イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/05/16


39. 聖霊の養成 その3

人は、発生の初め、受精卵のときからすでに情報の塊だ。そして、誕生する人を迎えるのは情報群だ。人は、情報を求め、情報を吸収して成長し、情報を使い情報の中で生きていく。だから、無情報の状態を前にして、いわば本能的に、何の価値もないものとして通り過ぎてしまう。しかし、無情報が神の唯一の情報である。イエスが父から聞いたことをすべて知らせたからだ(ヨハネ15:15参照)。そして、聖霊がその証をする(ヨハネ15:26参照)。神がこの世で無情報としてある方であれば、その信徒はこの無情報を情報として記憶しようとするのではないだろうか。あるときイエスは、数々の奇跡を行ったのに悔い改めなかった町を叱った。知恵ある者や賢い者は、神の働きを体験してもそれが神だと気付かない。一方で、天の父の御心は、イエスのように神を父として信頼する幼子たちに示される。この幼子たちは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というイエスの言葉を、素直に信じてご聖体の前にやってくる。イエスは彼らに「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい」(マタイ11:29)と言って、ご聖体の前に留まり、無情報の姿で働く聖霊の養成の中で学ぶよう勧める。ご聖体の前にただ留まるだけの軛は負いやすく、無情報の状態を負う荷は軽く、天の父の幼子たちにふさわしい。自身が情報そのものである人にとって、真の安らぎは、無情報の神につながれて自身の意識の領域が無情報の状態になることにある。人は、「あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で最も呪われる」(創世記3:14)と神に宣告された人の偶発的情報の重荷を負っている。これから逃げ、自然や植物、動物たちの間でつかの間の安らぎを得る。とは言え、これらの安らぎもまた、偶発的情報にすぎない(本ブログ№4参照)。しかし、ご聖体の前に留まり無情報である神に注目すると、これを邪魔するさまざまな記憶やフィクションが発現し、容易に捉えられ流されてしまう。人は、自身の記憶に保持されている偶発的情報と日常的につながっているからだ。そこで、十字架上のキリストに目線を移すことで、この症状を癒すことができる。神の置いた敵意そのものとなったイエスが天の父と一つになって引き寄せるからだ(本ブログ№2324参照)。そして、イエスの御父への感謝の祈りは、信徒たちのものになる。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11:25~30)。

Maria K. M.


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