2024/03/25
136. 王たちの道
共観福音書は、イエスが十字架を背負う場面を記していない。一方、ヨハネ福音書は、「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」(ヨハネ19:17)と書いている。
「十字架」は旧約の預言にはない言葉である。そこから、イエスの十字架の証しは、新しい契約に関する事だと捉えると、イエスが「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(マタイ16:24)と、弟子たちに語った言葉に特別な意味が見えてくる。
自分を捨てた人が負う「自分の十字架」は、その人のものではない。それは、イエスが、誰にも話さないようにと弟子たちを厳しく戒めた「キリストの名」を示唆している(マタイ16:20参照)。受難の予告(マタイ16:21~23参照)を挟んだここには、イエスが弟子たちに、この名を「自分の十字架」として背負うことを求める含みがある。
自ら十字架を背負い、ゴルゴタへ向かったイエスの歩みは、最期の夕食へ向かったイエスの公生活と重なる。十字架上のイエスの体と、イエスが「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と言ったパンは、同じキリストの体である。ゆえにこのパンも、イエスの体が死を受けたように死ぬのである。
「キリストの名」を背負ってイエスに従う道は、常にミサ典礼に向かう。真理を通り命に至るその道は平坦ではない。たとえ時代に恵まれた私たちでも、様々な障害や障壁の前で身動きができない状況に遭遇する。ペトロが「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じてはなりません。かえって、この名によって神を崇めなさい」(1ペトロ4:16)と書いたと同じ思いを持って、それらを乗り越え、ときにやり過ごし、ただひたむきにミサ典礼に向かう道を求めて行くのである。
そして、派遣の祝福を受け、次のミサ典礼へと向けて日常のルーティンに入るキリスト者たちの辿る道は、「日の昇る方角からやって来る王たちの道」(黙示録16:12)になる。「日の昇る方角」とは、「神である主が僕たちを照らす」(黙示録22:5)ミサ典礼の場を指し、「王たち」とは、「地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」(黙示録1:5)に従うキリスト者たちである。
イエスは自ら十字架を背負い、「ヘブライ語でゴルゴタという所」へ向かわれた。彼の弟子たちは、自ら「キリストの名」を背負い、「ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所」(黙示録16:16)に向かう。黙示録において、汚れた三つの霊が王たちを集めた所だ。そこには「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」(黙示録20:11)が待っておられる。イエスが未来の教会に託した悪霊の救いの業は、ここで起こる。
Maria K. M.