2025/03/17
187. 7人の弟子と7つの手紙(第1と第2の手紙)
前回の考察で、ヨハネ福音書の復活したイエスの最後の言葉にある「わたしの来るときまで」(ヨハ21:22)が、黙示録のアジア州にある7つの教会の内、スミルナにある教会を除く6つの教会の天使に宛てた手紙のテーマになっていること、そこからこの言葉は「新約聖書が成立するときまで」の意であったこと、そして、その言葉を解釈したヨハネの心には、すでに黙示録が予感されていたことが分かった。そうであれば、この箇所でヨハネ福音書と黙示録、さらに他の福音書をつなぐ側面が見つかるかもしれない。
そこで、復活したイエスの第5のエピソード、ティベリアス湖畔での大漁の場面で、そこに集まっていた7人の弟子たちと、黙示録の7つの教会の天使への手紙との間には、相関があるのではないかと考えた。7人の弟子たちについては順に、「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」(ヨハ21:2)と書かれている。この順に7つの教会の天使に当てはめ、それらの手紙の内容と相関があるかどうかを検証する。
第1の手紙の宛名である「エフェソにある教会の天使」(黙2:1)は、7人の弟子の順でいくと初めに書かれたシモン・ペトロに当たる。「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」(2:4~5)とあるのは、主の受難の夜、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハ13:37)と言ったペトロが、鶏が鳴く前に三回否んだことが符合する。続けて、「もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」と言われている。黙示録で「燭台」は教会であって(黙1:20参照)、「あなたの燭台」はここだけに出てくる。そこでこの「燭台」は、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)とイエスが言った教会を指すとみられる。
また最後に、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう」(黙2:7)とあるのは、ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(マタ19:27)と言ったとき、イエスが、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(19:29)と言ったことと合致する。「永遠の命を受け継ぐ」と「命の木の実を食べさせよう」は同義である。
第2の手紙の宛名である「スミルナにある教会の天使」(黙2:8)は、ヨハネ福音書の7人の弟子の順でいくと「ディディモと呼ばれるトマス」に当たる。トマスは、復活したイエスが初めて弟子たちに現れたとき、弟子たちと一緒にいなかった。ヨハネ福音書にその名がたびたび登場し、イエスの重要な場面でイエスとのやりとりがあったトマスにとって(ヨハ11:16,14:5参照)、復活したイエスが彼のいないときに弟子たちを訪れたことはショックだったに違いない。福音書には、「ほかの弟子たちが、『私たちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」(20:25)とある。
黙示録の第2の手紙は、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方が、次のように言われる」(黙2:8)という言葉で始まる。「一度死んだが、また生きた方」とは、イエスの復活を信じないと言ったトマスに向けられている。そして、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)と書かれているのは、イエスが生前ラザロを蘇らせるためにベタニアへ行くとき、トマスが「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハ11:16)と言っていたことと符合する。彼が自身の言葉に忠実に生きて、命の冠を授けられるなら、「決して第二の死から害を受けることはない」(黙2:11)。
前述のように、この第2の手紙には、他の6つの手紙に載せられている「わたしの来るとき」のテーマがない。復活したイエスが、上記のエピソードでトマスだけのためにもう一度弟子たちの所に来たことを考慮して(ヨハ20:24~29参照)、この手紙から省かれた可能性がある。また、それによって、ヨハネ福音書の7人の弟子たちと黙示録の7つの教会の天使への手紙との間に関りがあることに気付くサインになっているのかもしれない。
つづく
Maria K. M.