2024/02/05
129. 「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」 その2
神が「女」と「人の偶発的情報」(蛇)の間に置いた「敵意」(創世記3:15参照)は、女性の産みの苦しみによって、子孫に受け継がれた。その働きは、人が「人の偶発的情報」を区別するよう絶えず促し、やがて人々の「人相応の知識と記憶」は、その中から神の言葉を代弁する預言者が現れるまでに成長した。「命の木に至る道を守るため」神が置いた「ケルビムときらめく剣の炎」(創世記3:24)は、「命の木」があることの目印になった。ゆえに人は、隠されてはいても、「命の木」が自分の中にあることを感じるのである。
さらに時が満ちて、マリアが、ヨセフが、そして、洗礼者ヨハネが生まれた。そこで、神は独り子として「言」を遣わした(ヨハネ1:1~5参照)。ヨハネ福音書は、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)、「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)と証しした。
イエス・キリストは、神が父であることを教え、神に「天の父よ」と呼びかけて祈ることで、天の父と子の関係を人々が自ずと身につけ、神の言った「我々のかたちに」(創世記1:26)という言葉が実現するように導いた。それは、神がダビデに予告したことが、ソロモンにおいて実現できなかったことを成就するためでもあった(サムエル記下7:14参照)。
イエスは、「人の偶発的情報」を明確に示した。人々がこの情報を区別することは、「命の木」への道が開かれたことのしるしである。「命の息」を吹き込まれた人に、「神の姿」が現われるためには、「命の息」が「命の木」とつながることが必須である。
イエス・キリストが宣教の初めに荒れ野で「人の偶発的情報」(試みる者、サタン、悪魔)と対峙した出来事は(マタイ4:1~11参照)、彼に付き従う多くの弟子たちのために、偶発的情報を区別する業を見せておく重要な場面であった。イエスは、ここで、試みる者や悪魔やサタンが誰であるかを暴露したのみならず、詩編の言葉をもって誘惑する「人の偶発的情報」を、申命記の言葉を引用して退けたことは興味深い。
さらに、この場面でのイエスと「人の偶発的情報」とのやり取りのテーマが、創世記の「女」と「蛇」のやり取りと酷似している。それらは、初めに食に関すること(創世記3:1、マタイ4:3参照)、次に生死に関わること(創世記3:4、マタイ4:6参照)、最後に知識や栄華の獲得に関わることである(創世記3:5、マタイ4:8~9参照)。イエスは、創世記の初めの二人の過ちを、ことごとく修復したのである(本ブログ№116参照)。
Maria K. M.
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