イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/08/22


53. 第二の天使と第三の天使(黙示録15~16章)

ヨハネ10章の第2の節目は、「ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」(ヨハネ10:24)という箇所だ。各人がそれぞれに矛盾を抱え、フィクションの世界に逃げ込んでも(本ブログ№52参照)、イエスの存在によって、「神は私たちと共におられる」(マタイ1:23)という現実の前にたちまち引き出されてしまう。彼らは、自身の中に堆積する矛盾に堪えられず、矛盾を持たない神への妬みでいら立っていた。彼らはその原因を、血眼になってイエスに探す。人はこのような状態に陥ってしまうと、命の重さが見えなくなる。ここに、「第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、海の生き物はことごとく死んでしまった」(黙示録16:3)が符合する。第3の節目は、「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)というイエスの言葉に、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」(ヨハネ10:31)という箇所だ。人は矛盾の中で真理を突き付けられると、これを抹殺しようとする。ここに、「第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった」(黙示録16:4)が符合する。「水」とは、人が実際につながっている知識のことであり、「水の源」は、この知識の情報元を指している。それが「血になった」とは、この情報が人のものであったということだ。この源を神のものに変換するために、創世記で神が置いた敵意(創世記3:15参照)の働きに注目する習慣が必要だ(本ブログ№24参照)。妬みのために弟アベルを殺したカインは、矛盾を抱えフィクションに逃げ込んだが、神が置いた敵意の働きによって正気に戻り、神の前にいるという現実に目覚めた。そして「私の過ちは大きく、背負いきれません」(創世記4:13)と、正直に自分の気持ちを神に言うことができた(本ブログ№23参照)。神が置いた敵意の働きの背後には、常に人に真摯に向き合い、真理を告げる神の言葉がある。しかし、人は神の言葉をそのまま受け取ることに堪えられない。あらゆる真理に導いてくれる聖霊の支えが必須になる(ヨハネ16:12~13参照)。ヨハネの黙示の訓練者は、このために、自身の無意識の領域がイエス・キリストの世界観で満たされる訓練を続けている。やがて、第2の幸いを得た訓練者は(本ブログ№48参照)、自身が関わる外界に、ヨハネ10章のイエスの経験を見出し、「七人の天使の七つの災い」を悟るようになる。黙示録の著者が証し人として描き出した世界が、この人の実生活の面と重なって見えてくるのだ。そして、ヨハネの黙示の著者の体験を共有するようになる。

Maria K. M.


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