2022/10/31
63. パウロと認知のゆがみ
ここ何回か、現代のカトリック教会が、教会自身や司祭についてどのように理解してきたのかについて、「認知のゆがみ」という切り口で考察してきた。これは、現在、全世界で進められているシノドスの道の取り組みをある程度意識したものである。また、今年は第2バチカン公会議開会60周年である。そこで今回は、公会議文書にさかのぼる形で、これまでの考察を続けてみたい。まず、本ブログ№59でも紹介した、教会憲章の「キリストは、教会を自分の花嫁として愛し、妻を自分のからだとして愛する夫の模範となった」(教会憲章第7節)という表現を取り上げる。この表現は、使徒パウロのエフェソの教会への手紙(5:25~28)から取られている。ここでパウロは、夫と妻に対する勧告という形を取りながら、キリストと教会の関係を、妻と夫の関係になぞらえて説明しているうちに、ロジックに破綻を来してしまったことに気づいた(エフェソ5:22~33参照)。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)と言った時、「父母」という言葉が彼の琴線に触れたのだ。そこで彼は、「この秘義は偉大です。私は、キリストと教会とを指して言っているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(エフェソ5:32~33)と言って、唐突に話しを切り上げてしまう。そして、早々に子どもたちと父親の関係に話題を移した(エフェソ6:1~4参照)。ところが、教会憲章の表現は、妻と夫の関係をそのままキリストと教会の関係に当てはめてしまった。認知のゆがみが起こったのだ。妻と夫の関係は、生まれてくる子を介して、母と父の関係になる。これとは異なり、キリストと教会の関係は、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイ12:49~50)というイエスの言葉によって、誰の仲介もなしに母と子の関係になる。「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも」とは、キリストの周りに集う人々であると同時に、「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)と言ったイエス自身に他ならない。キリストは教会の兄弟、姉妹、母である。そこで、ミサに集うキリスト者の共同体は、母なる司祭と、その子として、兄弟、姉妹なる信徒で構成される。司祭は、み言葉によってパンと葡萄酒がキリストの体と血になるために聖霊と協働し、イエスの名によってこれを願い求める母になる。信徒は、この母を通してみ言葉を聞き、信仰をもってキリストの体を受け取って食べる子になる。ゆえに、最期の夕食の席で、聖体を制定し、これから十字架上で教会を生み出そうとしているイエスは、同じ職務を全うすることになる使徒たちに次のように言った。「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:7~8)。
Maria K.
M.