イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/12/26

71. 滅びに至る門 その1

イエスがベタニアで香油を注がれる場面は、ルカ以外の3つの福音書全部が記載している。マタイとマルコ福音書の女性たちは、イエスの頭に香油を注ぎかけて終わる(マタイ26,7、マルコ14,3参照)。一方、ヨハネ福音書のマリアは、この2人と違う特別な行為をした。彼女は、香油を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った」(ヨハネ12,3)のだ。この行為によってマリアは、イエスの足に塗ったナルドの香油の香りを自分の髪にも移した。

当時、祭司長たちとファリサイ派の人々は、最高法院を召集して話し合い、イエスを殺そうと決めていた(ヨハネ11:53参照)。 マリアは、彼女のところに来ていたユダヤ人からそれを聞いて(ヨハネ11:45~47参照)、この夕食が、彼女にとって、イエスとの最後の時になるかもしれないと覚悟した可能性がある。彼女は、イエスが、足に塗られたナルドの香油の香りを慕って、同じ香りのする彼女の髪を求めて来るかもしれないというフィクションの中で(雅歌1:12参照)、自分を「キリストの花嫁」にしたのだろうか。

家は香油の香りでいっぱいになった。そのとき、イスカリオテのユダがマリアに向かって、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12,5)と言った。それに対してイエスが「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだ」(ヨハネ12,7)とたしなめた。しかし、この言葉が、金入れを預かっていてその中身をごまかしていたユダに向けられた言葉だったとしても、マリアに対するイエスの対応は、他の福音書の場面に比べてあまりに冷淡だ。マタイとマルコの福音書の中でイエスは、高価な香油を注いだことを非難した者たちに、まず、「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(マタイ26,10、マルコ14,6)ととりなしている。そして、頭に香油を注いだ女性の動機を、「この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた」(マタイ26,12)、「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(マルコ14,8)と語り、さらに、「よく言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタイ26,13、マルコ14,9)とまで言っている。

こうしてみると、ヨハネ福音書のこの場面の記述には、もう一つ特徴的なことがある。3つの福音書の中でヨハネ福音記者だけが、ベタニアで香油を注いだ女性をマリア、その行為を非難した者をイスカリオテのユダと特定していることだ。ここには、ベタニアのマリアを、イエスを裏切ったイスカリオテのユダと同列に置くという意図があったのではないか。それは、ヨハネ福音記者がこの場面の前の章の冒頭で、「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」(ヨハネ11:2)と書いたことにヒントがある。

Maria K. M.

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