イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/01/09


73. 滅びに至る門 その3

ヨハネ福音書の中で、ユダと同列に並べられたベタニアのマリアについては、ルカ福音書ではイエスの足元に座って話を聞いていたこと以外は何の情報もない(ルカ10:38~42参照)。一方、マルタは、ヨハネ福音書と同様に、ここでもイエスを迎えている。そこで今回はマルタについて考察する。

マルタがいろいろともてなしのために忙しくしていたのは、イエスの話を聞いていた人々が他にも大勢いたからだ。そこでマルタは、イエスのそばまで行って言った。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10:40)。このようにマルタがイエスに率直に言えたことは、すでに二人の間に信頼関係ができていたことを示している。また、これに答えたイエスが、「マルタ、マルタ」と彼女の名を2度続けて呼びかけているところから、イエスがマルタに特別な親しさを持っていたことが伺える。そして、「あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:41~42)と言うイエスの勧めから、マルタは、自分に良いほうを選んだ姉妹の自発性を尊重し、奉仕を強制しないという教えを汲み取った。このことは、ラザロの復活の場面で、イエスが来られたと聞いて、マルタが一人で迎えに出たことに表れている。家で座っていることにしたマリアを煩わせなかったのだ。

イエスの教えは、まず他者の自発性を尊重することが、自分の自発性を開放する力になるというものだ。それがイエスとの対話を引き出す。それは、人の自発性が「神が吹き入れた息」(創世記2:7参照)であって、これが神の言葉を求めるからだ。この教えは、ミサを目指して生きる信者が、日常的に出会う人々と関る中で、ミサへたどり着くための大切な心得でもある。信者はミサに、み言葉とご聖体を迎えに行く。だから信者も、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25~26)と問うイエスに、マルタのように、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11:27)と答えることができる。

今、信者は、ご聖体のイエスに向かって答えるのだ。この言葉を公に唱えるのはミサの中だ。信者は、ミサの中で、ご聖体のイエスに向かって、その信仰を表明する権利がある。マルタのように、ご聖体のイエスと率直に関わり、信頼関係をつくり、特別な親しさを持つ必要があるからだ。しかし、教会は、世界の信者が、マルタの体験を共有する機会を与えて来なかった。だから今も、ご聖体のイエスに向かって信仰を告白することなく生涯を終える多くの司祭、信徒たちがいる。「滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い」(マタイ7:13)と書かれた通りだ。

Maria K. M.


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