イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2022/02/07


25. 意識の領域

人が、「存在」を「ある」ものとして感じるのは、自発性を持っているからだ。その源は、創世記1章によれば、天と地、そしてその森羅万象が、「~あれ」という神の言葉によって創造されたことによる。この神の言葉が、すべての被造物に自発性をもたらしたのだ。人は、この自発性を自身が持っていることを意識できるために、自分が向かう対象に「ある」ものを感じて、それを「存在」だと受け取っている。そこで、聖書の中で、神が「私はある」と言うときも、神が「存在」することだと受け取ってしまう。しかし、聖書において神が「私はある」と言うとき、それは、神が人と共にいることを意味している。出エジプト記の柴の箇所で、その名を尋ねたモーセに、「私はいる、という者である」(出エジプト記3:14)と答えた神は、「私はあなたと共にいる。これが、私があなたを遣わすしるしである」(出エジプト記3:12)と教えている。イエスもまた「私はある」という言葉を、「神が人と共にいる」という意味で使った。私たちがリアルだと感じている世界は、脳の意識の領域で組み立てられる。つまり、人間の脳は、外界から取り込んだ情報を構成しなおして、いわばバーチャル・リアリティーを作っているのだ。神が人と共にいることを、人がリアリティーと確認するためには、その空間とそこで起こる事柄を共有する複数の人のつながりが必要だ。イエスは、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と言って、そのつながりがイエスの名であることを求めた。イエスが3人の使徒たちに強烈な体験をさせた主の変容の場面は、まるでメタバースのようだ。私たちは、メタバースでもイエスの名によって集まることができる。

【参考】1. 「私はある」という言葉を、「神が人と共にいる」に入れ替えると、ヨハネ福音書の各節は次のようになる。「『神が人と共にいる』ということを信じないならば、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(ヨハネ8:24)、「あなたがたは、人の子を上げたときに初めて、『神が人と共にいる』ということ、また私が、自分勝手には何もせず、父に教えられたとおりに、話していることが分かるだろう。」(ヨハネ8:28)、「よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『神が人と共にいる』」(ヨハネ8:58)、2. 「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口を挟んでイエスに言った。『主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、ここに幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。』ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、雲の中から、『これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け』と言う声がした。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」(マタイ17:1~6)

Maria K. M. 


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