2023/04/03
85. 婚姻神秘主義
多くの宗教が何らかの方法でそれぞれに直感した神、宇宙など、大いなる存在との合一を求めているように、キリスト者の中にも神秘主義によって、神秘体験の最高峰、神性の最奥にまで挑み、神と合一しようと望む者たちがいる。しかし、そのために必要な困苦や犠牲を払っても、誰もがそこに到達できるわけではない。イエスがご自分の弟子たちに望んだのは、己の十字架を背負って、イエスに従っていくことであった。己の十字架は、キリスト者が生きる日常に具体的な出来事として出現する。そして、イエスに従っていくことは、ミサに向かうルーティンを、日常の中に自発的に形づくるとき現れる「イエスの道」を歩むことである。これを助けるのは、聖霊の養成とヨハネの黙示の訓練である(本ブログ№36参照)。真理のみ言葉を通って、命のご聖体に向かうこの道は、神との合一を果たして、派遣の祝福を受けた信者の前に、ふたたびミサに向かう道として現れる。ミサは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と保証したイエスの言葉を具体的に体験させる。この体験は神の現実の最高峰、神性の最奥である。神は、キリスト者にただこれを自発的に味わうことだけを求めている。
神秘家の中には、イエスを見たという者がいて、何かのかたちで啓示を受けているという主張もある。そして、その啓示の正当性を主張するために、この特殊な体験を記録する者たちもいる。しかし、新約聖書の最後に置かれ、イエス・キリストの啓示であると自ら宣言するヨハネの黙示が(黙示録1:1参照)、その中で新約聖書の成立を預言していることは、啓示が、新約聖書においてすでに完成したというしるしである(本ブログ№12参照)。さらに黙示録は、「この書の預言の言葉を聞くすべての者に、私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災いをその者に加えられる」(黙示録22:18)と警告している。したがって、イエスから新しい啓示を受けたと確信する者があれば、その人はイエスに従っているのでないと見做し、警戒しなければならない。
これまで長きに渡って、黙示録そのものから離れ、教会の大惨事ともいえるような大きな出来事の原因に焦点を当ててきた(本ブログ№57~№84参照)。雅歌をよりどころとする婚姻神秘主義は、それを目指す人々をフィクションの世界に招き入れ、花婿と花嫁のイメージに惹かれるさまざまな立場の人々の感性と嗜好を満足させ、20世紀神学の中に開花した。その結果、その一部がアナロジーとして利用されたイエス・キリストの啓示であるヨハネの黙示の理解にも婚姻のバイアスがかかり、啓示の書として正しく理解されてこなかった。それが正しく理解されるためには、時を経て婚姻神秘主義の正体が現れ(本ブログ№69,№70参照)、黙示録の次の言葉が実現するのを待つよりなかった。「神は、淫らな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き/僕たちの流した血の復讐を/彼女になさったからである」(黙示録19:2)。
Maria K. M.