イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/02/28

28. フィクションの門

ファリサイ派との離婚問答で、イエスは、創世記を引用して次のように答えた。「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:5~6)。人は、性交によって結ばれるという他の多くの生き物と共通の生殖行動を持っている。そこに、精子と卵子が一体となった受精卵が生まれる。これは人も他の生き物も共通である。しかし、次にイエスが「一体」を繰り返し強調したのは、その後に人だけに起こる特別な出来事があるからだ。創世記の2章にあるように、他の生き物は、初め神が土から形作ったプロセスを自発的に繰り返し、生きるものになる。しかし、人の受精卵は、他の生き物とは異なり、受胎すると神が命の息を吹き入れ、遂に人となる。人が神の似姿となるために、神と女と男は、それぞれの命を与え合うのだ。これが、「神が結び合わせてくださったもの」の真の意味であり、ここにイエスが「人は離してはならない」と命じたみ言葉の重さがある。そして、これが「神が人にとって父と母である」という真理をすべての人が共有する原点である。マタイとマルコの両福音書は、このファリサイ派との問答の後, 人々がイエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちを連れて来る場面を挿入している。自分も子供だったことを忘れた大人に、「神が人にとって父と母である」という真理は遠い。そこで、近づいてくる子供たちを見て、弟子たちは自身に矛盾を感じた。神から離れている自分たちを明らかに見たからだ。彼らはそれを覆い隠すために、子供はイエスにふさわしくないというフィクションを共有し、子どもたちを連れて来る人々を叱った。イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)。弟子たちがフィクションから覚醒するために、イエスは神の現実をぶつけたのだ。人々は、フィクションの中にさまざまな門を見る。しかし、どの門も現実に通じることはない。ただみ言葉だけが、人々のフィクションを突破し、人々を神の現実に向かわせる。

Maria K. M.  


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