錯誤が起こり、そこから遅れて意識に現れる判断が、「彼女がすべての生ける者の母となった」というエピソード記憶を発達させた。その結果、妻をエバと名付ける行為に至ったのである。この行為は、神の命じる「あれ」に応える自発性だけでは決して起こりえないものであった。 

これは、再び、アダムの「人相応の知識と記憶」が「善悪の知識の木」を介して、「命の木」を飛び越え、「命の息」とつながったしるしであった(本ブログ№127参照)。人は、このような形で進化したのである。しかし、神は、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」と言ったことをあきらめることなく、別の計画を設けて人に授けた。「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた」(創世記3:21)とあるのは、このことを示唆している。ここで、別の計画とは、人が「神が置いた敵意」によって、「人の偶発的情報」を区別するように導かれながら、救い主を待つことである。 

続けて神が、「人は我々の一人のように善悪を知る者となった」(創世記3:22)と言ったのは、聖霊の働きによって個々の命との相互作用を保っている「あれ」と命じた御言葉が、生き物の命とつながっているように(マタイ6:25~3110:28~31、ヨハネ14:17参照)、人は、「善悪の知識の木」を介して「命の息」とつながるようになったことを指している。「命の木」を憂慮する神は、「人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた」(創世記3:24)。 

一方で、アダムについては、「土を耕す」というもともとの計画があった(創世記2:52:153:23参照)。しかし、「あなたのゆえに、土は呪われてしまった。あなたは生涯にわたり苦しんで食べ物を得ることになる」(創世記3:17)という神の予告が現実になる。やがて、この地で、「額に汗して糧を得る」(創世記3:19)という贖いの業は、真の姿を現し、祭司職としてアダムの子孫である男性が背負っていく。この贖いの業は今も人々を支え続けている。

つづく

Maria K. M.


人気の投稿