2024/06/03
146. 嫉妬
本ブログ№139からこれまでの考察によって、悪霊や悪魔に関する私の考えをお伝え出来たと思う。私は、竜、蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者も、その使いたちも、その他この類、世界中でさまざまな名で呼ばれてはいても、それらは皆、情報だと捉えている。そして、あらゆる情報の基盤は、21世紀の今も「人の偶発的情報」である。一方、悪霊はどこまでも人である。そこには神ご自身が吹き入れた息が共にあって救われる時を待っているのである。この観点から続けて悪霊が生まれる原因を考察する。
被造物の自発性は、「わたしはある」という神の自発性がその源泉であるために自由である。神は、脳を土で形づくったあらゆる獣や鳥を「人」のところへ持って来て、「人」がそれぞれをどう呼ぶかを見ていた。「人」の脳は、土の塵で形づくられたので、親近感をもってそれらの生き物を呼んだ(本ブログ№144参照)。すると「すべて、生き物の名となった」(創世記2:19)とある。これは、人相応の知識と記憶と、情報を取り込む感覚機能や体の機能が、神が命じる「あれ」に応える自発性のもとにつながっていたしるしである。
それは、先に神が命じておいた二つのこと、第1に園のすべての木から取って食べること、第2に善悪の知識の木からは決して食べてはならないことを、聞いて記憶していたしるしでもある。さらにこの体験は、自分が名を付けたものの中には「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(創世記2:20)という記憶を「人」の脳に残した。
神は、このように準備し、「人」から「男」と「女」を創造した。「男」は神に連れてこられた「女」を見たとき、「女」が同じ人間であるもう一人の「自分」であるかのように感嘆の叫びをあげた。彼の口から感情がほとばしり出たことは、神が命じる「あれ」に応える自発性のもとに、魂が機能していることの表れであった。
ここで二人の間に、「人の偶発的情報」が発現した。「女」はこの体験をエピソード記憶にし(創世記3:1~5参照)、「園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない」(創世記3:3)と言った。この言葉から、ここにはすでに嫉妬の感情の兆しがみられる。嫉妬の感情には、欲しい物に「触れてはいけない」という考えが影響することがあると言われているからだ。
嫉妬の感情は欲求を刺激する。そこで、「人の偶発的情報」を自分の知識として取り込んだ二人の魂の内で、知的欲求が急激に肥大した(創世記3:4~6参照)。彼らの魂はその欲求を満たそうとして神から吹き入れられた「命の息」を強く求め、「善悪の知識の木」に向かった。そこで、彼らの欲求が「善悪の知識の木」とつながったと同時に「命の木」を飛び越え、「命の息」とつながった。彼らの脳内で起こったこれらのプロセスが、神が食べることを禁じておいた「善悪の知識の木」から取って食べるという行為として表に現れた。強い自発性とつながった体験によって、二人の目は開けた(創世記3:6~7参照)。
その影響は、「人」の体のほとんどを受け継いだ「男」に顕著に現れた。彼は、自分から何かが取られたという記憶を漠然と持っていた(創世記2:23参照)。彼は、それが非常に貴重な体の器官であることを、このとき悟ったに違いない。それは子宮であった。「男」は、子孫を産み出す体の機能を失っていた。タツノオトシゴの例にみられるように、子宮を雄に与えるアイディアが神にはあったことを考えると、神にはそれを取って「女」に与えた理由があった。「男」には、キリストの体を創造する神の助け手となる未来が置かれていたのだ。一方、子宮を与えられた「女」は、神がご自身の息を吹き入れる人の体、その創造の助け手になった。後に彼女はそれを自覚した(創世記4:1参照)。
「男」には、嫉妬の感情が起こった(創世記3:12参照)。それは支配欲に転じ、彼は「女」に名をつけた。彼は、神の前で、神が連れてきた「女」を、自分が呼べばその名になった他の生き物と同様にみなして見せ、自分が彼女を支配したことを誇示した。嫉妬と自慢は、欲望がある限り切り離せない感情である。こうして彼は、神に背を向けた。
つづく
Maria K. M.