イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(ヨハネの黙示1,1~3)

 2024/04/08


138. 見ないで信じる者

次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンを生きる信者たちのたどる道は、悪霊たちに「王たちの道」(黙示録16:12)と映る。このため、「全能者である神の大いなる日の戦い」(16:14)に向かう悪霊たちを引き寄せる(本ブログ№56参照)。 

一方20章では、ミサ典礼が終わり、世の只中に出た信者たちは、「人の偶発的情報」を区別することなく、自分の知識として取り込み、サタン化した人々と遭遇する(20:7参照)。この人々はこのまま死ねば悪霊になる人たちである。神のみ前では、死んだまま生き返らないで悪霊になったケースも、生きていて悪霊候補者になったケースも同じに見える。「人の偶発的情報」を取り込んだ「人相応の知識と記憶」が、「命の息」に張り付いている状況に変わりがないからだ。 

ゆえにキリスト者は、彼らが救われるために、次のミサ典礼へと向かう日常のルーティンを生きて、彼らをミサ典礼に誘導する「王たちの道」を示す責任がある。私たち信者は、「キリストの名」を背負っているからだ(本ブログ№136参照)。 

この責任には幸いが伴う。ルカ福音書で、エマオに向かう道で復活したイエスと出会った弟子たちの体験について、「イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24:30~31)と書いている。ここで、「その姿は見えなくなった」と書かれたことは、暗示的である。 

新約聖書を手にしている私たちは、ミサ典礼の中で司祭によって裂かれたパンが、「その姿は見えなくなった」キリストの体であるとわかる。そして、信者がこのキリストの体を前にして、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16、ヨハネ11: 27参照)と告白することは、復活したイエスに向かってする信仰告白になる。ここで信者は、イエスがトマスに言った、「見ないで信じる人」(ヨハネ20:29)の幸いを得る。 

さらに、私たちが、イエスが最後の食卓で「取って食べなさい。これは私の体である」(マタイ26:26)と命じた言葉に従い、配られたご聖体を見て、自身の手で触れて、食べるとき、私たちは、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい」(ヨハネ20:27)とイエスがトマスに命じた言葉の意図するところを、全身で受け取ることになる。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と諭したイエスの言葉に応えていくのである。

Maria K. M

ヨハネの黙示の預言的構成



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