イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/02/06


77. 苦悶の大聖堂・二つの命

婚姻神秘主義という言葉を知ったのは、ファーガス・カー著「二十世紀のカトリック神学」と出会った時で、私は大きな感銘を受けた。旧約から引き継いだ婚姻のイメージが、教会の教えにパン種のように仕込まれていて、2千年かけて神学になっていったとは思いもよらず、驚きをもっている。教会は、まさに聖書を、アダムとエバの家族が登場する最初のページから、花嫁と小羊の婚宴が現れる最後のページまで、キリストを花婿に、教会を花嫁に結び付けて解釈してきたのだ。人の創造した社会の基盤として置かれた婚姻制度には、不滅的な印象があったのだろう。教会はこのイメージをアナロジーだと言いつつも、実際に表現として取り込み、信者教育に反映させていった。しかし、男女の性的結合を前提とする、花婿と花嫁、夫と妻という表現を使うとき、父と母という言葉が二義的な意味合いを持ってしまう。その神学は、神と人をダイレクトに親子の絆で結ぼうとした神の計画からそれていった。

さらに、家父長制度に直結する婚姻制度のイメージを取り込んだ教会は、権力と権威の温床から脱却できなかった。そして、婚姻のイメージに慣らされ、性的虐待問題を起こす司祭やイゼベルのような信徒(本ブログ№76参照)を生み続け、「大水の上に座っている大淫婦」(黙示録17:1)を形成している。その結果、21世紀の教会は、過去から積み上げてきた過ちのために、大きな代償を求められている。

今も、我々の教会と社会の中で、自分の名を聞くことなく消えていく命があることもその一例だ。それはよく似た状況にさらされている二つの命、ご聖体と堕胎される命である。自身では何もできない、あまりにか弱い命だ。ご聖体は、聖体祭儀の中に生まれても、「メシア、生ける神の子」(マタイ16:16)というご自身の名を、拝領する司祭、信徒の口から聞くことがない。司祭、信徒は、ご聖体を前にして、その名を宣言すれば、婚姻のイメージが払拭され、司祭は花婿であるキリストに似た者ではなく、信徒はキリストの花嫁ではないという現実が明らかになってしまうからだ。そこには身分も格差もない、過ぎ越しの食卓に招かれたイエスの兄弟姉妹、母が現れる。それは、「書き記せ。小羊の婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだ」(黙示録19:9と言う天使の言葉に、「神の真実の言葉」(同)で答えたからだ。

同じように、堕胎される命は、母の子宮の中に生まれても、自身の名が呼ばれるのを聞くことはない。堕胎の前には妊娠がある。妊娠には必ずその女性と性的関係を結んだ男性がいる。堕胎される命にとって、この男性がその命の前に姿を現すことが救いの一歩である。彼らと同じ男性であるカトリック教会の教役者たちは、彼らに向かって語りかけ、対話しなければならない。彼らの言葉に耳を傾け、「あなた(女)は夫を求め、夫はあなたを治める」(創世記3:16)という神の言葉によって、神が男性に治めることを求めた性と、命への責任を解き明かし、男性の尊厳と使命の真理をともに見出し、教育につなげていかなくてはならない。

Maria K. M.


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