2024/03/04
133. ヨハネの黙示における二つの「魂」
ヨハネの黙示には二か所に「魂」が登場する。一つは、前回考察したように、「また私は、イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂を見た」(黙示録20:4)にある「魂」で、彼らは、生きている者たちであった。
もう一つは、「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂を、祭壇の下に見た」(6:9)にある「魂」で、彼らに「魂」があるのは、「殺された」のに生きているからだ。
本ブログ№15で考察したように、「第五の封印」は使徒言行録を指している。この書には、使徒たちが彼らの証しを立てる様子が詳細に描かれている。したがって、黙示録の著者が「祭壇の下に見た」魂は、これらの使徒たちである。
使徒言行録における彼らの宣教活動の根底には、福音書に「ペトロは、『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(マタイ26:35)と記載されたように、イエスに向かって「自分たちが立てた証し」がある。使徒たちは、その時全うできなかった証しを、聖霊が降臨したことによって成し遂げたのだ。
そこで、黙示録の箇所には、「彼らの一人一人に白い衣が与えられ、それから、『あなたがたと同じように殺されようとしているきょうだいであり、同じ僕である者の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と告げられた」(6:11)とある。
彼らは、「祭壇の下」で、自分たちと同じように「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに」、今日もミサ典礼を挙行する「きょうだいであり、同じ僕である者」たちを見つめ、その数が満ちるのを待っている。彼らは、この時ミサ典礼に与る信者たちと共に集っているのだ。
この二つの「魂」、「イエスの証しと神の言葉のゆえに首をはねられた者たちの魂」(20:4)と「神の言葉のゆえに、また、自分たちが立てた証しのゆえに殺された人々の魂」(6:9)は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25~26)というイエスの言葉の実現である。
それは同時に、「陰府の門もこれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)というイエスの言葉を証ししている。そして、二つの「魂」に共通の「神の言葉」とは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)という「神の真実の言葉」(黙示録19:9)である(本ブログ№95参照)。
次回は、黙示録の「その他の死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である」(黙示録20:5)から考察する。
Maria K. M.
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