イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2023/07/03


98.  「イエスの証しは預言の霊なのだ」

これまで見てきたように、黙示録を朗読し、それを聞くヨハネの黙示の訓練者は、黙示録の第4の「幸い」、すなわち「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」(黙示録19:9)の幸いに同伴されて、福音書に記された「イエスの証し」が、黙示録において「預言の霊」の仕方で実現されていく過程を、著者ヨハネと共有することになる。その例を以下に具体的に見ていくことにする。この過程を共有することによって、ヨハネの黙示の7つの「幸い」の中で唯一「幸い」の理由が書かれていない第4の「幸い」に解を与えることが可能になる(本ブログ№32参照)。それは、神の国で過越しを成し遂げる第一歩である。 

本ブログ№95で考察したように、白い馬に乗っている方は、メシア、神の子であった(黙示録19:11~13参照)。続けて、「天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い上質の亜麻布を身にまとい、この方に従っていた」(黙示録19:14)という描写は、マタイ福音書のゲッセマネの園で、「私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26:53)というイエスの証しが、預言の霊の仕方で実現されたものであった。 

「この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである」(黙示録19:15)の描写は、ヨハネ福音書のキドロンの谷の向こうにある園で、「イエスが『私である』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(ヨハネ18:6)という証しが、預言の霊の仕方で実現されたのである。 

「また、自ら鉄の杖で彼らを治める」(黙示録同上)の描写は、「茨で冠を編んで頭に載せ、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した」(マタイ27:29)と言う証しが、預言の霊の仕方で実現されたものである。 

「そして、この方はぶどう酒の搾り桶を踏む。そのぶどう酒には、全能者である神の怒りが込められている」(黙示録同上)という描写は、4つの福音書すべてに記載されたイエスの受難の血の証しが、預言の霊の仕方で実現することを表している。 

これらイエスの受難の場面では、誰がイエスか、また、イエスは誰なのか、神の子か、メシアか、ユダヤ人の王か、という問いが付いて回った。イエスは、これらの問いに対して、常に”神の現実“を語って証しした。「この方の衣と腿には、『王の王、主の主』という名が記されていた」(黙示録19:16)という描写は、イエスの名に関わるこれらイエスの証しが、預言の霊の仕方で実現されたのである。 

世の人々は、誰でも、婚礼の祝宴に招かれている者は幸いだと言うだろう。しかし、「小羊の婚礼の祝宴に招かれている者」の幸いは、この婚礼の祝宴が「小羊」のものであるところに、その特異性がある。「小羊の婚礼の祝宴」は、「神の大宴会」(黙示録19:17)になる。

Maria K. M.


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