2024/04/22
書道家/書家 山崎 絹 作 |
140. 神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです
前回書いたような事情で私が洗礼を受けたのは21歳のときである。やがて他の信者との分かち合いの場で、さまざまな体験を聞くようになると、神は日々人々を訪れ、その御手で運ばれることを知った。私は、夜イエスのもとを訪ねたニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と言った御言葉を思い出した。
全能の神の仕方は、神の霊に素直に導かれる者の記憶に、完全で真の親のイメージを深く刻み込んでいく。パウロが、「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」(ローマ8:14)と言えたのは、「この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます」(ローマ8:16)という実感に基づいている。彼も神の御手の運びを体感していたのだ。神を父と呼ぶことを教えたイエス・キリストの御言葉と御業が、その名によって来られた聖霊によって、キリスト者となった私たちの知識のすべてになろうと絶えず働きかけるのである。
このような仕方で、神と出会い、教会に導かれた私は、聖書と教会の教えやその歴史をいろいろ学ぶうちに、ヨーロッパの歴史が育み、守ってきたキリスト教文化を通して表現される教えに直面するとき、その難しさを感じるようになった。ギリシア哲学もゲルマン民族の大移動も、イスラム文化との出会いも全くない、ゆえに教父たちの教えや伝統に接する機会もない文化の中で、自分が大人になったことを痛感した。
私にとって教会の教えとは、1997年にラテン語規範版として公布されたものの日本語訳である「カトリック教会のカテキズム」と、2003年に発行された日本版要理書「カトリック教会の教え」である。その中で、もとは天使であったとされる悪魔、サタンに関する記述については、悩ましい問題だった。解説に矛盾を感じてどうしても自分のものにならず苦しんだ。
そんなある日、私は、1981年に訪日した聖ヨハネ・パウロ二世教皇の、広島でのスピーチを思い出した。その冒頭には、「戦争は人間のしわざです」という有名な言葉がある。わたしの注意は、「人間のしわざ」という部分に集中していった。
つづく
Maria K. M.
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