2024/10/28
167. 召命
前回の考察の結果は、大変興味深いもので、聖フランシスコが助祭職を受けた理由が分かる気がした。ヨハネの福音書と黙示録を題材にしたサン・ダミアーノの十字架像に呼ばれた彼は、無意識の内に自分が「イエスの召命」を持っていると感じていたのではないだろうか。それは、イエスが天の国のために自ら独身となった者として生き、「御父」に対して最期まで「子」であり続けることで残した「イエスの召命」である。
イエスに倣って天の国のために自ら独身を生きる召命に恵まれた者は、自分にそれがあることが分かる。イエスが、「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)と言った言葉は、この召命を自分が持っていることを受け入れた男女の信徒が、自由にそれを生きることができることを保証している。「イエスの召命」は、それを受け入れた者を、イエスのように、「神の国」のありかを告げる「恵まれた者」(19:11)にする。しかし、男性であったフランシスコは、教会が彼を司祭職へ招くことによって大いに苦しむことになる。彼は、自分の内にすでにあった「イエスの召命」への愛と、教会への愛との間で板挟みとなったからだ。司祭職への招きは、「マリアの召命」を受け取ることへの招きであり、両者は異なる召命である。
イエスの司祭職は、その母マリアが天使のお告げに答えたことに始まった。マリアは、イエスと共に彼の司祭職も受け取ったのである。ヘブライ人への手紙に、「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」(ヘブライ5:4~5)と書いてあるように、イエスは、神から召されて受けるこの光栄ある任務を、いわば母マリアから受けたのである。そこでイエスは、母のために「最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ2:11)。水がぶどう酒に変わったこのしるしは、次に、ぶどう酒が御血に変わる前表であった。マリアは、天使を前に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と言った言葉を、まさに生涯をかけて生きていたのである。イエスは、そのマリアの願いが御父に向かっていたことを知っていた。
イエスが行った聖体制定によって、パンとぶどう酒が、キリストの体と血になったご聖体が、イエスと共に最期の食卓を囲んだ使徒たちに食べられ、飲まれたことによって起こったご聖体の誕生と死は、イエスの誕生と死の現実の再現であった。イエスは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)という御言葉によって、この業を未来も継続するように命じた。イエスを産み、イエスの十字架上の死を体験し、イエスの誕生と死を完全に共有した唯一の人である母マリアの現実は、聖霊と協働してご聖体を生み出し、その誕生と死を共有する司祭たちの体験の源であり、新しい契約の司祭職である。イエスは、十字架上で、母と使徒を親子の絆で結んだ。それは、使徒が、聖霊が降り、いと高き方の力に包まれてマリアが受け取ったイエスの司祭職と、未来永劫結ばれたことのしるしである。ゆえに、司祭は、「マリアの召命」を持っている。
イエスは最期の食卓で、「マリアの召命」を受ける使徒たちの願いが、ご自身から(ヨハネ14:13~14参照)、聖霊へ(15:7~16参照)、そして、御父に向かうまで彼らを導いた(16:21~27参照)。そして教会は、イエスのこの導きに応えた。司祭は、ミサ典礼の中でパンとぶどう酒を前に、「主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」と祈る。使徒たちの役務を受け継ぐ者である司祭だけができるその祈りを、司祭は、生涯をかけて捧げるのである。ご聖体は、ご自身が食べられて死ぬという業によって、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハネ17:19)というイエスの言葉を実現しながら、司祭たちの祈りを支え続けている。
つづく
Maria K. M.